第3章 Rescue

#10 それでも、それなりに日常は続くけど

 それから、どうにかして私は保健室へと運ばれたらしい。

 初めて知るベッドの温もりの中、空っぽの頭で微睡んでいると。


「……つむ、起きてる?」

 私を呼ぶ声、咲貴さきだろうか。

「咲貴?」

「そう、荷物取ってきた」

「他に誰かいる?」

「私だけだよ。大丈夫、一条いちじょうくんもいない」


 カーテンを開ける。咲貴は随分と心配そうだった。

「気分……は良い訳ないか、具合は?」

「息はできるし……よっと、うん、歩ける。けど正直、ずっと寝ていたい」

「帰れそう?」

「さっきお母さんに迎え頼んだ。もうそろそろ来るって」

 身体的な消耗もあるが、それ以上に精神的に立ち直れない。文化祭やクラスの仕事は勿論、勉強する気すら起きない。


「荷物ありがとう、あれから教室は?」

「とりあえず、つむは私とゆりちゃんで運んで、戻ったら掃除もされてた」

「ああ、それくらいの良心はあったか」

「ううん……ぶっちゃけね、一条くんが悪者をやっつけたのに、織崎さんが変な逆ギレしたみたいな、そういう雰囲気」

「あっそ、別にいいや。担任は?」

「呼ばれてきた先生は、なんか困惑って感じ。いま職員会議だから、また明日話聞くって」

「アイツじゃ分からないでしょ、それにしばらく学校無理そうだし……鱒河ますかわは?」

「戻ってこない、そのまま帰ったんだと思う……あのさ、つむ、」


 真剣な表情で、咲貴は私を見つめる。

「ごめんなさい。人としてするべきこと、私は何もできなかった。いけないことって分かってるのに、止めなきゃいけないって知ってるのに、何も言えなかった」

「……いいよ、咲貴が標的になるのも嫌だし。それに正直、全部、どうでもよくなってる」

 こんな投げやりな言葉が自分の本音になるなんて、昔は思いもしなかったが。


「クラスとか、文化祭とか。自分の進路まで、色々がね……それに、今から酷いこと言うけどさ。今、咲貴と話しているのも面倒……話すっていうかさ。これ言ったら相手はどう思うかなとか、これは言いたいけど言ったら駄目だよなとか、そういうこと考えるのがすっごく怠い。そういうの考えないの、昔の私が一番嫌ってたタイプなのにね」


 咲貴は私の話を聞いて、しばらく黙った後、ゆっくりと私を抱きしめた。

「これからどうしてほしい、とか何も言えないけど。どんなつむでも、私は味方だから」

「嬉しい。けど、私はもう、学校での咲貴の味方はできないから……醜い場所だけどさ、せめて咲貴は元気に通ってよ」

「うん、心の片隅で待ってる」


 それからしばらくスマホを操り、明日から学校に来ない旨を関係者に伝えた。引き継ぎの依頼というより、一方的な通告である。来られたとしても、また仕事を引き受けることを想像しただけで身体が拒絶を叫んでいた。最近の不調は寝不足やら生理やらの所為だと思っていたが、心因性のも混じっているのだろうか。

 ついでに一条にも、「もう私と関わらないで、返事もしないで」とだけ送っておく。いずれは向き合わなければいけないのだろうが、今は思い出すことすら痛かった。


 母から到着の連絡を受け、咲貴についてきてもらいながら車に乗り込む。

「ごめんなさいね咲貴ちゃん、紬実つむみが迷惑かけて」

「いえ、迷惑なんかじゃないですから! つむのこと、どうか甘えさせてあげてください。きっと、周りが思う以上に無理しすぎちゃったので」


 甘えさせて、と。私ひとりでは言えなかったかもしれない。嫌なことだらけの高校になってしまったけれど、咲貴のことだけはまだ大切に想えた。


「……で、何があったか話してくれるの?」

 車を走らせながら、母に訊ねられる。

「ざっくり言うと、人の悪意にやられたって感じ。それ以上は……また落ち着いてからでいい?」

「そう……明日からの学校は?」

「ごめん、明日は無理。週明けまで休んでから考えたいかな」


 そんなにサボるだなんて怒られる、と思いかけたが。

「小学校からずっと、紬実は良い子すぎるかもって思ってたから。たまにはゆっくり休んでもいいかもね」

 意外にも、寛容な反応だった。

「けど、進路のこともあるんだし。全部抱え込まなくてもいいから、最低限の勉強はしに戻らないとね」

 しかし、続く言葉は甘くなかった。私にとっても昨日までは当たり前のことだった、そもそも私はサボる弟に手本を見せる側だったのだ。

 曖昧に頷きつつ、明日からの日々を思いげんなりとする。家だってのんびりできる訳じゃないのだ。

 

 今が六月末。来月の文化祭をやり過ごして、夏休みいっぱいで心身を整えて、二学期からフェードイン……というのが理想だが。


 ほとぼりが冷めても、あの空間には戻れる気がしなかった。戻ることを考えただけで、内臓が捩れるようだった――そろそろ、身体の悲鳴を聞いてあげた方が良い。この悲鳴が止むまでは、あそこから逃げよう。



 それから週末まで。しっかり食べてしっかり寝る、母の買い出しや祖母の散歩に付き合うことで身体を動かす、という基本を繰り返すことで、体調は少しだけ良くなった。しかし週が明けても、身体は登校を拒否し続けていた。

 担任と話すことすら怖かったので、母を通して欠席の連絡をしてもらった。母は早くも私の不登校に順応してきたらしく、自分がパートで出ている間の家事を私に割り振るようになった。

 何か作業があった方が気が紛れるだろう、という母の計算の通り。少なくともここでやることはある、という事実は少しだけ心を落ち着けてくれた。祖母と一緒にいることは増えたが、もう他人なんだと割り切ってしまえば切なくなることも減った。大事なことは訪問ヘルパーに任せつつ、できる範囲で見守ればいい。

 学校から離れたことで、勉強への意欲もぼちぼち戻ってきた。とりあえず習慣だけは身につけておこうと、最近の復習から始めてみる。


 好転したとは言いがたいが、心身の悪循環からは抜け出せた。

 しかし、好きなものに触れても心が晴れない、という悩みは続いていた。それなりに雑多なジャンルの小説に触れてきたとはいえ、恋愛や青春といった成分に落ち着きがちだったのだ。恋愛にも青春にも裏切られた身としてはトラウマの刺激になりがちで、読めない。それでも、他の何より落ち着くのが小説であるのも確かなのだ。好きに戻りたい。

 サスペンスや歴史物なら落ち着いて読めるし、それはそれで面白いのだが。やはり、一番好きだったものを自分が裏切ってしまったことはショックだった。


 そんな折に。まさしく、人生を変える物語に出会うことになる。

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