#8 温もりで溶けたのは

織崎おりさき、日曜にウチに来ない? 色んなこと抱えて疲れてるだろうし、話聞かせてほしい」


 一条いちじょうに自宅へと誘われるのは初めてだった――この年頃の人間なら、それだけでピンとくるだろう。両親が出かけるからという言い分と、「織崎の都合がよければ」という念押しからも、身体の関係を企図していることは察しがついた。


 文化祭の準備で精神をすり減らす日々が続いており、さらには勉強もあまり手が回っていない。運良く用のなさそうな週末くらい、ちゃんと自分のために時間を使いたかった、というのが本音だ。休日くらい祖母の面倒見に付き合わないと母が不満がる、という事情もある。


 とはいえ。ここで誘いを断ったなら、彼は私との関係を疑いだす、その予感が拭えなかった。それに彼なら、身体に負担をかけるような抱き方はしないだろうと信じて誘いに乗った。身体の距離が縮んだところで、最近のすれ違いについて言葉にしてみることもできるだろう。

 母は私の外出には難色を示したものの、一条の評判の良さのおかげか、メイクを教えて手土産を持たせるくらいには乗り気のようだった。もし別れたら、私以上に母が悲しむかもしれない。


 待ち合わせ場所に、一条は先に来ていた。私服を見るのはほとんど初めてだったが、明らかに同世代とは違う上品さが漂っていた。格好いいなという高揚よりも、こういうの好きな人は多いだろうな、という他人事な感想が頭に浮かんだ。


「ごめん、親が出ていくの遅れてて、まだ家にいる……時間ずらす?」

「いいよ、一条くんのご家族ならいずれ会うことになるし。それとも、一条くんは会わせたくない?」

「親というか、親父がさ。ちょっと曲者で……まあ織崎なら大丈夫か、行こう」

 車道側をやや遅いペーズで歩き出す一条。そんな心遣いを前に素直になれない自分に、また苛立ってしまう。


「お邪魔します」

 一条家の玄関をくぐると、旅支度の両親がちょうど出てきた所だった。見るからに上物そうなコートの男性――恐らくは父親が、先に声をかけてきた。

「こんにちは。君が、克治かつはるの?」

「はい。お付き合いさせていただいております、織崎おりさき紬実つむみと申します」

 腰を折ると、和らいだような気配が返ってきた。

「……なるほど、聡明そうな子じゃないか」


 父親と目が合う。医師らしい柔和さと共に、強い威厳を感じさせる人だった。

「織崎さん、だね。親バカに聞こえるのは承知しているが、うちの克治は誰にも負けない男に育てたつもりだ。安心してついていってほしい」

 誰にも負けない、勝つ、克つ。そして治す――克治。一条を追い立てる張本人、だろうか。


 そんな父親の態度を私に見られたことは、一条にとっても快くなかったようで。

「……結婚相手ならまだしも、高校生の彼女に言うことじゃないんだけどさ」

 両親が出て行ったドアを、一条は憎々しげに睨みつけていた。

「前にも言っただろ。負けが許されないって、ああいうことだよ……俺だけじゃなくて。織崎にもそんなこと言うようになるかもしれない。それが怖くて、けど、織崎なら大丈夫なんじゃないかって思っちゃうんだよ。

 そうやって織崎を巻き込もうとする俺が、嫌だ」


 彼は彼で、不安なのだろう。甘えられる人を探しているのだろう。強さの裏に隠れていた脆さ、私が薄々と感づいていたそれを、彼は少しずつ見せてくれていた。


「……私は。君みたいな凄さには追いつけないけどさ。君のこと、支えたいよ。そのためにできることなら、私はやれるから、」

 だから、もっと君のことを聞かせてほしい。私のことも聞いてほしい、そう続けようとしたのに。


 振り返った彼は、私を壁に押しつけるように抱きしめて、唇を重ねて舌を入れてきた。驚いて間抜けな声が出た気がした、それくらいに普段よりも強い勢いだった。私が考えていた以上に、彼は私に触れたい、らしい。


「今日。抱いて、いい?」

 

 予想通りの誘い。むしろ、ちゃんと言ってくれるかが心配だったのだ。

 大丈夫だよ、君となら良いよ――そんな言葉を準備していた、はずなのに。


 そんな怖い表情で、言ってほしくなかった。

 鱒河のことだろうか、父親のことだろうか。誰かへの怒りを引きずっているのが在り在りと分かるそんな顔で、そんな声で、誘われたくなんかなかった。

 

 ちゃんと話がしたかった。私たちは何を分かち合えて、何が分からなくて、何が分かり合えなくて、これからどうやってお互いに向き合えばいいのか。

 何が嬉しくて、何が苦しくて、何を守りたくて何と戦っているのか。

 ふたりの理想は、本当に響き合えているのか。

 納得いくまで言葉を交わして、それでもお互いへの愛情が揺らがないことを確かめて。それから労りあうように、心のつながりを確かめるように肌に触れる、そんな関係が良かった。孤独も憂鬱も溶けてしまうような温もりを夢見ていた。


 そんな感情が子供っぽい、現実を知らない乙女心だとしても、それが夢だった。


 すれ違ったまま、蟠ったまま、触れあいたくなんかなかった。心に湧く、きっと表情に浮かんでいるはずの戸惑いを、彼は全く受け取ってくれない、それが悲しかった、けれど。

 いま断ったら、きっと彼は傷つく。その脆さがこんなに分かってしまったなら、私に選べるのは一つだけだった。


「……身体、綺麗にしたいから。お風呂、貸してもらっていいかな」




 不安に思っていたほど乱暴ではなかった、覚悟していたほど痛くもなかった。他のカップルの例はよく知らないが、彼の抱き方や手順は、しっかりと配慮された部類だったのだと思う。けれど。

 

「今は何も言わないでいいから、悩まなくていいから。

 俺のこと信じて、お前のこと預けて」


 そんな言葉で始まってから。身体が触れ合うほどに思い知るのは、絶望的な心の遠さだった。彼は、私が溜め込んでいたストレスを、こうして解決しようとしたのだろう、その意図はすぐに分かった。けれど私が望んだのはこんな関わり方じゃなくて。


 話し合うのは、考えるのは、確かに面倒かもしれないけど。肌の温もりの方が、本能に素直な肉欲の方が、ずっと幸せなのかもしれないけど。それが恋人の特権なのかもしれないけど、それで幸せになれるのが女の子らしいのだろうけれど。


 私は、そうはなれないんだよ。面倒くさいし、考えすぎるし、勝手に人の心配して勝手に落ち込む、そんな人間なんだよ。だから君の真剣な姿勢に惹かれていたんだよ、君は私のそんな所を好きになってくれたと思っていたんだよ。


 告白された日から、あるいは彼を意識しだした頃から、心の中に積み重なってきた好意と尊敬と憧憬と感謝が、確かに大切だった恋慕の結晶が、あっけなく溶けていくのを、彼の腕の中で感じていた。


 このままじゃ駄目だ、別れなきゃ駄目だ、その予感は固まった。


 もっと余裕のあるときに、ちゃんと別れ方を考えなきゃな、けどそれまでは学校で普段通りに過ごそう、そう思いながら抱かれていた。


 ちゃんと別れよう、と思っていたのだが。決別の日は、程なくして意外な形で訪れた。

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