サングニクス

京ヒラク

血染めのスノードロップ編

穢れのスノードロップ(1)

 少女には、どうしてもやらなくてはならないことがある。

 つまらない言い方をすれば、復讐だ。


 それがようやく叶う、と。

 感じたことのない悦びに身体が、心が震えていた。


 あの日から積み上げてきた苦難を、少女は覚えている。

 言葉にできないほどの苦痛と寂しさが、少女の身体を支配していた。

 手の中にある温もりも、渦巻く冬の熱さも、すべてが炎の中に消えていく。

 何もかもが、灰になっていく。

 何も残らない、空っぽになっていく感覚。

 虚無という表現でさえ満ち足りたものを指す言葉に思えるほどの、空漠、絶無。

 無が、少女の胸を刺した。

 傷が、過去が、想いが痛む。

 いまとなっては、それらもすべて、炎の中へとかき消えた。

 自分の「仕返し」には、何もなかった。とんでもない三文劇だった。


 だとしても、

 少女には、やり遂げなければならないことがあった。

 すべては、彼女のために。




  ◆  ◆  ◆


 水車小屋から一人の少女が姿を現した。

 少女は衣服とその赤みがかった金色ストロベリーブロンドの髪とを念入りに叩いて粉を払ったあと、すぐそばの川で顔を洗い、エプロンを身に着けた。

 土手を上る。

 小麦の海とブドウの丘、ぽつりぽつりと納屋が建ち、遠くには集落が見える。集落のさらに奥には深い森と山が控えている。

 まだ明るいが晩鐘はとっくに鳴っていた。

 あまり遅くなると心配させる、少女は家路を急いだ。



 少女――エルラは十五歳の少女だった。

 三つ年の離れた妹と、父親の三人で暮らしている。

 母は妹が生まれてすぐに亡くなった。エルラに母の記憶はあまり残っていないが、父や村人の話を聞くに、彼女たち姉妹は母親に似ているらしかった。


 何年か前に身体を壊した父に代わり、いまではエルラが家を支えていた。もっとも、親切な村人たちがエルラに簡単な農作業や針仕事を用意してくれているからこそ成り立つ生活でもあった。

 エルラは自分ではそう思ってはいないが、父は自分のせいで娘に苦労をさせていると悩んでいるようだった。


 それでも、あと何年かすれば妹は結婚し、そうしたら父は無理にでも自分を嫁がせるだろう。どうにも父には自分の長女を任せると決めた人物がいるようだった。その相手が誰でも構わないが、当事者が置いてけぼりなのは少し寂しいものがあった。この時代ではあたりまえのことだとしても。

 幼い頃に思い描いていた生活とは少し違うものの、エルラはこの暮らしが嫌いではなかった。

 自分が死ぬまでに電信回線が通るかもわからない田舎だとしても。

 豊かというわけでもないが、貧しいというわけでもない。平凡で、なんの起伏もない日々が続くような。空虚ではあるが、ありあわせのもので埋められると錯覚できるくらい何もない。

 なんとなくそういうふうに生きていくんだろうな、とエルラは思っていた。


 しかし、そんな日々は、ある日突然に終わりを迎えた。




 初夏、小麦の収穫もそろそろという頃だった。

 農場のヤギやウシたちが喰い殺され、若い女性が一人消えた。

 その女はジャンヌといい、先週に式を挙げたばかりの新婦だった。エルラとは三つ違いで姉のように慕っていたし、彼女と新郎との仲を取り持ったのもエルラだ。

 捜索も空しく、ジャンヌは手足しか見つからなかった。


 家畜の死体やジャンヌの遺体の様子を見るに、狼や熊の仕業ではないらしかった。

 自分たちの手には負えない、と一番近い町へ助けを呼ぶことになり、連絡役に選ばれたラウルが帰ってきたのは次の日の昼前だった。その彼も生きて帰ってきたわけではなく、道脇の茂みで死体が見つかるというものであった。彼が役目をこなせたかどうかもわからなかった。


 村人たちは、マモノの仕業として、武器を手に取り、このマモノを狩ろうと考えた。一体だけならどうにかなると考えたからだった。結ばれたばかりの新婦が惨たらしく殺されたというのも村人たちの怒りに薪をくべた。マモノを直接見たことのない彼らにしてみれば、マモノは恐ろしい怪物ではあるものの、物語の中で誇張の生じた〝強い野生生物〟にすぎなかった。

 エルラの父親とマルセルという老人を除いて、討伐に反対する者はいなかった。



 次の日の朝からマモノ狩りが始まった。

 エルラも身体を壊して森を歩くことが難しい父親の代わりに、山狩りに参加した。彼女の意思によるものだった。そんな彼女にマルセル老人は「無いよりはマシだろう」と六連発の前装回転式拳銃を持たせてくれた。


 昼過ぎには、村内を巡回していた班が、刈入れ前の麦畑でマモノを見つけ、撃ち殺すことに成功した。あまりにも早く、呆気なかった。

 しかし、それで終わりではなかった。村一番の鉄砲打ちだったジャンがマモノの死体を検分したが、彼はすぐに違和感を覚えた。その獣はマモノではなく、異常発育した狼だった。胃の内容物にも人を食べたことを示すものはなかった。

 ジャンが、「コイツはマモノなんかじゃない! 気をつけろ!」と叫んだときには、もう遅かった。

 すでに一〇を超す数のマモノが彼らを取り囲んでいた。



 同じ頃、エルラは森の中にいた。

 彼女はジャンとは別の班で行動しており、村のほうから聞こえる何発もの銃声から異常を察知し、そちらへ急行していた。

 全員が焦りと殺気で緊張していた。


 彼らが、村へ戻ったときには、すでにジャンたちや留守を守っていた者たちの多くは死に、畑や家からは火の手が上がり、マモノの群れが村を跋扈するという状況だった。

 マモノは狼や野犬に似た獣といった姿だが、人間と同じかそれ以上の大きさだった。身近な脅威に例えると熊が最も近い印象だろう。


 恐怖に竦む彼らの前に、のそりと一体のマモノが姿を現した。彼らを値踏みしているように見える。

 近寄られる前に撃とうと、男が銃を構えた。

 マモノは彼に跳びかかり、その爪で頭を抉った。その巨体と直前までの動きからは想像できない俊敏さで。


 頭をもぎ取られた男の手から猟銃が滑り落ちる。銃は地面を跳ね、暴発した。

 その弾が運悪く、近くにいたエルラに中った。彼女の膝上あたりの内側から斜め上へ銃弾が貫通した。足が爆発したかのような衝撃と痛みに、エルラは崩れ落ちた。突然のことに、痛いと声をあげることもできない。


 倒れたエルラへマモノがにじり寄る。

 この場で誰が一番〝獲物〟として適しているかを理解しているようだった。

 そこへ、恐慌状態になった同じ班の男がピッチフォークを槍のようにして体当たりした。エルラを助けようとしたのかはわからないが、結果としてはそうなった。


 マモノともつれ合う彼を横目にエルラは近くの納屋に逃げ込んだ。子供がいたが血塗れで、すでに息絶えているようだった。


(どうしてこんなことに――)


 平和だった村が、あっという間に地獄へと様変わりしてしまったことに動揺を隠せなかった。


(リリ、お父さん、どうか無事でいて――)


 家に残った妹と父の安否が気になった。

 エルラは、流れ弾の中った左足を縄で縛り、ピッチフォークを支えに、自分の家へと向かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る