第18章 Reward
#68 君と手をつなげる今日と、/ 武澤 結樹
七月下旬の金曜日。古巣だった合唱部が出場するコンクールの応援のため、
夕暮れの信野駅。中高生の頃は待ち合わせ場所によく使っていたし、周辺には馴染んだ店も並んでいる……地元に帰ると、やはり彼のことが思い出されてならない。
「……早すぎたよ、お前さ」
結樹の中学からの友人で、合唱部を共に過ごした
悲嘆も動揺も浅くなかったが、大学での諸々への支障にはならなかった。切り替えられるくらいには器用だった。胸に空いた穴は浅くないが、細いのも確かだった。
とはいえ。彼との思い出に近づくと、失ったことをより意識してしまう。
今だって、合唱部のステージに足を運んだなら、後輩たちを楽しそうに見つめる希和がいるはずだと思ってしまうのだ。たった一年前まで当たり前だった景色は、そう簡単に薄れてくれない。
迎えに来てくれた母と帰宅。仏壇で祖父母に帰省を報告していると、愛しい鳴き声が近づいてきた。
「おう
黒猫の六郎。結樹が八歳のときに保健所から引き取ってきた雄猫だ。
結樹は乗っかってきた六郎を抱えて、ソファに腰かけて撫でる。
「元気だったか六郎? 会えなくて寂しかったよ」
俺は別に寂しくないけど、お前が元気そうで良かったよ――という声は聞こえないのだが、そう言われた気がした。
六郎の喉を撫でる。満足げに目を細める六郎に癒やされながら、彼の年を思い出す。引き取ったときは四歳、それから十年。そろそろ、寿命と言われる年頃に差しかかりつつある。
高校に入った頃から少しずつ、六郎と別れる心の準備をしてきた。今だって考えると泣きそうだけど、悔いのないように接しているつもりだ。
けど、希和は違った。
高校を卒業すれば別の場所で暮らす、それはずっと分かっていた。けど、いつだってまた会えると疑っていなかった。また会う予定でいたから、そんなに情熱を込めた別れ方だってしていない。
腕の中で六郎が動く。結樹を見上げる黒い瞳が、「今いる人とちゃんと向き合え」と言っている気がした。
「……そうだね、六郎」
荷物の整理だけして、また家を出る。今夜は
待ち合わせ場所に来ていた詩葉は、結樹を見ると大きく手を振った……体は元気そうだが、たぶん空元気だな?
「結樹ひさしぶり~。ごめんね、帰ってきてすぐのところに」
「いいよ、明日が空いてる方が私も都合よかった」
「……結樹、なんか背伸びた?」
「靴のせいだよ、ほら」
「むう、結樹に盛られると余計に私がちっちゃくなるじゃん」
「詩葉はヒールやたら苦手だもんな」
交わす言葉は昔と変わらない、けどやはり空気が違う。
詩葉は明るい女子だが、その裏でいつも孤独や疎外感を抱えていた。それらを覆ってしまう朗らかさを忘れない人間だった。けど今は、覆えない悲しみをずっと連れている。
しかし結樹からそれを指摘するわけにもいかず、楽しい時間にしようと励む詩葉に合わせることにする。入ったファミレスで詩葉は、結樹の大学生活について盛んに聞いてきた。アカペラサークルの話をすると前のめりに食いついてくる、その姿勢は確かに詩葉らしいけれど、どこか無理しているように見える。
食べ終わったところで、結樹から切り出す。
「詩葉さ、」
「うん?」
「私に話したいことあるんだろ、今日」
「……うん」
詩葉の口ぶりは重そうだったが、心の準備はしてきたらしく。
「まれくんがね。もし自分が死んだら、私との間にあったことを話していいって、書き置きに残していたの。私は合唱部のみんなに言いたいと思ったし、まずは結樹に言いたかった」
「ああ、聞かせて」
詩葉と希和の間にあったことについて、結樹が分かること。
希和は詩葉を好いていただろうこと、確信。告白や交際の報告は受けていないこと、事実。どこかで希和が告白して詩葉が断っただろうこと、推測。
「高二の、
「そっか」
「中学のときからずっと好きだったって……結樹が私に言った通りだったね」
「そんなこともあったな……で、詩葉は?」
「お断りした、まれくんとは友達がいいって。その理由がね、」
その先を言いよどむ詩葉の表情を見て。
詩葉は、希和を振った理由を正当化できていないのだろうと気づく。
結樹をはじめとする多くの女子が抱いていたであろう、性的な拒絶。大事な仲間で、いい友達で、けど抱かれたくはないという感情。それを詩葉自身が許せないのだろう。
「手、」
詩葉に両手を伸ばす。詩葉が差し出した震える手を、しっかりと包み込む。
大丈夫。あいつが振られて傷ついたとしても、お前の罪じゃない。
そんな返事を用意していた結樹にとって、詩葉の回答はあまりにも予想外だった。
「結樹。私ね、女の人が好きなの。レズビアンだからどうしても、まれくんの恋人にはなれなかった」
――しまった、その思いで頭がいっぱいだった。
詩葉とつないだ手に力を入れ直す、今この手を離したら詩葉が傷つく。
「そっか。ごめん、全然気づかなかった」
「結樹が謝ることじゃないよ、私だって言わなかった」
「じゃなくて。周りにそういう人がいるって、全然考えてこなかったから」
「ああ、それは……これから考えてくれたら嬉しい」
詩葉が同性に恋する女性だとすれば。詩葉が結樹に向けていた、友達相手にしては過剰な好意の正体は――それがもし恋だったのなら、私はどれだけ残酷な振る舞いを。
結樹が無言で焦っているところに、詩葉が話を続ける。
「実はヒナも同じでね、部活にいた頃から付き合ってたの」
「
詩葉の恋心が、少なくとも今は自分以外に向いていることに安堵してしまう。
しかし、彼女との距離をどう測ればいいのか、一気に分からなくなった。
……こういうときに読み合うのは苦手だ、はっきり聞くのが私の流儀だ。
「詩葉さ。これから他の女子と……いや私と、どう接したい? これまでと何か変えたい?」
「私は変えてほしくないよ。全然気にしないってのは難しいかもだけど」
「分かった。どういうのが嫌とか、今までこういうので困ったとか、これから教えて」
「うん、ありがと……ふふ」
答える途中、詩葉が笑い出す。
「なんだよ」
「いや、あのね。ほんと結樹って、ずっとそうだよね。回り道しないで、最短距離で解決に向かおうとするの」
「まどろっこしいの苦手だからな」
「今は助かったよ」
詩葉は肩の荷が降りたようだった。さっきまで様子がおかしかったのは、結樹からの反応が心配だったからだろう。
「じゃあついでに聞くけどさ。詩葉が陽向と付き合ってるなら、他の女子とのスキンシップってNGなの? 男子からのと同じ判定になる解釈もできそうだし」
「私はハグとかまではアリだって思ってるけど……ヒナは結構嫉妬する子だから」
「陽向めちゃくちゃ面倒くさそう」
「うん、そこは擁護できない」
「ちなみに陽向は、詩葉とのことを他に言われるのはOKなの?」
「無条件にとはいかないから、誰に言うか二人で相談しているところ。ゆくゆくは、合唱部で知り合った人たちには伝えたいかな」
結樹が予想していたより、詩葉たちはカムアウトに積極的だった。
「……正直、全員が詩葉たちを歓迎してくれるかってのは自信ないし、私も説得しにくい」
「うん、距離置きたいって人が出てくるくらいは覚悟してる。けど、そうするのがまれくんへの恩返しだって思うから」
「ああ、そもそも飯田の話だったな」
詩葉の話を聞くと。高二の頃に自分が同性愛者なのではと考えはじめ、希和と陽向に相談したのだという。すると陽向も同じだと分かり、やがて付き合うことにしたという。
なんとなく、詩葉が何かを隠しながら説明している、あるいは事実を曲げている気配がした。しかしそれを問いただすのも間違いに思えたので、信じておくことにした。あの頃に結樹には言わなかった理由も、聞かないでおくことにした。
「けど、詩葉はなんでその二人に?」
「あの頃、ヒナがすごい私にくっついてきたじゃんか。そのとき私がすごく……ドキドキしてきて、だから恋なのかなって思ったのがきっかけ。女子に言うと気まずくなりそうだったからまれくんにしたんだけど……それはほら、まれくんって何言っても味方になってくれそうな人じゃん」
「特に女子には甘いからなあいつ……けど、飯田がお前を好きだったの、さすがに察しついてたんじゃ?」
「そうだろう、とは思っていたよ。けど、私も真剣に悩みだしてたから、気遣う余裕がなくて。
それに私は昔から、男子と付き合うの無理だなって思ってたから。男子は対象外だってまれくんに伝えて、それで彼が納得してくれるのが平和だろうって考えもあった」
結樹の知る詩葉にしては、随分と打算的な選択だった。ただ、それくらい賢くなってくれた方が結樹は安心できた。
「けどやっぱり、まれくんには辛い思いさせちゃったと思うよ。ずるかった、私は」
「詩葉は素直すぎて心配だから、たまに狡いくらいでちょうどいいよ。ただ……そうだな、飯田は辛かっただろうね。あいつ、お前のことめちゃくちゃ好きだったもん」
「……結樹にもそう見えたよね、やっぱり」
結樹と希和は、学校行事の運営をきっかけに知り合った。確かに気は合った、仕事仲間としても雑談の相手としても。あの頃の結樹にとって、歴史物の話ができる同年代は貴重だった。
しかし、希和があれだけ結樹との連携にこだわったのは、それが詩葉への接近につながるからだろうと解釈している。彼が合唱部への入部を決めたと聞いたときは、そんなに好きなら早く告白しろよと呆れもした。
「詩葉が飯田と相談して、陽向とはどう?」
「まれくんと相談して、ヒナには正直に言おうって決めたの。そうしたら、ヒナにはビアンの自覚があったって言われて。お互いに仲間だって喜んで、部活での共同作業も増えて、そのままヒナに告白された」
「じゃあ、元から陽向は詩葉のことが好きだった?」
「合同演奏会で会ったときから、だって」
「……そんな一目惚れ現実にあるのか、豪傑すぎるだろ」
陽向は何をやっても要領がいいし、学業も優秀だ。余分と判断したものを切り捨てすぎるのは短所かもしれないが、余計なことまで心配する詩葉とのバランスは良いとも言えそうだ。詩葉を任せるには適任だろう。
「それでまれくんは、私がヒナと付き合っていることを知って、告白してくれたの。
僕と付き合ってほしいとかじゃなく、ただ好きだって、一緒にいられたことが幸せだって……出会ってくれてありがとうって。あんなこと言ってくれたのに、なのに」
泣き出しそうな詩葉を見ていられず、結樹は彼女の隣に座って抱きしめる。
「まれくんに、あんなにたくさんもらったのに。全然返せてない、返せないまま逝っちゃったよ」
涙声の詩葉をさすりながら、結樹が見てきた二人を思い返す。ぎごちない時期も多かった、それでもお互いに深く向き合ってきた二人のことを。
「大丈夫。飯田が詩葉と仲直りしたこと、私にだって分かる。だってゴスペルのときもミュージカルのときも、あんな良いコンビだったじゃん。詩葉にあげられる限りの優しさなら、ちゃんと返せてきたよ」
――本当に?
合唱部引退から高校卒業までの間、希和は他の部員との交流に消極的だった。
特に、詩葉と接している様子はほとんど見なかった。避け合っているのかと、結樹だって思っていた。
「そうじゃないの……まれくんに重いモノ背負わせちゃったのに、ずっと悩ませたのに、それが何か分からないんだよ。解決できなかったってことしか分からないんだよ」
結樹以上に希和のことを見てきただろう詩葉の言葉は、結樹には簡単に覆せない。
「……飯田が、辛いまま逝ったとしてもさ」
心を天に向け、胸の中で頭を下げる――ごめんね飯田、また甘えさせてくれ。
「もう、詩葉が背負うことじゃないよ。詩葉が苦しむのなんて、あいつが悲しむに決まってる」
せめて、せめてこの子は離さずにいようと誓いながら。
詩葉が泣き止むまで、結樹は彼女を抱きしめていた。
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