第6章 Reflection

#20 前進と停滞と


 暦は三学期。学校に行けなくなってから、半年以上。

 心身ともに、一時期のような不安定さはだいぶ改善されてきた。学校と距離を置いたこと、自分の時間を多く持てるようになったこと、心療内科で投薬やカウンセリングを受けたこと、何より和枝かずえという支えが見つかったこと。それらに支えられての再生だった。


 とはいえ。


「じゃあ、そろそろ高校の復帰も考えてるの?」

 家庭教師のみゆき先生に訊かれ、私は首を振った。彼女から私の事情を詮索されることはなかったが、授業を重ねる中で私から打ち明けるようになったのだ。

「何回か授業参加にはトライしてきたんですけど、教室にいると一気にぶり返しちゃうんですよ……留年になったら気を遣うことも遣われることも増えるでしょうし、そこでまた人間関係で悩むのも怖いんです」


 身体は回復してきた、けれど。

 また社会に踏み入る強さが――苦痛や嫌悪を覚悟して踏み入る強さが、今も見つからない。


「きっと、心のスイッチを切れたら楽なんですよ。好きにならない代わりに嫌いにもならない、信じることもないから裏切られることもない、痛い距離まで踏み込まない。そう出来るようになったら、教室も平気になると思うんです。けど、」


 気分が上向きになったときに、少しずつ高校での日々を思い出してみているのだが。

 確かに、好きだったのだ。生徒に先生、その中にいる私、一緒に過ごした時間。

 大勢で、バラバラで、だからこそ重なり合うのが楽しくて。その重なり合いを私がつないでいる、その感覚が誇らしくて。


「私はまだ、昔目指していた自分を捨てきれないんです。学校でみんなと一緒にいた、みんなの中にいた自分に、未練があるんです。また望んでしまうから、きっとまた裏切られる……だったら、今はすっぱり縁を切った方がいいと思ってます。

 中退したいって、そろそろ家族にも学校にも、言うつもりです」


 そう言った私の目を、みゆき先生はしばらく見つめてから。


「ねえ紬実つむみさん、手をつないでいいかしら?」

「手を……ええ、みゆき先生になら良いですよ?」


 了承と共に左手を差し出すと、彼女は両手で包んでくれた。


「こんなこと、聞き飽きたかもしれないけれど。あなたがあれだけ傷ついたのは、あなたが優しくて真面目だからだって思うの。汚いことばかりの社会で、あなたみたいな人が傷ついていく、それは理不尽だとも思うの。

 けどね。あなたみたいな人を必要とする人だって、ちゃんといるから。そんな人に巡り会う喜びも、これから絶対に待っているから。

 理想を現在から切り離して、未来に託すのも大事なことだよ。だから私は、あなたが自分を未来に託す、その支えになりたい」


 中退という選択を前向きに捉えられるように、という後押し。私だって理屈では割り切ろうとしていたけど、一人では不安は拭えなかった。まずは一人、味方だと確かめられたのは心強い。


「ええ、青春は未来に託します……そのためにも。勉強、じっくり見てくださいね」



 そうして、私が曲がりなりにも前進していた頃。和枝との関係は、また違った色合いを帯びてきた。私が不登校の話を聞かせていたのとは反対に、彼が悩みを打ち明けるようになったのだ。生まれでいえば私が一つ歳上ということから、先輩のような意識も感じているらしい。和枝「くん」と呼ばれた方が落ち着く、というリクエストがあったくらいだ。

 和枝からの文面には、部活にまつわる弱音が綴られていた。ステージがない時期を利用して個人の課題に重点を置いた練習を行っているのだが、彼は特に課題が多いという。

 合唱は好きで、仲間たちのことも大好きで、しかし自分はそこに似合わない、相応しい力がない、そのギャップが彼を悩ませていた。


「自分がノイズに思えてしょうがない」

「あれこれ頑張ったって、ノイズにしかなれない」


 彼が自身を表わす言葉。紡ぐ言葉の、伝えようとする心の美しさからすれば、あまりにも不釣り合いで卑屈だけれど。きっと彼にとっては、ごまかしようのない一部なのだろう。


 誰かにとっての「普通」「自然」が出来ないこと。その言葉で片付けてはいけないけれど「才能」の差を突きつけられること。

 きっと、音楽のことだけじゃなく。彼はずっと前から、築こうとした自信を折られるような、まっすぐに自らを誇れないような、自分を疑うような世界で生きている、私にはそう思えた。


 けど、私が見つけた小説は、紛れもなく本物の才能なのだ。賞を獲るほどの格調も、ネットで注目されるほどの器用さも薄いかもしれないけれど。心から心へと深々と感情を伝える、その感性は誰にでも持てるものじゃない。トレーニングもガイドもなしに、彼は言葉で心を揺さぶる術を知っていたのだ。


 彼の人生の使い方に干渉する権利なんて、私には欠片もないけれど。

 向いていないことに悩む部活よりも、これだけ可能性のある小説に注力してほしい、そう思ってしまうのだ。

 その合唱部で得られるものは、確かに尊く眩しく熱い財産なのだろう、何よりそこにいる人間が好きなのだろう、けれどその裏で自己嫌悪を募らせてしまうくらいなら。

 どこまでも羽ばたいていけるような、新しく夢中になる誰かとの出会いが果てしなく広がっているような、小説に時間を割いた方が。幸せになる人間は、ずっと多い、はずなのに。


 だから、筋違いで失礼だと知りつつ、彼の吐露にこんな言葉を返してしまうのだ。


「和枝くんが合唱部に向ける愛着も、みなさんと築く友情も、とても尊いものでしょう。そこでしか得られない充足があることも、それが小説に活きていることも、私は理解しているつもりです。

 けど、それ以上に、理想とのギャップは君を苦しめているように感じてしまいます。私が不登校にまでなったのも、その苦しみが一因でした。

 そこまでして、自分を嫌いになりかけてまで、合唱部に身を置き続けるのはどうしてですか? これだけ才能のある小説の方が、きっと君にとっても幸せな道だと思ってしまうのです」


 その答えは、やはり人にあった。部活の仲間が大好きであること、ときに厳しく、しかし常に温かく自分を認めてくれる彼らのおかげで、少しずつ成長できていること。それに応えるためにも、背を向けたくはないこと。


 私が諦めた青春が、幻想と割り切ったはずの景色が、彼の日常には確かにあるのだ。あるのなら、彼に諦めてほしくなかった。私が裏切られたぶんだけ、彼を通してきらめきを見守りたかった――なんて、筋違いだけれど。


 そして、感づいていた通り。何よりも彼を駆り立てているのは、同じ部活にいる「彼女」の存在だった。


「その子のことが好きで、どうしようもないんです。彼女なしじゃ、僕の世界が成立しないんです。多分彼女は、僕に恋したりなんてしないし、仲良い男子にしか思わないんでしょうけど」

「その子と一緒に時間を過ごして、同じ音楽を創って……それが叶うなら、苦労してでも回り道してでも、そこに居続けたいなって」


 片想いという言葉で収めるのが躊躇われるような執着は、きっと隠しきれてはいない。彼は、そんなに演技が上手くない。

 けど、危ういほどの想いの強さは、周りからは量られていないのだろう。可愛らしい、あるいは滑稽な、高校生らしい憧れくらいにしか思われていないだろうことも察しがついた。


 決して遠くはない、むしろ男女にしては近い間合いに「彼女」はいるはずだ。

 それなのに、どうして彼はそんなにも悲観的なのか。


 その理由は彼も明確に理解してはいないかもしれない、しかし小説から浮かび上がってきた。

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