第2章 Refugee

#6 求めた強さと、寄り添いたい弱さと

「じゃあおばあちゃん、行ってきます」

 祖母に目を合わせて挨拶すると、彼女は穏やかな笑顔で答える。

「はいお嬢さん、いってらっしゃい。帰ったら紬実つむみちゃんと遊んであげてくださいね」

 おばあちゃん、紬実は私だよ――という訂正を吞み込んで、作った笑顔で手を振る。不審な人物だと認識されなかっただけ、今日は運が良かった。じゃあ私を誰だと思っているのか、というのは謎だが。

「今日は早く帰ってきなさいね!」

「はあい、行ってきます!」

 やや苛立った様子の母の声に返事をしてから、家を出る。


 寝不足の目に、早朝の空気が沁みる。家を出た瞬間に思う、帰りたい――今の自宅ではなく、みんなが健康で仲の良かったあの頃の家に。

 棘のある家に耐えかねて、仕事があると主張しては早く家を出るようになった。誰かと一緒にいる息苦しさを発散するように、夜更かしが増えた。結果、順調に疲れが溜まっている。このままではいけない、とは分かっているが。


 先日の高神との交渉は、他の先生に協力を仰いだことも功を奏し、なんとか承諾された。ただ、最難関の彼を攻略したことで、私は他の教員との折衝役を押し付けられるようになった。そのぶん免除された作業は多いとはいえ、精神的な負担でいえば格段に増えている。そもそも、元から志願していたパンフレットの編集の方が、向いていると思うし好みなのだ。


「最近のつむ、顔色悪いよ? 手抜きしたくないの知ってるけど、これじゃ逆効果だって」

 咲貴さきに珍しくそんなことを言われるくらい、精彩を欠く場面は増えていた。

「分かってる、けどもうすぐ色々楽になるし。誰かにお願いする方が疲れるから、私の場合」


 けど、傷つく誰かに心を痛めるくらいなら、自分が矢面に立った方が楽だ――そう思ってしまうから、仕方ない。他人の励まし方は完全には分からないけど、自分の立ち直り方ならだいぶ分かってきているのだ。


 だからこれでいい、そのうち楽になる、そう自分に言い聞かせていたのだが。


 昼休みの職員室。連絡を済ませて立ち去ろうとする私は、担任に呼び止められた。

「最近、鱒河ますかわが休みがちじゃんか」

「ええ、体調不良……でしたよね?」

「表向きはそう言ってるんだけどさ。親御さんに話聞くと、どうも、精神的な問題らしくて。織崎おりさき、何か知ってる?」


 鱒河の精神的な問題――ホモと呼ばれていたことを思い出す。少なくとも、私が思い当たる候補はそれくらいだ。

 しかし、それを担任に報告するのが正解か、判断に迷った。この四十代半ばの男性教師は、よく言えばフランク、悪く言えば大雑把な所がある。デリケートな方向に話を発展させるのは不安だった。


「私はあまり交流がないので、なんとも言えないです。けど、これから意識して目を配ってみますね」

「うん、頼んだわ……そうだ、この話、しばらく織崎に預けとくから」

 予想していなかった指示に、すぐ答えられず担任を見返す。

「いや、織崎も忙しいとは思うけどさ。生徒のデリケートな話、年上より同年代の方が詳しいだろうし。けど男子はダメだ、雑すぎて任せらんねえ。

 その点、織崎は文字通り生徒目線だし、気配りもできるし適任……ね、頼むって」


 私がやらなくていい理由なんていくらでもある、けれど。

 不登校のクラスメイト、というのは私の中学時代の心残りでもあるのだ。今度は助けたいし、できることはやっておきたい。


「……分かりました、ちょっとずつ探ってみます」


 大抵の場合、男子のことは男子に聞いた方が早い。担任はクラスの男子を「雑すぎる」と評していたが、それは見くびりすぎだろう。全員がそうではないが、しっかりと物事を考えられる人もいる。少なくとも一条はそうだ。


一条いちじょうくんは、鱒河くんから何か話聞いてる?」

 珍しく帰りが一緒になったときに訊ねてみると、一条は何やら不審そうな表情をした。

「何、鱒河で何か気になるの?」

 彼女が他の男子を話題に出すのが気に入らない、という感覚なのだろうか。クールな一条に似合わず可愛らしいが、この調子が続くと息苦しそうだとも思う。


「男の子として、みたいな意味じゃなくて……最近、学校休むこと多いじゃん? だから何か悩んでるんじゃないかって、先生が気にしていて」

「ああ、そういう……そうだな、俺もはっきり聞いた訳じゃないんだけど」

 どうやら一条は心当たりがあるらしい。

「多分、成績とか進路の話だと思う」

「成績……鱒河くん、それなりに勉強できる方だよね?」

 少なくとも数学は私よりもできる印象だった……生物が好きだからと理系を選んだ割に、数理的なセンスが身につかないままの私と比べて、だが。

「悪くはないけどさ。家族からの期待がキツい……というか、周りに置いていかれるのが怖い、みたいなこと悩んでいたと思う。最近の授業、生徒どうしの競争を煽るようなムードあるじゃん? だから来るの怖くなったりするんだと思う、それに」


 一条は少し俯いてから、低い声で洩らす。

「俺だって下りたくなることもあるよ。一番以外が許されない競争は」

 彼には珍しい、心細さの滲む声に。彼の優秀さの正体が、少しだけ分かった気がした。

 一番になりたいという目標ではなく、一番以外が許されないという義務。家庭からのプレッシャーに真正面から応え続けているのだ。


「……鱒河くんの気持ちが分かるなら、味方になってあげない?」

 私から出た声は、意図した以上に鋭かった。声がきつくなる癖、せめて彼氏の前では直したいのに。

「学校に来たら普通に話すけど、それ以上のお節介しようとかは、ちょっと思えない……というか、みんなに構ってたらキリがないじゃん。勉強でも部活でも、競うなら競える奴だけでやればいいし、辞めたいならさっさと辞めればいい。決めるのは本人だし、決められないでウジウジしてるのは好きじゃない」

 ドライな、しかし彼なりに筋の通った答えは。私には少し、受け容れ難い。弱い立場にこそ寄り添える人であってほしい。けれど。


「それでも。もし、織崎が頑張ること辛くなったら。いくらでも俺にできることしてあげるから。俺の一番だってこと、忘れないで」

 私のことは大切にしてくれる、それを思い知ると反論もできないのだ。私だって薄々分かっているのだ、全員を支えるなんて無理だから、大切なものを選ばないと潰れてしまうことなんて。


「一条くんも。頑張りすぎて壊れる前に、言ってね」

「ああ、織崎になら言える……けど、自分を追い込まないと医者って務まらないからさ、少なくとも親父はそうだったみたい。

 だから織崎には、ずっとそばで見守ってほしい。どんなハードでも、織崎と一緒なら頑張れそうだから」


 言葉と共に、彼は私の頭に手を載せる。

 その温もりが、何度目でも初めてのように心を高揚させる。頬が紅潮するのが、鏡を見なくても分かる。


 愛されているという実感は、どうしようもなく強い。離れがたい。


 今みたいな違和感が、他にない訳でもないのだ。男子の間の無遠慮な空気は、あまり好きじゃない。実家の医業を継ぐ彼の道に、私はどう寄り添わなければいけないのか、たまに不安にもなる。


 けど。それ以上に、嫌われたくなかった。前にトイレで聞いたような話に惑わされたくはないが、私が女の子らしい魅力に欠けているのは確かなのだ、せめて煩わせたくはない。こんなに格好いい人に愛されることなんて、きっと人生で二度とないのだ。こんな人が隣を歩いてくれる、それだけで誇らしさが湧き上がって、普段の怖さが嘘のように消えるのだ。


 しばらく、一条の邪魔をしないようにしよう。鱒河の件は、一人でもう少しだけ取り組んでみることにした。

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