#14 青春の影、青春の光

 二学期の最初の週。

 まだ昼前の、学生や勤め人よりは主婦や高齢者が目立つ街中を、私は制服で家へと向かっていた。


 夏休みで随分とコンディションは良くなったので、登校に挑戦してみたのだ。事前に担任にも連絡を入れ、逃げ道を険しくしてもおいた。

 制服を着て家を出る、バスに乗る、それまではいい。だが学校が近づき生徒が増えるにつれて、足は重くなりあちこちが痛んだ。きっとそんなはずはないのに、周りの誰もが私の陰口を叩いているような、嘲っているような感覚に襲われた。すぐには校舎に入れず、あてもなく周辺をさまよってから、ギリギリになって咲貴さきに迎えにきてもらった。


 教室に入る。意識が一斉にこちらを向くが、始業直前ということもあり寄ってくる人はいなかった。すぐにホームルームが始まる、じっと椅子に座ってクリア。休み時間、耳を刺し脳を締めるような喧噪の中、担任に課題を渡し、後は授業の教科書に意識を集中することでやり過ごす。


 一限目は英語、内容も先生も好きな授業だ。事情のせいか指名も当たらなかったし、内容もそれなりに頭に入った。前は進んで先生とコミュニケーションを取っていたのだが、そんな自分に戻れるのはとうぶん先だろう。


 授業が終わる、十分間の休憩。女子生徒が何人か近づいてくる、遠慮がちに声をかけられる、目が合う。

 別に、悪口を言いにきた訳ではないのだろう。むしろ、私のために何か伝えにきてくれたのかもしれない。励ましか、事務連絡か、なんてことはない雑談か。

 それなのに、クラスメイトを目の前にした瞬間、全身が軋んだ。向けられる言葉が、視線が、怖くて仕方なくて。


 思わず席を立って、その瞬間に変わった空気にまた慄く――駄目だ、ここは、怖い。傷つくことだけじゃない、こんな態度で人を傷つけるのが怖い。

「ごめん、具合悪いだけだから、ごめん、」

 要領を得ない弁明で、そのまま荷物を取って駆け出し。


「つむ!」

 咲貴に呼び止められ、立ち止まる。

「ごめん、まだ怖い」

「……分かった、荷物持ってくから。保健室?」

「うん、お願い」


 保健室で事情を話して、身体が落ち着くのを待って、帰路についた。


 *


 夏休み中に訪れた心療内科では、私の状態は適応障害に近いと診断された。

 その人にとって辛く耐えがたいストレス因子に直面したときに、情緒や行動に症状が現われ、社会的な機能が阻害される――というのが一般的な概要。


 ただ私の場合、ストレス因子が判別しきれないのだ。何なのか分からないのではなく、心当たりが多すぎて絞れない。一条いちじょう鱒河ますかわとの件も寄与としては大きいのだろうが、それらに対するクラスの反応も嫌だったし、文化祭実行委員での待遇も嫌だったし、あらぬ方向から陰口を浴びることも嫌だった。自分は平気だと思っていたのだが、全然平気じゃなかった。平気じゃなかったことに、やっと気づいた。

 こうして振り返ると、校内のあらゆる人間関係がストレス源だった、という解釈になるのかもしれない。しかしそれでは、普通の登校なんて到底無理である。


 戻らなくても進学はできるかもしれないが、できることなら戻りたい、という望みをかけての登校チャレンジだったが。こんな無残な有様だ。


 家に帰り、母に連絡してから、コンビニで買ってきた弁当を取り出し――どうも、食べる気にならない。

 まずは誰かに聞いてほしかった。友達でも、家族でもなく、あの人に。



 投稿サイトの、和枝かずえとのメッセージ欄。ネット越しの文通は、一昨日の彼からの発信で止まっていた。本当なら毎日だって交わしたいけれど、さすがに彼に申し訳ない。彼は恐らく、私ほど家に籠ってはいないのだ。


 キーボードの前で少し迷ってから、素直に状況を伝えることにした。



 >和枝さん

 こんばんは、こちらはまだまだ暑い日が続いております。二学期は順調でしょうか?

 私は先日、気力を振り絞って高校まで行ってみたのですが。やはりダメでした。朝はギリギリに登校して、一限目までは何とか椅子に座っていられたのですが、ほんの少しの休み時間が耐えられなくて、結局は保健室に駆け込みました。

 それ以来、学校には行けていません。教室の雰囲気、それ自体がダメなのかもしれません。

 家に一人きりでいるのも不安になるので、最近はずっと図書館に通っていますね。本を……というか物語を読んでいる時だけが、落ち着いていられる気分です。ネット上で小説を読み漁るようになったのも、そんなきっかけです。

 だからこうやって、心から好きになれる書き手さんに会えて、その方と交流できるのはすごく楽しいんです。学校の友達と楽しく話すなんて到底できないですし、昔の友達とも連絡取りづらいですし。

 良かったらでいいので、和枝さんの学校のことも聞かせてほしいです……そういえば、勝手に高校生かなと思っていたのですが、合っていますか?(もちろん、私に言える範囲で大丈夫です)

 それではまた。お身体にはお気をつけて下さいね。



 クラスのことはもう好きになれないだろうけれど、学校のことはまた好きになりたかった。和枝が彼の学校、恐らくは高校を楽しんでいるなら、その感情を知りたかった。彼にとって尊いなら、きっと私にとっても尊い。彼がその場所を好きな気持ちは、私の世界だって塗り替えてくれそうだった。


「……君は、大丈夫かな」


 小説を通して伝わってくる和枝の自己投影。他者への共感や、大切な人への献身、それ以上に根深そうなコンプレックス。好き、を原動力に書いているのも確かなのだろうが、劣等感だって切り離せない、そんな気配がした。

 思い込みかもしれないし、作家を見くびっているのかもしれないが。順調に学校生活を送ってきた人間に、あれだけ心を抉るような感情は描けないと思ってしまう。彼もどこかで、社会への、学校への恐怖に震えていた日々があった、その予感が拭えない。

 

 どうか君は、あんな醜さとは無縁であってほしい。美しい心が、汚されてほしくなんかない。

 けど。君が私と同じ側に来てくれたなら、同じ苦しみを抱えてくれたなら、こんなに心強い味方はいない――その感情を否定できない自分が、心底嫌だ。大切な人に不幸を味わってほしいだなんて、最悪じゃないか。


 迷いを振り払うように送信。恐らく彼は昼休みの最中だろう、たぶん学校でサイトの確認はしない。一緒に昼食を摂る人がいますようにと願いながらサイトを閉じた。


 彼からの返事は翌日の夜だった。



 >つむぎさん

 こんばんは。こちらも残暑の真っ只中といった頃合いです。とあいえ、すぐに寒い寒いと言い出す季節になりそうですが。

 お察しの通り、僕は高校生です。なんだかんだで書く話も高校生っぽいかなとは思っているのですが、どうなんでしょうか。

 二学期に入ってから、新しく部活に入りました。一学期に縁で活動を覗いてみたら凄く楽しそうで、というきっかけだったのですが。向いているかどうかで言うと、明らかに否で……けど、新しい場所は凄く楽しいんですよ。それに、自分が変われている予感もあって。だから順調かどうかは微妙ですが、充実はしています。とはいえこうやって調子に乗って、派手に転ぶのが自分でもあるので。嫌な予感もあるにはあるのですが。

 紡さんは……いわゆる不登校、というものでしょうか。中学の頃に、仲良いクラスメイトが不登校になったことがあったり、僕自身も学校の人間関係で悩んだりしたことはあったので、自分もそうなっていたかもしれないな、とは思います。

 何も事情を知らない自分ではありますが、紡さん自身の心が健やかであることを優先してほしいな、と思います……時には自分を追い込むことも必要かもしれないですし、なんとも役立ちそうにない言葉ではありますが。

 こうやって紡さんと言葉を交わせるのは、僕も楽しいです。そもそも、こんな風に感性が合う人は珍しいなと思っていたので。すぐにお返事できないことの方が多そうですが、いつでもメッセージは歓迎ですよ。

 それでは、今日はこの辺りで。紡さんも、お身体に気をつけてお過ごしください。



 感性が合う人、その形容が誇らしかった。彼は不登校じゃないけど、学校を楽しんでいるけれど、私を精神的に同じ側に置いてくれている。彼の心に、確かに私の居場所はある。


 そして彼は高校生だという。二学期から部活に入ったということは三年生ではないし、一年生と考えた方が納得できた。年下である。小説の大人びた雰囲気とは違う、あどけなさすら覗くメッセージ、そのギャップも心をくすぐった。リアルで出会えていたら、私の方がお姉さんだった、のかもしれない。


 不登校の話題に対して、自分もそうだったかもしれない、捉えるあたり。やはり彼にも、学校が辛い時期はあったらしい。ただ、今の学校生活に対する言及からして、そうした問題はとうに過ぎ去ったのだろう。前途に対して不用意に具体的な言及をするのではなく、「紡さん自身の心が健やかであることを優先してほしい」と答える、近すぎない距離感が彼らしかった。


 私の心が健やかであるために。どうか、これからも書いてください――心の中でだけ答える。創作者の内心なんて分からないが、誰かのためだなんて意識は彼にしてほしくなかった。彼が純粋に届けたいものを受け取りたかった、そこは乱したくない。少なくともこの文通は私と彼だけのものだ、それ以上は求めたくない。


 求めたくない、という自制の脆さを思い知る日は、程なくしてやってきた。


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