#7 優しさは強い、だなんて
その数日後、
「どうしたの、大事な話って」
鱒河は怪訝な様子を隠さない。普段は接点がないのに加え、人の耳が気にならないように空き教室に二人だけという状況も原因だろう。
「最近、鱒河くんが休みがちだからさ。クラスの代表として、もう少し話を聞いておきたくて」
「別に? 親とか学校には具合悪いって言ってるだけで、ただ面倒なだけだよ。真面目な
私だって煩わしいことばっかだよ、という言葉は呑み込む。
「少しくらいは分かるつもりだよ、そういう感覚。けど、今みたいな通い方してたら、進路にも響くのは確かじゃん? 進学以外にも良い道はいっぱいあるだろうけど、もう諦めちゃうのは勿体ないって私は思うよ」
これでも、市内で有数の進学校である。想いはそれぞれだが、進学を前提としている生徒ばかり、のはずだ。まずは学生らしくそこを突いてみたのだが。
「正論は結構なんだけどさ。生徒まで教師みたいなこと言うの、普通に嫌なんだけど」
言い方にはやや傷ついたが、ごもっともな反発である。回り道はやめて、本音をぶつけることにした。
「学校に来ない、それは個人の選択だし私が干渉できることじゃない。
けどね、来たくない、来られないって事情があるなら。特に、それがクラスに起因することなら。私はできる限り解決に協力したい。
誰かのせいで学校に来られないのは、悲しいことだから……その上で、私の推論を聞いてほしいんだけど」
深呼吸して、険しい表情の鱒河の目を見つめる。慣れない、しかもやや大柄な男子には、少し気後れもするが。被害者かもしれないなら、外国の誰かのように追い詰められているかもしれないなら、止まれない。
「男子にホモってからかわれていることが、君を傷つけているんじゃないか。そんな心配を私はしています。鱒河くんのことはよく知らないけど、それが人を傷つけ得る行為なのは知っているつもり」
鱒河の口元が一文字に結ばれ、それからぎごちなく笑みを描く。
「ああいうギャグなんだよ、女子には分からんかあ……大体、その辺にホモがいると思ってんの、織崎は」
「同性愛者が周りにいるのは自然なこと、だよ。そうだって言える人がとても少ないのは事実だけど……だから、その人の本心がどうであれ、蔑みのネタにするのは駄目だよ。
それに、もし、仮に、君が本当に同性愛者なら――」
今のクラスは、生きづらいはずだから。
そう続けようとした私は、急に鱒河に掴みかかられ、悲鳴をあげそうになる。
彼は私の両の二の腕を掴んで、さらにこちらに顔を近づけて、荒い息で言い募る。
「俺が違うって言ってるから違うんだよ、いい加減にしろよ織崎、いちいち女子が首突っ込んでくんじゃねえ」
近い、痛い、離れて――叫びそうになるのを、寸前で呑み込む。私が助けようとしている人を私が拒むのは、多分、よくない。
汗が首筋を伝うのを無視する。震える足に力を入れて、私を睨む鱒河の瞳の奥、隠れている感情を探す。私が提示した仮定に激昂したのなら、あるいは。
「――おい、鱒河!!」
教室のドアから怒声。振り向くと、こちらを見て血相を変えていたのは
「一条、ごめん、違う」
鱒河が慌てて私から手を離し、一条へと手をかざすが。一条は猛然と歩み寄り、さらに右腕を振りかぶる。一条の瞳に燃える強烈な敵意を目にして、私は恐怖を振り切って彼の前に立ち塞がる。
「待って一条くん」
鱒河が私に乱暴な触れ方をしようとした、彼はそう思い込んでいる……実際、いきなり掴みかかるのは駄目だが。恐らく、性的な意図じゃなかったはずだ。
「退いてくれ、なんで織崎がそいつを庇うんだ」
「殴っちゃ駄目、落ち着いて」
「彼女があんな目に遭って落ち着いてられるか!」
「君の手で人を殴っちゃ駄目だよ!」
腹に力を入れて叫ぶと、一条は壁にぶつかったように足を止めた。
「君の手は、人を助ける手だよ。その手で殴ったら、駄目だよ」
医師という運命が、ときに彼を追い詰めているのことは知っている。
それでも。彼がその道を目指す限り、私は讃えたいのだ。彼が目指す道が、私には誇らしいのだ。
だから、人の身体を傷つける人であってほしくない――私のその願いが通じたのか、彼は腕を下ろした。そして、私の肩越しに鱒河を睨みつける。
「何も見なかったことにしてやる。だから二度と織崎に触れるな」
「分かった、勿論、分かったから。本当にごめん、一条……織崎さんも、ごめん」
先程とは打って変わって、鱒河は弱々しく震える声で答えてから、早足で去っていった。やっと、鱒河にされたことの実感が追いついてくる。助けようとした人に、裏切られた――そう思ってしまうのも私のエゴなのだろうか。しかし、今向き合うべきは一条だ。
「……で、何があった?」
一条の声は、出会ってから初めてくらいに固い響きがした。
「まずは、助けてくれてありがとう」
「当たり前だろ……あれ以上、何かされてた?」
「いや、掴まれてただけ、ちょっとびっくりしたけど、他は触られてない。それよりも鱒河くん、きっと本当に、ホモって呼ばれること気にして」
気にしていると思ったから、みんな止さなきゃいけない――そう伝える途中、一条は私を抱き寄せた。守るように強く――黙らせるように強く。私が見つけた悲鳴が、伝えようとした言葉が、彼の腕の中で行き場を失う。
「もう、関係ない奴に構うの辞めてくれ。そんな優しさ、つけ込まれるだけだ……織崎がそんな目に遭うの、俺は耐えられない」
普段の一条らしくない、泣き出しそうな固い声に。彼は本当に私を心配してくれて、私を守ろうとしてくれることが分かる。それが嬉しいことは否定できない。
けど、それ以上に。彼は、私のためなら人を傷つけられるのだろう、そんな予感も芽生えてしまった。私のせいで彼が誰かを傷つけることが、傷つけられる人がいることが、どれだけ私を苛むか、彼は分かってくれるだろうか。
「……うん、気をつけるよ、ありがとう」
そんな予感はあったのに。まだ私は、彼に嫌われることが怖くて、無難な答えを選んでしまったのだ。
「織崎のこと、絶対に守るから。だから、俺のそば、離れないで」
心強いはずの言葉が、心を縛るように重く響いた。
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