#12 歪んで汚れた世界、だとしても

 翌朝。

「じゃあお母さん行ってくるから、家のことお願いね」

「はあい、いってらっしゃい!」

「……紬実つむみ、何か嬉しいことあったの?」

「みたいなのあったけど……そんな顔してた?」

「うん、あなたが笑ってるの、久しぶりにみた」


 母に指摘されるくらいには、和枝かずえの小説との出会いは心に響いていた。ご飯も美味しかったし、太陽の暑さだって気持ち良かった。無味のルーティーンだった生活の一つ一つに、感情がついてくるようになった。


 自習だって集中できたし、この調子なら学校に行かなくても勉強できる、あるいは復帰できるかも、とさえ思えるようになった。


 読んだだけでそれだけ盛り上がっていたところに。翌日、和枝からの返信が届いた。そもそもコメントに返信が来ることも意識していなかったので、通知メールが来たときは驚いた。



 〉つむぎさん、はじめまして。感想ありがとうございます、とても嬉しいです!

 小説を書くのも、誰かに見せるのも初めてだったので、気に入ってもらえる方がいて安心しました。まだ書きたいことが沢山あるので、また見つけてくださると幸いです。



 ……顔が綻んでいるのが、鏡を見なくても分かった。あの人が私のために言葉を選んでくれた、その事実だけで嬉しかった。そして、小説とは打って変わった素直な文章の裏に、初めての賞賛に喜んでいる男の子の顔が、確かに浮かんだのだ。

 ちょっと小柄で、眼鏡で、文化部か帰宅部で、あまり自信はないけれど人に伝えるのが好きで……なんて、完全に妄想でしかないのだが。そんなイメージが浮かんでしまうくらい、その人らしさが浮かぶ文章に思えた。


「まだ書きたいことが沢山あるので」――きっと、また書いてくれる。また、読みにこられる。久しぶりに、先の楽しみができた。


 *


 そうして、学校には行けないなりに精神が持ち直してきた頃。

「久しぶりね、紬実ちゃん」

 週末、母が連れてきたのは伯母の仁美ひとみだった。母とは今でも仲の良い姉妹だが、こうして家に来るのは珍しい。

「仁美さん! レアですね、家に来るのなんて」

礼奈れいなに頼まれたの、教師目線で紬実ちゃんのこと見てあげてほしいって」

「なるほど……ありがとうございます、休日出勤」

「残念ながら、教師にロクに休日ないのは慣れっこでね……ああ、理糸りいとくんも久しぶり! でっかくなったね!」


 両親に弟、伯母が揃ったところで、家族会議のような時間が始まる。

「さて。まずは紬実ちゃん、よく逃げました。えらい」

 中学の教員である伯母からの、妙な賞賛。

「逃げたの、偉いんですか?」

「そう。元気に通い続けられるのが一番だし、ストレス抱えつつ休まないのも偉いのは確か。けど、過度のストレスに襲われたとしたら、間違っているのは本人じゃなくて環境……だから、取り返しがつかない潰れ方する前に逃げられたのは正解だよ。理糸くんも、そこは分かってあげて」


 そこまで言ってから、伯母は目を伏せる。

「昔の私は、それが正解だって気づかなかったから。今のあなたには、ちゃんと伝えたい」

 悲しみを押し殺すような表情に。かつて、登校を強いた生徒に何かあっただろうことを察する。


「けど、都合いいかもしれないですけど、大学は行きたいです、私。勉強が嫌いになったとかじゃないので」

「だったら、予備校とか通信制から大検、じゃなくて高認試験に通れば問題ないよ。

 勿論、通えなくなった心の問題をケアするってのも同じくらい大事だから、まずはそこを大事にしなくちゃいけないけど」


 暗かった未来に光が射してきた、そう思った瞬間に。


「そんな甘い話にはならないんじゃないのか」

 父の重苦しい声に、すっと光が揺らいでいく。


「あなた、まずはお姉ちゃんの話を――」

「紬実、それに理糸にも。これは父親として、それ以上に大人としての忠告だ。

 この社会は、お前たちが思っている以上に汚い。中学や高校でも嫌なことは沢山あるだろうが、その比じゃないほど汚い。それでも生きていかなきゃいけないんだ」


 仕事一筋の父は、普段は子供と深く話さない。しかし、浅慮な物言いをしない父であることも知っている。職場ではそれなりの地位にあることも知っている。自分より三十年は長く生きている人間の言葉は、それなりに重い。

「紬実、お前が真面目で優しい子なのは知っている。それは素晴らしいことだし、お前がそう育ったことは俺の誇りでもある。でもな、優しいだけじゃ生きていけないのが社会だ。勉強は家でも塾でも出来るだろうが、社会に慣れるのは学校じゃないとできないはずだ。お前たちには、そこから逃げてほしくない」


「ちょっと、義浩よしひろさん」

 伯母が父を鋭く制止する。

「確かに学校に社会慣れの面はあるけれど、それにしたって限度があるじゃない。それに若い子の陰湿さには、私たちには想像できない怖さだってあるんだから」

「仁美さんが教師として意見してくれるのはありがたいんだが。

 あなたは、紬実の親じゃない。紬実が社会に出られるために責任持ってるのは、俺たち夫婦の方だ」

「あなた、姉さんにそんな言い方――」


 大人が言い争いになったのを見かねて、思わず席を立つ。

「紬実……」

「ごめんなさい、ちょっと部屋で頭の整理します」


 部屋に戻り、適当なバッグに財布とスマホを入れて、こっそりと玄関を出ていく。ひとまず、この家から出たかった。


 近くのコンビニ、ちょっと離れた公園……と行き先を思案した挙句、なんとなく高い所に行きたくなって、マンションの非常階段を上っていく。最上階から見下ろすと、それなりに高い。


 父の言葉が痛かったのは、学校に行くことを諭されたから、だけじゃない。社会は汚いから慣れておけ、という指摘に反論できなかったからだ。

 正しいより、優しいより、歪んだ悪意の方がずっと多い社会であろうことは、年を重ねるごとに濃く感じ取っている。


 それでも、私はまだ人生を楽しめているし、これからが楽しみ――前はそう思えていたけれど。


 少しだけ頭を外側へ。この高さならまず助からない。少し身体を動かせば、一瞬で終われる。勝手に信じて勝手に裏切られる痛みより、これからずっと続く絶望のサイクルより、ずっと楽な選択だろう。


 それもいいかな、未練なんてそんなにないや。

 ここで私が終われば、あいつらどれくらい後悔するかな。しばらく笑えなくなるかな、何年も寝覚め悪くなるかな、高校なんて楽しめなくなるかな、それはそれでいい気味だ。

 考えれば考えるほど、終わりへの引力が強まる気がした。


 けれど。


 ほとんど無意識にスマホでアクセスしていたのは、例の投稿サイトだ。

 一人だけのフォロー欄に、二つ目のタイトル。

 あった。和枝さんの、新作。


 落ち着いて読める気はしなかったけど、構わず開く。

 今回もエルシャドの二次創作。サブヒロインの中でも特に熱血で勇敢なキャラを主人公に、彼女の背景を掘り下げる話だった。献身的な姿勢の裏には、かつて自分を助けてくれた友人への憧れと、次は自分が助けるという決意があった、という理由付け。


 今作も、和枝の視点は優しかった。人が直面する悪意を、孤独を、隠すことなく。それでも、支え合って世界を生きようとする心を描いている。無力かもしれない幼い少女たちが交わした、魂と絆の強固さを信じている。未来まで残る温もりの強さを信じている。


 この話、私と咲貴さきみたいだな、と思ってしまった。中学の頃、私は引っ込み思案だった咲貴の面倒をずっとみていたのだ。その咲貴も成長して、今は私を助けようとしてくれている。


 都合を聞くのももどかしく、電話をかける。

「――もしもし、つむ?」

「咲貴、ちょっと聞きたいんだけどさ」

「うん?」

「私に生きててほしい?」

「当たり前じゃん!」

 咲貴には珍しい大声に、耳もびっくりする。

「生きててほしい、世界で一番に生きててほしい!」


 私の未来は、願われている。咲貴にも、きっと家族にも。

 それだけで十分、とはまだ言えないけど。その願いは、まだつながっている絆は、ちゃんと信じ抜こうと思った。和枝さんが信じているなら、私も信じられた。


 もう一度、地上を覗いてみる。手をつないで歩く母と子がすぐ下に見えた……もし私が飛び降りていたら、あの人たちにトラウマを植え付けてしまったかもしれない、それどころか下敷きにしてしまったかもしれない。


「ってか、つむ今どこ、まさか屋上の端っことか!?」

「ああ大丈夫、いま下りてるから」

「なんか考えてたってことじゃん!」

「ちょっと思い浮かんだだけだよ。まだ死なないよ、死にたくない自分でいる方法探すから」


 電話しながら階段を下りる所で、上がってきた弟と出くわす。

「あ、いた。急に姉ちゃん消えてるから大騒ぎなんだけど、携帯も出ないし」

「ごめん、友達と話してたから……じゃあ咲貴、後でかけ直すから」


 電話を切って、弟と一緒に家に戻りながら。

 未来の準備より先に、今日をちゃんと生きるために、今は甘えさせてください――そんな言葉を準備していた。

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