穢れのスノードロップ(2)
マモノに見つかることなく、なんとか自宅へ辿り着いたエルラを待っていたのは、残酷な果てだった。
それ自体は予想していた。だがやはり、だからこそ簡単には受け入れがたい現実でもあった。
家は半壊し、エルラの父は血塗れで壁にもたれかかっていた。ぱっくりと開いた首と腹から、彼がすでに死んでいるのは人体や医学に明るくないエルラにも一目でわかった。
作り物のような光景だった。それが却って、村を襲っている悲劇が実際の出来事だと実感させた。
エルラは、込み上げてくる現実感が溢れそうになるのを、ぎりぎりで飲み込んだ。
(リリは?)
妹を探してあたりを見回す。
「リリ? リリ――」
小声で呼びかける。
カタン、と小さな物音が聞こえた。音の出処は地下だった。エルラが落とし戸を開けると、リリがうずくまっていた。
「リリ、よかった」
「おねえちゃん……」
見上げるリリ。
「大丈夫」
手を差し伸べ、上がってくるように促す。
「お姉ちゃん、それ……」
地下から出たリリは、姉の怪我を見て真っ青になった。
「大丈夫だから、はやく逃げ――」
エルラは、リリの手を引き、その場から離れようとしたが、外から聞こえた物音に周囲を見回した。
拳銃を握る。
土を踏む音と、獣の息遣いが聞こえる。
「リリ! 隠れて!」
エルラが叫ぶのと、彼女にマモノが襲いかかったのはほぼ同じ瞬間だった。
マモノはエルラを押し倒すと、彼女の頭を噛み砕こうと口を開いた。
エルラは、とっさに右手を差し出した。
ガチン、とエルラの鼻先をマモノの顎が掠めた。
と、同時に右腕に激痛が走る。
手にしていた拳銃を手放してしまう。
被弾した足の痛みに感覚が麻痺しつつあったエルラだが、それとは別種の痛みと恐怖に叫びをあげることすらできず、乾いた嗚咽が零れるだけだった。
過呼吸寸前の激しい呼吸。涙がじわじわと溢れる。
自分が死んだら、リリに危害が及ぶ。そうならないように、という一心で痛みと恐怖に負けそうになるのを堪える。
落とした拳銃を左手で手繰り寄せる。
肘の骨が潰れる音がした。その痛みが肉を裂く痛みに上塗りされることはなく、
(ああ、肘の骨が砕けたな。もう右手は使えないんだな)
エルラは、他人事のように思うだけだった。自分のことを考えていたら、動くことなどできなかっただろう。
銃口をマモノの目に捻じ込み、思い切り引き金を引いた。
爆音。銃声はこの小一時間で一生分聞いたかといったところだが、まだ慣れない。
出血と痛み、轟音でクラクラしながらも、続けて一発、また一発と撃ち込んでいく。
六発のうち四発を撃ったところでマモノは死に、エルラにだらりとその死骸を横たえた。
俄かに、胸を撫で下ろすエルラ。とはいえ、まだ気を抜ける状態かはわからない。
下敷きになったエルラは、なんとか這い出ようとするも、右腕は噛まれたままで抜け出せない。両手が健在だったとしても、成人男性よりもずっと重いマモノを押し退けるのは簡単なことではなかっただろう。
悪戦苦闘するエルラへと、隠れていたリリが駆け寄る。怯え、涙を流しながらも姉を助けようと、左手を引っ張った。
(ダメだよリリ、隠れてなきゃ。お姉ちゃんは平気だから)
口は動くが、音にはならなかった。
ふいに、寒さが肌に刺さった。
(寒くなってきた……。死ぬのか――)
死ぬときに感じるのは寒さだと、誰かに教えてもらった気がする。エルラはそんなことを思い出し、死の訪れに腹をくくった。さすがの彼女も気の持ちようで死を回避することはできない。
しかし、彼女の諦めに似た覚悟も次の瞬間には吹き飛んでしまった。
視界に雪が映る。
ハッとした。いまの季節に雪が降る、この地域ではありえないことだった。
エルラがあたりを見回すと、大きな影が彼女たちのほうに近付いてくるのが見えた。
人間の倍近い背丈に、鹿のような大きな角。エルラにしてみれば、昔話に聞いた「偉大で邪悪な魔族」そのものだった。
冬を纏った魔族――それこそおとぎ話の悪魔そのままの印象。
魔族はエルラとリリを一目チラと見やったが、通り過ぎ、壁に寄りかかる父の遺体の前へ進んでいった。
彼は、なにやら呟くと、エルラたちの父の胸を引き裂き、その心臓を抉り出した。そしてその心臓を一口に喰らった。
その光景を見たエルラの心には、なぜ? という疑問と怒りが湧き上がってきた。
リリの手を振り払い、拳銃を魔族に向ける。そして躊躇いなくその背目掛けて発砲した。
魔族は撃たれたことに気付いたのか、ゆっくりエルラのほうへ振り返った。
エルラには、彼が山のように思えた。冬の山が人に近い形をとっている、そう思った。
ゆっくりと、エルラとリリへと近寄る魔族。
エルラは最後の一発を撃ったが、目の前の魔族の歩みを止めることはできなかった。
ガキン、ガキンと、空撃ちの虚しい音が響く。さきまでは何とも思わなかったダブルアクションの引き金が、ひどく重く感じられた。
魔族は、二人の父の遺体を指差し、
「お前、たち、彼の、娘、か?」
片言の言葉でぎこちなく問いかけた。
小さく二人は頷いた。そうするしかなかった。
魔族は、その返答を受けると小さく溜息のように長い息を吐き、空を見上げた。そして、エルラを見つめ、彼女に圧しかかるマモノの死体を埃を払うかのように軽々と除けた。
その勢いで、噛まれたままだったエルラの右腕が千切れた。
痛みで、ふと我に返るエルラ。次は自分だと、さきの光景を思い起こし予感した。
エルラは力を振り絞り、飛び起きると、魔族へと組みつこうとした。しかし、左足の怪我を忘れていたのか、体勢を崩し、魔族へと縋りつくような姿勢になった。
「リリ! 逃げて!」
声を張り上げるエルラ。
でも、とおたおたするリリ。
「はやく! お願い、リリだけは!」
妹へ逃亡を促すとも、魔族への懇願にも聞こえる悲痛な叫び。
自分でも自分にこんな声が出せるのかと、驚いている。
リリは、ひどく悲しそうな顔をしながらも、決心したのか、走り去っていた。
夜の森は危険だが、いまの村よりは安全だ。
それに――、エルラには考えがあった。
「ねぇ、魔族さん。魔族って契約とか約束を大事にするんでしょう? だったら、わたしのことは好きにしていいから、あの子は見逃してくれませんか。森の獣に襲われないで、どこかの町に行けるようにしては、くれませんか」
いまにも泣きそうに、声を震わせながらエルラは言った。
彼女の要求に面食らったように、
「それは――」
魔族は、言い淀んだ。
彼にも何か事情があるようにエルラには思えたが、彼女にとっては彼の事情などどうでもよかった。すでにたくさんの血を失っただけでなく、魔族の齎した冬もエルラの体力を大きく奪っていた。彼女には時間がなかった。
「お願い、します。おねがい――」
言葉の途中で、エルラは全身の力が抜け、倒れた。
朦朧とする意識。その中でも、魔族が顔を寄せ、口づけしたことははっきりとわかった。
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