旱天の雨(2)

「すごい」


 黒猫の案内で浴室に辿り着いたエルラ。彼女の口から感嘆が零れた。

 明るく開放的な室内。大きな窓には透明度の高いガラスが使われ、床は青と白のタイル張り、陶器製の大きなバスタブ。タブの下は白い砂利が敷き詰められている。


 この家の主は、裕福なのだろうか。エルラはそう思った。彼女にしてみれば、浴室に辿り着くまでの、ほんの短い廊下でさえ、未知で新鮮な様式だった。


「すごいよ、リリ、見える?」


『外国に来たみたい』


「だよね。本当にわたしが使ってもいいのかな」


 口を半開きにしたまま、部屋中を見て回る。

 最後に、最も関心を抱いたバスタブを覗き込む。

 バスタブに湯は張られておらず、代わりにたらいと水の入った桶が用意されていた。

 期待していたエルラだが、よくよく考えてみれば、バスタブでの入浴の仕方を彼女は知らなかった。


 エルラは、〈リリ〉を横たえ、シーツを脱ぎ、たらいに入った。濡らした布で身体を拭いていく。

 洗いながら、改めて身体を確かめる。

 肘上から肌色の濃くなった右腕。左足も付け根あたりから右腕と同じように変色している。籠に入っていた手鏡で顔を見ると、髪も白くなっていた。髪だけでなく、眉やまつ毛などの体毛も同じく白化していた。


(やっぱり、わたしはもう人間じゃないのかな……)


 たらいの中で汚れた水に浸かりながら、物思いに耽るエルラ。ふと、黒猫と目が合う。彼女をずっと見つめていたようだった。

 手を伸ばして撫でようとするエルラだが、すんでで手を止め、


「――そうだ、お湯をください」


 黒猫に言った。


 黒猫は言われるなり、部屋を出ていった。

 それを見届け、エルラは桶に残った水を頭から被り、籠から新しい浴布を取り出し身体を拭き始めた。


『え? お姉ちゃん?』


 黙っていたリリが、思わず言った。お湯を頼んだばかりなのに、もう入浴は終わりなのかと言いたげ。


「あとで使うから心配しなくても大丈夫だよ」


『?』


 身体を拭き終えると、籠から瓶を取り出し、蓋を開ける。中身は香油で、匂いを嗅いでみるエルラ。


「さっきの人と同じ匂い……。でもちょっと違うかも」 


 そう呟くと、ドアが開き、さきほどの少女が入ってきた。

 少女は、すでに入浴を終えた様子のエルラを見て、怪訝そうな顔をしながら、湯の入った桶をエルラの横に置いた。

 ふわっと、仄かな香油の香りに混じって、煙のような匂いがした。


「あ……ありがとう、ございます」


「へえ、ちゃんとお礼が言えるんですね」口角を上げながら言った。「なんて、ね。意地悪言ってごめんなさいね。着替えを持ってきます。水や浴布はそのままにしておいて構わないですよ」


「あ、はい」


「そうだ、今夜か明日の朝には、そっちの浴槽を使えると思いますよ」


 少女は、扉の前で振り返って言ったあと、口元に指を当て、考える素振り。


「うーん。嫌味ったらしい言い方に聞こえるかもですが、あなたはお風呂に浸かった経験はないでしょう?」


 エルラは、少女の言葉に頷いた。少女はエルラが頷くのを見て、小さく笑みを浮かべると、音を立てないように静かにドアを閉じた。



 残されたエルラとリリ。

 エルラは開けた瓶を閉じると、〈リリ〉をたらいの縁に載せた。


『そんな、わたしなんていいよ~。お湯はお姉ちゃんが使って。あの人もお姉ちゃんのために持ってきてくれたんだよ』


 リリは姉が自分にしようとしていることを察した。わざわざ自分のために温かい湯を用意してもらったのが、嬉しくもあり、気恥ずかしくもあった。

 それに、いまの自分の姿が剣であることはリリにも理解できていた。人間の姿でない自分を丁寧に扱う必要はないと、言ってしまいたかった。しかし、それを言ってしまえば姉がひどく悲しむだろうことは、十二歳の彼女にも容易に想像できた。

 そんなリリの内心を知ってか知らないでか、エルラは優しく言う。


「いいんだよ」


 悟ったような、諭すような穏やかな声音。リリは、姉のこの声色があまり好きではない。こちらの反撃を渋らせ、何もできなくさせてしまうからだ。姉の前で妹のリリでいなければならないのは、いくら姉のことが好きだろうと窮屈に思えるのだ。


『……』


 湯を含ませた布で剣の腹を濡らす。


『ひゃっ』


 声をあげるリリ。

 構わず、泥や血といった汚れを拭き取っていく。青い艶の黒い剣身が、姿を現す。


『あっ。ちょっ、おね、ちゃん。くすぐったい』


 磨くように、念入りに洗うエルラ。

 汚れを落とすためでもあり、〈リリ〉を隅から隅まで観察するためでもあった。剣になった妹への興味を本人には気取られたくない部分もある。


 分厚い刃の両手剣。切先は尖っておらず、鑿やヘラのような平たい形状で、突き刺すよりも抉じ開ける用途のためのものにエルラには思えた。根元から先までの剣腹には、鈴蘭の彫刻が施されている。内心でエルラは「リリ」なら百合ではないのかと疑問に思ったが、そもそも剣の意匠がリリの性質を反映したものとも限らない。

 浮彫の隙間に詰まった白い砂を、ぐりぐりとかき出そうとする。


『んっ、んぁ、んん――あっ!』


「ちょっと、変な声出さないでよ」


『だって――、お姉ちゃん、が、悪いんだよ』


 息を乱しながら、言うリリ。

 エルラは、そんな妹の呼吸を見て、剣なのに人間と変わらない反応をするものだ、と思ったが、すぐにそんな考えを浮かべてしまった自分を恥じた。越えてはいけない線だと思ったからだった。


「ごめんね、リリ」


 呟くように詫びるエルラ。


『いやいや、気持ちよかったんだよ。お姉ちゃんは悪くないよ』

 リリは舌打ちしそうになるのを抑えて、姉を宥める。


(違う、そうじゃないんだ)


「そうじゃないんだよ、リリ……」思考が独り言として零れた。


『お姉ちゃん……』


 気まずい空気。それでもエルラは手を止めず、〈リリ〉を洗う。そうでもしないと、お互いに要らない探り合いをしそうに思えたからだった。

 ひとしきり工程が終わり、水気を拭きとる。

 いつの間にか、黒猫が浴室に戻ってきている。


「ごめんね、お姉ちゃんの身体拭いたやつで拭いちゃって」


『ううん、全然。ありがとう』


 瓶を手に取り、蓋を開ける。香油を掌で延ばして、〈リリ〉に塗ろうとするエルラ。


『待って。それはいいかな、お姉ちゃん』


 慌てたように止めるリリ。


「――だよね」


 エルラは寂しげな顔で言った。ちょん、と剣身の根のあたりを指で撫で、あとは自分の身体へ香油を塗っていく。


「これ、すごい――」


 香りがよいだけでなく、肌艶もよくなっている。


(いいものなんだろうな。でも、こんなもの自分が使ってもいいのだろうか)


 なんの対価もなしに、これだけの施しを受けられるものだろうか。エルラはそう思い、だんだんと怖くなってきた。彼女にとって己の価値は、せいぜい家族三人の食事一、二日分ほどでしかなかった。

 ここの家主が知り合いだというのも気になる点でもある。


「はー、リリ。お姉ちゃんこれからどうなっちゃうんだろう」


 顔を覆い、溜息交じりに言った。


『? お姉ちゃん、何か勘違いしてるかも』


「え?」


『うん?』


「どういう勘違いかは知りませんが、もういいですか? 暖かい時期とはいえ、冷えるのはあまりよくないですよ」


 角の生えた少女が、横から声をかけた。

 ハッとエルラが振り向く。


「そんな驚いた顔をしなくてもいいじゃないですか。逆にこっちがびっくりしてしまいます」小さく左手を上げて言ったあと、もう片方の手でたたまれた服を差し出す。「はい、これ。好みに合うかはわかりませんが、いまのところはこれを着てください」


 少女をジッと見るエルラ。


「……ああ、この服はわたしのですが、一度も着ていないものなので」


「あ、いや、そんなつもりじゃなくて。いや、ありがと」


 エルラは服を受け取ると、少女の目の前で、着始めた。

 着替えは、白いブラウスと、灰紫色のピナフォアドレス。簡素なデザインだが上質な生地を使っていることはエルラにも一目でわかった。


「サイズはたぶん問題ないと思いますが、よっぽど合わないなら言ってください」


 エルラの着替えを見ないよう、横を向いて、角の少女は言った。


「ちょうどいい、です」


 着替え終わったエルラ。それを見て頷く少女。


「髪はまとめますか?」


 長い髪を手で軽く梳かすエルラ。


「このままで」


『似合ってるよ、お姉ちゃん』


「もうリリったら」


 はにかみながら、〈リリ〉を抱える。


「さて、と。では、ついてきてください。会ってもらいたい方がいるので」


 深刻そうに頷くエルラ。


「そんなに身構えなくても平気ですよ」


 歩きながら言う。


「さきほども言いましたが、あなたたちも知っている方です。まあ、その方が言うには、最後に会ったのは五年以上前のことらしいので、覚えていないかもしれませんが」


 熱のない球状の吊りランプで照らされた白い壁紙の廊下が、エルラにはやけに眩しく思えた。

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