#47 Her Lost Voice / 月野 陽向

 四月のその日。雪坂ゆきさか高校合唱部は、新たに加わった一年生と共に練習に励んでいた。

 三年生になった月野つきの陽向ひなたもその一人だ。一年前、陽向にとって大好きな先輩であり、秘密の恋人でもあった詩葉うたはが引退した。陽向にとって部活に通う理由そのものであった詩葉がいなくなって、しばらくは味気ない部活になってしまったけど、やはり歌うこと自体が好きなのだ。自分たちが部を引っ張る自負や、新たに仲間と出会う喜びを噛みしめながら、最終学年を迎えていた。


 ソプラノのパート練習の最中、顧問の松垣まつがき奈々なな先生が音楽室に入ってきた。いつもはパート練習に区切りをつけてから先生の指導になるので、部員は練習を続けるのが通例である――のだが。

 そのときの松垣先生の表情は異様だった。いつもの快活な笑みとは正反対の、張り詰めた眼差し、どこか蒼白な顔色。何かあったと直感しつつ、練習を続けるべきだと陽向が迷っていると。


「みんな、集合」

 松垣先生から指示。その声の震えに動揺しつつ、陽向たちは先生の周りへ集まる。

「……飯田いいだ希和まれかずくんのことで、お知らせです」

 先生が出した名前について、部長の沙由さゆが新入生向けに補足する。

「去年卒業した先輩だよ――すみません先生、続きを」

「うん、ありがとう沙由ちゃん。あのね、」


 深呼吸の後、先生は告げた。

「進学先の東京で亡くなったと、ご家族から連絡がありました。飛び降りた人の下敷きになったとのことです」


 一瞬の間の後、喉が潰れたような濁声の悲鳴が耳を刺した。

 テノールの清水しみずが崩れ落ちて泣き叫んでいた、希和と一番仲の良かった部員だ。アルトの香永かえが駆け寄って、彼を抱きしめて背中をさする。


 嗚咽する先生と、突然の知らせに実感のない上級生と、希和を知らないゆえに戸惑う新入生の中。陽向は、いま自分がすべきことを考えていた。

 陽向自身にはまだ冷静さが残っている。副部長である以上、陽向も部の代表として部員のフォローに回るべき――だけど。

 部長の沙由を見る。涙ぐんでいるが我を失ってはいない、だとすれば。


「先生」

「……うん、何?」

「副部長なのに申し訳ないんですが。詩葉さんが心配なんです、先に抜けさせてください」


 詩葉が陽向の恋人であることは、誰も知らない。けど、彼女が希和の訃報に深いショックを受けるだろうことは、先生も上級生も察しがついていた。地元にいる他の卒業生ではなく詩葉の名前が出たことにも納得するだろう。


「そうだね……詩ちゃんについててあげて」

「はい、ありがとうございます。沙由」

「うん、こっちは任せて。お葬式の確認とか、私が代表やるから」

「ごめん、お願い」


 すぐに荷物をまとめ、歩きながら詩葉に電話をかける。

「――もしもし、ヒナちゃん?」

 意外そうながらも、いつも通りの声。まだ知らせは届いていないだろう。

「詩葉、いま家にいる?」

「いや、予備校の帰りだよ。そろそろ着くけど」

「どうしても会って話さなきゃいけないことができたの。これから詩葉の家にいくから待ってて、後できるだけスマホとか見ないで」


 どんな状況でも、詩葉を最も強く支えられるのが自分だと、陽向は自負している。スマホのメッセージで知るより、陽向が言うのが一番マシなはずだ。


「……何か、あったんだね。分かった、親にも言っとく。ヒナちゃんは私の家は初めてだよね」

「大体の場所は分かるけど……そうだね、近くまで来たらまた掛けるから。どこ目印にしよう?」

「近くの公園って分かるよね? じゃあそこで待ち合わせよう」


 続いて、仕事中の父へメッセージを入れる。経緯を説明し、後で詩葉の家まで迎えに来てもらうようお願いした。

 電車に揺られながら、希和のことを思い出す。


 最初の印象は悪かった。詩葉に惚れて、彼女がビアンであることも察していた陽向にとって、詩葉を好いている希和のことは邪魔ですらあった。それが当たり前だからというだけで、詩葉が男子と付き合ってしまうことが怖かった。


 けど、希和は意外なほど、陽向と詩葉の関係を応援してくれた。叶わないと知っても詩葉に告白して、振られてもなお、友情を壊さなかった。仲間であることを選び続けてきた。

 希和の歌は、彼の手がけた歌詞や脚本は、陽向にとっても大事な思い出の一部だ。彼なりに幸せになってほしいと願っていたのは本当だった。


 それでも。

 今の陽向に、彼を悼む余裕はなかった。彼の死に傷つく詩葉をどう支えるか、それが最優先だった――こんな死なれ方なんて困るだなんて、筋違いにも程がある感情さえあった。


 詩葉と合流して、家へ案内してもらう。彼女の母へ挨拶する途中、ふと気づく。

「詩葉、先に部屋に行ってて」

「え? ……うん、分かった」


 詩葉が去ったところで、母親へ伝える。

「詩葉さんの友人で、合唱部の卒業生である方が亡くなられたそうです。それを伝えるために、お邪魔させていただきました」

 まだ伝わっていなかったのだろう、母親は口元を押さえて呻く。

「そんな……どの子かしら」

「飯田希和さんです」

「ああ、飯田くん……あの子、きっとすごく悲しむわ」

「はい。ですから、お母様に支えていただきたいのです」

「ええ。陽向ちゃんも、どうかお願いね」


 詩葉と母親の関係はあまりよくない、彼女が同性愛者であることも言えていないはずだ。しかし今、一番そばにいるのは両親である。陽向としても頼るほかない。


 詩葉の部屋へ。初めての彼女の自室で、本来なら興味は尽きないのだけれど、今はとてもそんな状況じゃない。

 二人でクッションに腰を下ろして、向かい合う。詩葉の目は不安でいっぱいだった、無理もないだろう。


「それでヒナちゃん、話って」

「詩葉、落ち着いて聞いてね」

 手を握りしめて、まっすぐに詩葉と見つめあう――言いたくない、愛らしい顔を悲痛に歪めてしまうのが嫌だ、純真な心に傷を刻んでしまうのが怖い。


 けど、知らないままではいられないから。詩葉に誰より信頼されている、陽向が伝えると決めた。  


「希和さんがね。飛び降りに巻き込まれて、亡くなったそうなの」


 詩葉の目が見開いて、陽向――をすり抜けて、宙を見つめる。


「――まれくん、」

 詩葉は彼に呼びかけて、それから。


「ごめん、なさい……ごめんなさい、ごめんなさい!」

 泣きながら謝罪を繰り返す。陽向を振りほどいて、床に頭をつけようとしながら。


「詩葉、大丈夫だから、詩葉!」

 詩葉が自身を傷つけてしまわないように、陽向は抱きしめて、耳元で呼びかけ続ける。

 けど、詩葉は今、陽向のことが目に入っていない。詩葉の中にいる希和へ、言葉にもならない涙声で、縋るように許しを乞い続けていた。


 どこまでも前向きに、陽向との恋路を、希和との友情を、私たちの未来を信じていた詩葉だった。


 去年、部活を引退する頃。残されるのを寂しがる陽向に、詩葉は言ってくれたのだ。


「今の私が、ヒナちゃんが。人生で一番、長く経験を重ねてきた、たくさん愛をもらってきた。これから毎日、一番強い私たちなんだよ」


 ――愛をもらった人を、強さを分け合ってきた人を失って。詩葉の築いてきた世界は、壊れようとしている。いつかお別れが来ることも理屈では知っていた、けどそれは数十年も先のことだと信じていた。

 数年かけて積み上げてきた、希和との絆。その深さが刃となって、詩葉の心を引き裂いていた。



 憔悴した詩葉を置いていくのは気が引けたが、陽向もよその子供である。父が迎えにきたところで、陽向は柊家を後にした。


 その夜、合唱部関係者の間で、希和についての情報が飛び交った。

 現場は彼の住まいのすぐ近く。マンションの屋上から飛び降りた女子中学生の下敷きとなり、二人とも死亡したという。

 

 合唱部の活動は、一日休んでから再開することになった。心がついていかないなら無理しなくていい、とも先生から連絡があった。

 陽向はただ、詩葉のことが気がかりだった。彼女は希和との別れを悲しんでいるだけでなく、彼への罪悪感で苦しんでいる。彼からの恋心にノーを返したことに、二人で十分に納得したはずなのに、今になって自責に駆られている。


 そして翌日、詩葉からメッセージが届いた。


〈私、声が出なくなっちゃった〉

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