#48 Our Little Hope / 月野 陽向

 希和まれかずのお通夜に、陽向ひなた詩葉うたはと共に参列した。長居はできなくても、せめて焼香だけでも上げさせてもらうのがいいだろうと、二人で決めた。

 彼の訃報の翌日から、詩葉は声を出せない状態が続いている。すぐに医師の診察を受けたが、心因性の失声症だと診断されたそうだ。


 他の合唱部関係者の姿も見えたが、話し込むことは避けた。今の詩葉の状態は知らせてある、お互いに気を遣ってしまうだろう。無事な姿を確認しただけでも意味はあるはずだ。

 その夜、詩葉は陽向の家に泊まりにきた。詩葉の両親は遠慮したさそうだったが、明らかに強いストレスを抱えている娘の要望は聞くしかなかったのだろう。


 陽向と詩葉の交際は、陽向の両親には伝えてあるし、応援もされている。隠さなくてもいい月野つきの家の方が、詩葉にはリラックスできるのかもしれない。陽向の父・みのるも、「陽向に任せるからね」と言って、できるだけ二人でいられるように気を遣ってくれた。


 いまの詩葉にできるコミュニケーションは筆談だけで、スマホが重宝していた。陽向と寄り添いながら、詩葉は少しずつ気持ちを説明してくれた。


〈まれくんは、私のことを恨んでる気がするの〉

「どうして? 卒業してから、何か言われたの?」

〈言われてないよ。けど、私はずっと〉


 スマホのメモ帳に綴られた文字が、しばらく止まる。その間、陽向は黙って詩葉の頭を撫でていた。


〈ずっと、まれくんが幸せになる機会を、未来に先延ばしにしていたから〉

〈君の恋は、未来で必ず叶うから、信じて進んでねって〉

「それは……悪いことじゃ、ないでしょ? 詩葉からの思いやりだから」


〈願っていたのは本当だよ。けど、未来で叶うから今は我慢してくれ、私と諦めてくれって意味はあったんだよ。まれくんもそれは分かってたはず、それでも信じようとしてくれた。なのに、そんな未来〉


 フリック入力していた詩葉の指が、スマホを取り落とす。咽ぶ詩葉を、陽向は抱きしめる。

「大丈夫だよ。希和さんはちゃんと、詩葉の想いを分かっていたよ。一緒に過ごしてきた私はそう信じてる」

 詩葉が希和に保証していた幸せな未来が、永遠に来なくなってしまったこと。それを詩葉は、彼への裏切りのように感じてしまっているのだろう。


 この世を去ってしまった以上、希和の本心は確かめようがない。いまの陽向にできることは、詩葉が立ち直れるような彼の解釈を伝えることだけだ。彼と詩葉の関係を知っている、唯一の第三者であろう人間としての務めだ。


 灯りを消して、二人でベッドに入る。同じ布団にくるまれて、手をつなぎながら。

「おやすみ」

 詩葉の囁き声。今の彼女に出せる、あまりに頼りない限界だけど、ここでなら陽向にもちゃんと聞こえる。

「おやすみ」

 陽向も同じように囁きで返すと、詩葉に少しだけ笑みが浮かんだようだった。希和の訃報以来、彼女の笑顔らしい表情は見ていない。


 つないだ手から、詩葉の感情が陽向に伝わってくる。大切な人が生きている実感を、小さな手は必死に求めている。それが満たされた安堵が、彼女を眠りに誘っている。独りの夜は、不安と悔恨で寝付けなかったのだろう。


 以前なら、この距離で二人きりだったならキスしていたし、服の下まで手を滑らせていた。だが、今の詩葉がそれを求めていないことが、言葉にせずとも陽向には理解できていた。恋で、性愛で満たされることが許されるのか、詩葉は自らに問うているのだろう。


 希和のことは思い出にするしかない。生きている人どうしで支え合って、悲しみを乗り越えていくしかない。それが陽向の解答だ。

 けど、詩葉はそれじゃ納得できないのだ。詩葉は希和を拒んできた、切り捨ててきた――だからこれ以上、彼に背を向けることができない、彼を二の次に回せない。


 詩葉は悪くない。希和の失恋は、人として当たり前に認められた選択権の結果だ。

 けど、そうやって割り切ることができないのが詩葉なのだ。


 陽向は初めて、詩葉にとっての正解を見つけられずにいた。詩葉が希和との永訣を受容し、声を取り戻す、その道筋が掴めない。専門医に任せるしかないのかもしれないが、誰よりも詩葉を分かっている陽向がこれでは、あまりに情けない。


「……しっかりしろよ、私」

 寝息を立てる詩葉の隣で、陽向は無力感に苛まれていた。



 希和の訃報から五日後。彼の母である孝子たかこさんから、陽向ひなたに連絡があった。飯田家に来てほしいと言われたので、翌日に父と共に訪問する。


「昨日、東京のあの子の部屋の片付けに行っていたの。そうしたら、机の引き出しの中に、これが」

 孝子さんが見せてくれた封筒。「もし僕が死んだら、開けてください」と希和の字で書かれている。


「私たち家族に宛てた手紙も入っていたの。もし自分に何かあったときに、これだけはちゃんと伝えたいって、書いていたみたい」

「それは……遺された側を悲しませたくないから、でしょうか」

「ええ。育ててくれてありがとうって……まだ死にたくはなかったけど、最後まで幸せな人生でしたって」


 死にたくはなかった――彼がそう記していたことは、無念の象徴であるはずなのに。陽向はその言葉に、どこか安堵もしていた、してしまっていた。彼が生を呪っていた可能性を、心のどこかで危惧していた。

 卑怯な自分から目を背けて、陽向は孝子の話を聞く。


「それでね。これが、陽向ちゃんに宛てたもの」

「拝見します」


 孝子から渡された便箋に目を通す。


〈陽向さんにお願いしたいことが、二つあります。

 一つ目、詩葉さんを支えること。僕に言われなくても君は詩葉さんを最優先にするんだろうけど、僕からも重ねてお願い。きっと詩葉さんは、悔やまなくていいことまで後悔する、悪くないのに自分を責める。だから、詩葉さんは間違っていなかったんだと、君から何度も伝えてあげて。詩葉さんのせいで不幸だったことなんて、一度もなかったから。

 僕が守りたかった分も、詩葉さんの心を守り抜いてください〉


 どこまでも詩葉を想うのが、なんとも希和らしい。詩葉が苛まれることを、彼も予期していた――声を失うほどとは、考えていなかっただろうけど。


〈二つ目。僕がウェブで知り合った友人についてです。

 紡さんという、同年代の女性と思しき方です。僕しか連絡先は知らないので、僕にあったことを伝えてほしい。できたら、合唱部でのことを、君たちから伝えてあげてほしい。合唱部について僕が紡さんに伝えたいことも、彼女宛の手紙に書いてあります〉


 続いて、投稿サイトの名前や、ログインに必要な情報が記されていた。


〈最後に、陽向さんについて。

 君にはきっと、僕が死んでもひどいダメージは残らないと思う。だから君に託しました、そちらのことをよろしくね〉


 ひどいダメージは残らない――詩葉や清水といった親密な部員、孝子たち肉親に比べれば、確かに陽向は落ち着いているかもしれない。けど、喪失の痛みはずっと胸を占めている――ねえ希和さん、あなたが思うよりずっと、私はあなたが大切でしたよ。


〈君が詩葉さんに出会ってくれて、本当に良かった。どんな未来になったとしても、二人で幸せに生きてください。

 僕は、〉


 文字はそこで途切れていた。

「あの、孝子さん。希和さんがご家族に書いた手紙は、最後まで書かれていましたか?」

「多分、書きかけだったと思う。あの子は一人暮らしを始めて、何かあったときのために書いておかなきゃって思ったけど……まさかこんなに早いなんて、」


 孝子さんは喉を詰まらせ、背を向ける――こんなに早いなんて、彼だって想定していなかった。十八歳の四月、何もかもが新しく始まるはずだった時期に。


 希和のパソコンを借りて、その投稿サイトにログイン。

「――失礼しますね、希和さん」

 見慣れないレイアウトに戸惑いつつ、紡という人物とのメッセージを開く。


 どうやら彼女は、希和が急死する直前に、直接会いたいと誘いを持ちかけていたようだ。本来は無関係の陽向が見てしまうのもよくないが、その文面だけで彼女が希和に抱く感情が察せられた。

 きっと紡は、本気で希和を好きになろうとしている、あるいはもうなっている。


 その彼が亡くなったと知ったら、紡はどれだけ動揺するだろう――もし陽向なら、詩葉が亡くなったと知ったら。


「――っ、」


 想像しただけで、脳が焼けそうだった。本当にそんな知らせを聞いたら、理性なんてどこにも残らないだろう。衝動的に自死するくらい、ありうる。


 紡がパニックに陥るリスクを考えると、彼女のそばに誰かいるときに本題を伝えるのがいいだろう。連絡の信用度を上げるため、連絡先は陽向の携帯にした。本来なら知らない人に教えたくはないが、希和の知人なら信じていいだろう。何かあれば番号を変えればいい。


 そうした事情を考えつつ、文面を作成し。

 送信すべきか、しばらく悩む。


 紡はこのまま、希和の死を知らないでいることもできるだろう。突然に見放されたと思うだろうが、亡くなったと知るよりは楽かもしれない。希望がゆっくりと薄れて思い出になる、その方が優しいかもしれない。


 けど。陽向なら、好きな人のことで嘘をつかれたくない。

 どんなに苦しくても、それで自分の心が壊れようと、真実を知りたい。


 それに。紡はきっと、陽向たちが知らない希和の姿も知っているだろう。その中には、詩葉が探している希和の一面もあるかもしれない。同じように、紡が知りたいであろう希和の姿だって、陽向たちは知っている。


 きっと。きっと、お互いが悲しみから歩き出すきっかけになる――きっかけにするんだ。念じながら、陽向は紡へと文面を送信した。

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