#9 決壊

 夏の定期試験シーズンから、鱒河ますかわは以前のように学校に来るようになった。一条いちじょうからの警告に彼自身の反感も相まってか、表面上は一切私と関わっていない。それでも、たまに猛烈な敵意を感じるのは、私の思い過ごしだろうか。


 鱒河の内心はともかく不登校は表面的には解決した、それは良いのだが。

 私と鱒河が話していた様子を見られたのか、一条との関係がぎくしゃくしているのが傍目にも分かったのか。あるいは、私が文化祭の準備で学校じゅうの教師にコンタクトしている姿が香ばしかったのか。


 織崎おりさき紬実つむみは浮気している、という噂が流れているらしかった。


 らしいというのは、私がやっていないSNSが源だからだ。メッセージアプリは仕事の連絡用に常用しているが、プライベートではよほど仲の良い友人とだけだ。不特定多数とやり取りするようなサービスは使っていない。しかし今はまさに、不特定多数が私の噂で盛り上がっていることになる。


 無視すればいい、そう考えるようにしていたのだが、噂の影は態度に出る。仕事で多くの人と接する中で、内心の疑いや軽蔑は嫌でも見透けてしまう。廊下を歩けばそこかしこで後ろ指をさされている、そんな気配が肌で分かる。それらに出くわすたび、少しずつ、しかし着実に、学校での日々は痛みを増していった。

 一条と過ごしても、もう安らぎは得られない。家だって、祖母の容態が悪化したことでさらに緊張感が増している。頭や腹が痛むから寝つけない、寝つけないから身体の不調が治らない、そんな悪循環が続いている。


 さらに大きいのが。人生で初めて、小説が楽しめなくなってしまった。どんなストーリーやキャラクターも、現実の嫌なことと結びついてしまうのだ。経験がないからこそ楽しめていた恋というテーマに、もう以前のように胸は躍らない。


 逃げたいという衝動と、逃げ場のない閉塞が、限界を迎えつつあった頃。


 *


「……では、男装女子枠には私が行きます」


 観念した私が言い切ると、女子の間から気のない拍手が起こった。


 担任から渡された、ホームルームの時間。文化祭の全校企画である、女装・男装コンテストのクラス代表の選出会議である。男女ともに見事なまでに志願者がおらず、運営委員である私が責任を取って出ることになったのだ。


 もっと強く反対しておけば良かったかな、と今になって思う。異性装が美しい芸術として、あるいは自己表現として、世間で脚光を浴びることは確かにある。そうした意欲やカルチャーが尊重されるべきであることは間違いない、そもそも私だって歌劇での男役は好きだ。

 しかし、外からそうした表現を強いられるとなると、抵抗のある人も多いだろう。それに、こうしたイベントでの異性装は、称賛だけでなく嘲笑を引き起こしかねない。だから文化祭のイベントに据えるのは慎重になるべきだと、私は主張していたのだが。委員長をはじめ先輩たちが熱心にやりたがっていたこともあり、結局は委員として開催を決めてしまったのだ。


 ……とはいえ、私も結局は一員なのだ。私は反対でした、だから協力しません、は通らない。このクラスに関しては、私が責任を持って仕切るしかなかった。身体のそこかしこが痛む中、私は拳を握りしめて進行を続ける。


「では、女装男子枠、もう一度お願いします……もうぶっちゃけますが、全クラスがガチで行く必要とかないですから。ちょっとした思い出作りくらいの気分でいいので、どうでしょう」


 立候補、なし。クラス替えの後だったとはいえ、クラス全体が盛り上がっていた去年がまるで嘘のようだ。

 この膠着した場を終わりにしてほしい、私を含めて誰もがそう思っていただろう。こうなったら、私のクラスは立候補なしで通すしかないだろうか。委員の先輩たちには悪いが、私にだって限度がある。


 ひとまずの解散を宣言しようとした矢先、淀んだ空気を裂いて一条が声を上げた。


「女装、鱒河でいいんじゃね? ホモだし似合うだろ」


 その言葉を理解するのに、しばらく時間が掛かった。


「……はあ一条、そのネタまだ飽きてなかったの?」

 鱒河が答えるが、軽口を装ったその声は震えていた。


「だってガチじゃねえか、鱒河――」

「一条くん何言ってるの!」

 言葉を消化した途端、思わず大声が出る。


「お、夫婦喧嘩?」

「ってか鱒河も入れて三角関係じゃん、やっば」

 色めき立つクラスから野次が飛ぶ。


「ちょっと織崎は黙ってろ、自分に手出そうとした男の肩まで持つなって」

「私に……いや、それって……」


 自分のなすことをまるで疑っていないような一条の声音と、好き勝手に歓声を上げる生徒たちを前に、上手く喋れない。「こういうのは生徒に任せる」と担任も席を外していた、この場で最も影響力があるのは一条だ。


「一条……待った、あれは思い違いだって」

 顔を蒼白とさせながら弁解を探す鱒河へ、一条は鋭い言葉をぶつけていく。

「何が違うんだよ? 悪いけど見ちゃったんだよ、お前のスマホの履歴。ゲイ向けサイトっていっぱいあるんだな、初めて知った」

 鱒河は答えない、ただ大筋の汗が首元を伝っていた。

「で、様子がおかしいって話聞きにきた織崎に、この女で興奮できるんだって確かめようとして、けど身体は全然反応しなかったんだろ?」


 目眩がした。私が量りかねていた鱒河の行動の真意を、一条は見抜いたらしい。見抜いた上で、それを攻撃の材料にしている――恐らく、私を傷つけた鱒河を排除するために。

 止めなきゃ。これじゃ鱒河も、私も、この場所にいられなくなる。けど、ここで鱒河を庇ったら、きっと私は浮気者だとみなされる、大勢の信用が崩れてしまう。だって、鱒河が私にしたことだって間違っているのだ。それでも、この場で最も追い込まれているのだって鱒河だ。


 校内を駆け巡っていたゴシップの正体に、クラスじゅうが大騒ぎになっていた。追い詰められているのが笑われ者の鱒河で、追い詰めているのがカリスマでもある一条、どちらの味方が多いかなんて明白だった。私だって鱒河を簡単に許したくない、けど、こんな処刑のような。


「まあ、未遂ってことで織崎も深く怒ってはないみたいだし、俺も和解したい訳。

 で、いま織崎がすごく困ってる。お前にお似合いの舞台がある。だからオカマっぽい格好して、クラスの代表でステージ立ってくれれば良いのよ。爆笑確定、最高の見せ場じゃねえか……みんなも見たいだろ?」

 一条の煽りに乗って、クラスじゅうから笑い声が起きる。


「素直になれよ鱒河。女の格好して男のケツ狙いたいってのが本音なんだろ? ステージでそれやってくれれば良いんだよ、なんなら被害者役は俺がやってもいい。みんなの思い出にしようぜ」


 ――去年も、出し物のミーティングは盛り上がっていた。ダンスを中心にみんなの得意分野が活かせるような、そんなパフォーマンスを目指していた。それぞれの新たな一面が浮かんで、思わぬ共鳴が生まれる、その時間は確かに楽しかった。


 けど、今は。たったひとりへの嘲笑を軸に、クラスじゅうが結束してしまっている。その圧力は、視線は、嘲りは、一人で耐えるには、きっと重すぎる。


「よく考えろ、鱒河。そういう芸風やる以外に、お前の居場所があると思ってんの?」


「――っ!!」

 鱒河は教室を飛び出していく。表情こそ伺えなかったが、きっと心底動揺していたはずだ。


 戻ってこられない、かもしれない。恐れていた事態に苦みが込み上げる。

 けど、本人の変貌を目にして、やっとみんなも事の重大さに気づいてくれる、そう思った瞬間。


 一瞬の静寂の後、教室で湧き起こったのは派手な笑い声だった。


 こんなに。クラスが一つの方向でまとまることなんて、春から数えても初めてだった気がした。

 誰かの脆くて大切な一面を嘲ることで、彼らは団結していた。


 ――ああ、この場所は、もうダメかもしれない。


 膝から力が抜けていく。棘を呑み込んだかのように内臓が痛む。上げようとした声が、上手く出ない。嫌な汗が、背中をだらだらと滴っていく。


 嘲笑の輪の中心から、一条が近づいてくる。勝ち誇ったような、何かを成し遂げたような顔で。


 彼は私を抱き寄せて囁く。

「大丈夫、これでもう、アイツ来ないから」


 心の中で、大事な一線が破れた気がした。


 こんな人の追い詰め方なんて、微塵も私のためにならないのだ。その正体は、彼のプライドで独占欲で嗜虐心だ。


「一条、彼女のためでもエグすぎで笑うわ!」

「けど鱒河キモかったじゃん? せいせいした~」

「織崎さんよかったね~、鱒河にやられたぶんも一条くんに上書きしてもらいなね!」

「ってか担任にどう報告すんの? 臨時ホームルームとかダルいんだけど」


 誰も。誰も、人の心を、何より人間らしい痛みを、理解しようとしない。


 そんな人たちの楽しさのために、私は心身を削ってきたらしい。私が選ぼうとしていたのは、そんな人たちとの青春だったらしい。


 彼が、彼らが、何よりも自分のこれまでが、許せなくて、憎くて。



「――もういい加減にしろってんだよ!!」


 叫んだ。教室は静まりかえった。

 吐いた。教室はどよめいて、後ずさった。


 怒りと嫌悪で溢れた意識が、汗と涙と吐瀉物に塗れていく。


 落ち着こうとしているのに、呼吸は勝手に速くなっていく。


 そんなはずはないと理屈で分かりそうなのに。

 このまま喉が詰まって、私なんてここで死んじゃえばいいと思った。

 人が汚い死に方をする景色が、ここにいる奴らの青春にこびりつけばいいと思った。

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