#50 Your Real Name

「どうぞ、あの子に会ってあげてください」

 希和まれかずのお母さん・孝子たかこさんに案内され、私は仏壇の前に腰を下ろす。


 写真の中、微笑んで――微笑みを浮かべようと頑張っている、学ランの男の子。

 少し焼けた肌。短く揃った黒髪。黒縁の眼鏡の向こう、気弱そうな瞳。


 きっとこんな人だと、私が描いていた通りだった。私とよく似た眼鏡で、最初からお揃いだね、なんて今さら思った。つむぎさんもイメージ通りですよ、なんて今さら言われたくなった。


「かず、くん」

 呼びたかった名前。私の声で君に届けたかった名前。


「かずえ、くん」

 君がつけた名前。私に教えてくれた名前。


「……まれかず、くん」

 君につけられた名前。私が知らない長い時間を――もっと長いはずだった人生を、生きてきた名前。


 呼びかけても、写真の彼は答えない。もう永遠に返事はない、らしい。

 それでも、分かる。分かってしまった。


「君はずっと。生きていたんだ、ここで」


 偽物じゃなかった。高校生の和枝かずえくんは、希和くんは、確かに生きていた。十八年間。

 

 りんを鳴らし、合掌する。私がここで取り乱したらいけない。ずっと彼を育ててきたご家族の前で、ネット越しの知り合いでしかない私が取り乱したらいけない。上品に、行儀よく、礼儀を尽くさなきゃいけない、のに。


 立てなかった。希和の前から、離れられなかった。

 陽向ひなたから連絡を受けてから数日、ずっと心のどこかで考えていた。

 亡くなったなんて嘘であってくれないか。質の悪い冗談か、何かの間違いである可能性に、どこかで縋っていた。


 けど、本当に彼は、この世界から旅立ってしまった。

 待っているはずだった幸せ、歩むはずだった道、もっと一緒にいたかった人、何もかもを置き去りにして。


かずくん、私ね」

 喉が震える。積み重ねてきた、太らせすぎた想いが溢れていく。

「本当に。君に、あいたかったよ」


 会って、この声で、伝えたかった。どれだけ君に救われたか、どれだけ会いたかったか。

 けど、もう、永遠に。


 喉が、目が、壊れたみたいだった。

 涙と、叫びが、体を塗りつぶしていった。


 灯恵ともえさんが私を抱きしめながら、名前を呼んでくれていた。返事したくても、言葉を放てる体じゃなかった。


 言葉にならない声で、ずっと叫んでいた。


 和枝くん。希和くん。


 私は本当に、心から、君が好きだよ。

 人生を照らしてくれる物語をくれた小説家が好きだよ。

 私に輝かしい役目をくれた共演者が好きだよ。

 不器用なくらい優しい、恋に悩み続けた男の子が好きだよ。


 この声で呼びたかった。

 この体で抱き合いたかった。

 この世界を、君の隣で歩きたかった。


 君が生きてきたより長い時間。

 私たちが言葉を交わしたより、ずっとずっと長い時間を。

 君と一緒に、生きていたかった。


 この世と天国は、どれだけ離れているだろうか。

 これだけ苦しいなら、こんなに叫んだなら、その少しだけでも君に届くんじゃないだろうか。


 涙の一滴でも、声が揺らした空気の一欠片でも、君の魂に届いてくれればいい。

 どれだけ君を愛していたか、最後に君に知ってほしい。


 なのに。

 涸れて、嗄れても、届いた気配なんてどこにもなかった。

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