不帰来路花(2)

 エルラとダグマルは、金環食の太陽が浮かぶ空間に閉じ込められていた。床には一インチほどの深さに液体が満ち、水面に食の光輪が揺らめいている。匂いから足元の液体が血であることは容易に察せられた。

 闇の濁流に飲まれ、身構える間もなくこの場所にいた。


 ここへ送られるなり、ダグマルは咳き込み膝を突き、ランタンの結界で身を守るしかできなくなってしまった。身に纏う黒衣の刺繍が薄く光っている。礼装の防御術式が着用者を生かそうと独りでに起動していた。

 サリクスの〈影猫〉も数秒で溶けて消えた。この場は、見た目だけでなく、性質も異常であることは明らかだった。


「げ、原理結界、です……。エルラさ、ん、気をつけ――ゴホッ」


「喋らないで。自分の身を守ることに集中して。わたしは大丈夫だから」


 原理結界――根源や心象ともいえる「原理」を以って、世界を局所的に塗り替える術の極致。術者本人の原理に基づいた世界観を他者と世界に強制する。


 ――ということは、この空間は誰かの世界ということだ。どこかに術者がいる。

 そして、この空間には、エルラとダグマル、リリの他にもう一つ人影があった。頭に角があるが、サリクスではない。一同には思い当たる人物がいた。昨日、町で見かけた、包帯を巻いたイラカシュの少女だ。

 エルラが少女の名を告げる。


「――エレナ」


「……どうしてわたしの名前――ああ、よく見ればお姉さんたち昨日会った人か。お店の人に聞いたのね。ホント、なんでも好き勝手喋ってさぁ、さすがにちょっと嫌だわ」


 殺してしまおうかしら、と少女はぼそりと言い足した。

 その言葉に〈リリ〉の柄にかけた手に力が入る。


「――にしても、そっちの教会のゴミはランタンがあるから少しは耐えるだろうけど、お姉さんはなんなの? 何か仕込んでるようには見えないのだけれど」


「ああ、わたしは毒やら薬やらには強いの。だからかしら?」


「そういう程度の問題じゃない」


「でも確かに、命を吸われている感覚はあるわね」


 不信感と警戒心を露わに、エレナはエルラを見ている。

 この領域に閉じ込められて「命を吸われている感覚がある」程度の感想で済ませられるはずがない。明らかな異常存在に、煩わしさと不安が頭をもたげた。


「あなたは生きたまま胸を開かれて、動いている心臓から血を啜られた経験はある?」


「は? 何言ってるの、そんな経験あるわけないでしょ」


「わたしはあるわ。何回も」微笑む。「これがあなたの領域でわたしが生きていられる理由よ」


「クソ、わけわかんないな、もう。ラリッて幻覚でも見てたんだろ、クソブタが」


『お姉ちゃんの悪口言わないで、この――』


「それより――」静かにリリを制し、尋ねた。「あなた、ユーレアツィヴティケネテスを知っているかしら?」


「ユーレアツィヴティケネテス? 当たり前よ。伝承の偉大な魔族――、そして、呪われた美しき人喰いの魔族――」情感を込めて言った。「――わたしと同じ」


「『わたしと同じ』?」


 エルラは、エレナの言葉を反復した。引っかかる部分があった。


「そう、たくさん殺して、たくさん喰らった。殺し貪るたびに強くなる――」


「わたしの知ってるユーレアツィヴティケネテスとは違うのだけど」


『地域によって伝わり方が違うのかも』


「だとしても、人喰いの化け物が魔族の中で英雄視されるのはちょっと違わない? サリュはユーレアが殺した相手を喰らうなんて一言も言ってない」


 ユーレアツィヴティケネテスは、エルラとリリの父親の心臓を摘出して食べはしたが、エルラの印象としては捕食ではなかった。いまになって思えば、あの時のユーレアツィヴティケネテスには哀愁に近い雰囲気があった。


『どうするの、お姉ちゃん』


「どうしようか。この子、わたしほどじゃないにしてもおバカっぽいし……」


 エルラは声量を抑えて、リリと話した。その様子に、エレナはますます不信感と苛立ちを募らせた。


「――誰と話してるの?」


「ああ、なんでもないわ」微笑みかける。「あなたがユーレアツィヴティケネテスのことを何も知らないってことがわかって、時間がもったいないなって」


「あはは、何言ってんの? 同族でもないくせにわかったふうに言ってさぁ、だいたい状況わかってる? 何が『時間がもったいない』だ、あんたたちに残された時間なんてほんのこれっぽっちなんだよ。死ぬまでの貴重な時間だってのいうのもわからないの?」


「それはそっちでしょ」


「はっ、よく言うよ、このメスブタが。ブタの言葉じゃないと理解できないのか、可哀そうに」


『お姉ちゃんのことブタブタ言って、矯正が必要……』


 リリはぶつぶつと独り言ちる。エレナへの怒りを溜めていく。この国では幸運や幸福を呼ぶ動物とされる豚だが、人のことをブタと呼ぶのは侮辱的な表現になる。特に女性に向けては、数段意味が重くなる。エルラは自分がブタ呼ばわりされてもおかしくない人物だと認識しているために、これといって思うことはない。しかし、リリはそうではない。

 エルラは、リリの独り言を聞かなかったことにし、エレナへ言葉を投げた。


「何をそんなに焦っているのかしら? 領域自分の世界に引き込めば必殺のはずがピンピンしてるから? 自分の未熟さ? それともお兄さんが心配? なら急がないとね、あなたのお兄さんが相手してるのは、わたしたちみたいなか弱い女の子じゃないもの」


「……」エレナがうつむく。「――殺す」


 殺気が圧を増す。粘性のある気体のように、空間を満たし、渦を巻く。

 エルラは、不敵に笑み、手に握る妹へ声をかけた。


「いくよ、リリ」


『いまのわたしはちょっと不機嫌だから、ちゃんと使ってよね、お姉ちゃん』


「わかってる」


 エルラは頷き、両手剣リリを構える。

 エレナは、小さく鼻を鳴らし、左手をエルラの方へと伸ばした。袖からのぞく腕には、紋様や文字が彫られていた。街中でエレナが包帯をしていたのは、彫り物を隠すためだった。

 両者が見合う。


 エルラとリリ、そしてエレナが詠唱の一句目を、

「Setzen――」『Anfang――』「告げる――」

 それを合図に、戦いが始まった。

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