穢れのスノードロップ(3)

――――

「……ちゃん、お姉ちゃん!」


 夜明け前、かすかに空が白んできた頃、エルラは目を覚ました。


「痛、生き、てる?」


 全身を痛みと鈍い倦怠感が支配している。

 昨夜、魔族に抱かれている間のことは曖昧で、事の途中で意識を失ってしまったようだが、ひどく乱暴されたことは確かだった。


「リリ……」


「お姉ちゃん、よかった。よかった――」


 よかった、としきりに言いながら、泣くリリ。


「ダメじゃない、逃げてって言ったのに」


 エルラはリリを抱き寄せながら、優しく言った。


 右腕が治っている。治ってはいたが、二の腕から先の肌の色が浅黒く変わっていた。視界にちらちらと写り込む前髪も白くなっている。赤い柄のブランケットを捲ると、左足も右腕と同様に変色していた。

 自分は人間ではなくなってしまったのでは、と口の中が苦くなる。「偉大で邪悪な魔族」の寵愛を受けたものは彼の眷属になる、言い伝えではそう言われていたから。


 だが、いまはそれよりも、


「でも、よかった。リリ……」


 泣き出しそうになるのを堪えるエルラ。泣きじゃくる妹を胸に抱く。ひとまずは生き残れてよかった、そう一息を吐いた。


(……?)


 ふと、違和感があった。


 あたり一帯を包む腐り始めた血の匂いと焦げ臭さに混じって、新しい血の匂いがした。エルラ自身の匂いでもない。

 エルラは、手と胸に冷たい感触があるのに気付いた。液体で濡れている。

 嫌な予感がし、リリを見る。

 リリの肩口と腹は赤く染まっていた。肩の傷からは白いものがのぞいている。


 エルラは呆然となった。

 この傷では助からないだろうことは、簡単に察せられた。昨日一日で何人もの死体を目の当たりにした彼女には嫌でもわかってしまった。


 父親が死に、村も壊され、さらには妹までもが死ぬ。それだけはどうしても受け入れられない、あってはならないものだった。

 エルラにとって、リリは残った最後の肉親というだけでなく、彼女の世界を形作る最後の一欠でもあった。



 エルラはブランケットをリリにかけてやると、妹を背に乗せ、駆け出した。自分は裸同然の姿のまま。

 痛む身体に鞭打って、森を走る。

 一番近い町までは、昼前には辿り着けるはず。

 心の中で何度も、妹に大丈夫だと語りかけながら。自分に言い聞かせるようでもあった。


 夜が明けつつあったが、それでも森の中はまだ夜の気配が場を仕切っていた。

 夜の森は恐ろしい、それが森の隣に住む者にとっての常識。

 もしかしたら、野犬や熊に出くわすかもしれない。あるいはマモノがまだ近くにいるかもしれない。

 妹も死んでしまうかもしれない。

 不安と恐怖に追い立てられ、エルラは走った。その足を石が抉り、落枝が貫こうともお構いなしに。



 道もまだ四半、あまりに焦っていたエルラは木の根に足を取られ転んでしまった。受け身を取ることもできず、盛大に転んだ。

 舌打ちも、悪態を吐く余裕もなく、ただただ憔悴し、背後を見た。


 目を疑った。それがなんなのか理解を拒みかけた。


 リリは灰のように白くなっていた、肌だけでなく髪の色までも。流れ出た血も、塩のように剥がれ落ちている。


 ああ、ああ、と声を詰まらせながら、エルラは妹に恐る恐る近付いた。

 白く固まったリリの身体は、全身がひび割れ、転んだ時の衝撃で手足の関節あたりは割れていた。

 触れようと手を伸ばすが、その手が届くことはなかった。エルラの手がリリに触れる直前、妹は崩れた。

 泣くには、心の準備ができていなかった。呆けたように、妹だったものを眺めることしか、エルラにはできずにいた。


 しばらくし、エルラは項垂れながら、結晶の山を手で掬った。無気力ながらそれしかすることがなかった。なんでもいいから一瞬でも現実から目を背けたいがゆえの行動だった。

 奥に黒いものが光っている。

 目を見開く。

 エルラは、縋るように白い欠片を掻き分け、ソレを掘り出した。


 それは剣だった。

 エルラの肩を越すほどの長さの大きな剣。分厚い刃、鑿に似た平たい切先、鴉の羽を思わせる青みのある黒い刀身、鈴蘭の彫刻。

 そして理解した。リリは剣に変わってしまったのだ、と。


 なぜ、どうしてと、疑問ばかりがエルラの頭を泳いでいる。だがすぐに直感的にそれらしい答えが浮かび上がってきた。

 あの魔族の仕業に違いない、と。


 そう思うと悔しさと怒りが込み上げてくる。自分と引き換えに妹には手を出さないという約束が破られたのだから。どうして自分を凌辱するような魔族のことを一瞬でも信じたのか。自分の愚かさや純粋さに吐き気すら覚えた。


 村は蹂躙され、両親も友人も、好きだった人も嫌いだった人もみんな死んで、妹は人ではなくなった。

 エルラは、一晩にして彼女の世界をすべて失くしてしまった。


 剣の柄に触れる。

 この剣で命を絶とうと考えてのことだった。しかしその考えは、すぐに頭の中から消えた。

 剣には暖かさがあった。


(リリの気配を感じる)


 剣に意識を集中させると、小さく寝息が聞こえた。いまは眠っているようだが、妹の存在をエルラは感じ取った。

 エルラにとっての救いは、妹は姿こそ剣に変わりこそしたが、死んでしまったわけではない、ということだった。


 だからこそ――、

 その日、エルラにはどうしてもやらなくてはならないことができた。


 ――どうしてこうなったのかをあの魔族を探し出して問い質す。事によっては彼の命を以って償わせることになるかもしれない。

 そして、妹を元に戻すこと。


 この二つ――、

 この二つを為すことができれば、どうなっても構わないと思った。

 何か目的を定めないと、このまま朽ちていってしまうだろう。

 妹だった剣に縋り、魔族に与えられた呪われた余生を緩慢に過ごす。

 それはあまりにも虚しすぎる。


 いま自分が抱えている、そしてこれから抱えることになるだろう――、

 覚悟、憎しみ、怒り、苦痛、焦燥、悔恨、悲嘆、絶望、虚無、

 そして希望、祈り――

 様々な想いが、この身を焼き尽くそうとも。

 運命を呪うよりはずっと健全だろう。



 大剣の刀身を撫でる。

 彼女の決意のように、朝焼けが赤く空を染めていた。

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