第10話

 紫苑は毎日練習場所を指定して呼び出してきた。今日はタバコのニオイのするレンタル・スタジオだった。たっぷり3時間近く合わせて、ヘトヘトになりながらアパートに戻ってきた。


 上着に布用消臭スプレーをシュッシュッとかけ、お風呂で汗を流した。シャワーの刺激が肌に心地よい。お湯は私の肌をヴェールのように覆いかぶさってから、流れ落ちていった。


[PlayList No.10 コートにすみれを](https://www.youtube.com/watch?v=urm9uPvamIw&list=PLf_zekypDG5rmEze1PbqCh3dDwop0KTCo&index=10)


 バスタブにちゃぽんと浸かり、可能な限り足と手をのばす。お湯から突き出した白い手を見つめる――小さい手だなと思った。子供の頃、どうしても届かない和音を弾くために、左手をギューを引っぱったことがあった。水かきをカッターで切り取ってしまおうとも真剣に考えていた。そんな私の指を確かめるように、グーとパーで何度も握った。


 紫苑に会うまでの私の生活は、大学に行き、履修してる授業を受け、家に帰るだけだった。よく言えば、規則正しい。悪く言えば――何も面白みの無い日々だった。


 それが一変した。紫苑とはいろんな場所で練習した。最初に連れて行かれたプレハブ小屋だったり、今日のような市中の音楽スタジオだったり――教育学部の音棟の個人練習スペースに連れ立って入ることも多い。


 音棟に向かう途中で聞いてみたことがある。


「紫苑って――」彼は、呼び捨てで呼ぶことを求めた。「音楽専科の学生なの?」


「いや、違うよ」


「そこは教育学部で音楽を学んでる人しか使っちゃいけない決まりよ」


「そうなの?」そんな決まりを考えたこともないようだった。「でも空いてるからいいんじゃない。アコースティック・ピアノもあるし」


 誰かに咎められないか、と心配しながら彼に続いたが、誰からも声がかからなかった。堂々としていれば、案外大丈夫なのかもしれない――彼の態度を見習いたい。


 これまでの練習では、紫苑が作曲したオリジナルを3曲と、ビューティフル・ラブを含むスタンダード曲を3曲仕上げてきた。スタンダードとはジャズミュージシャンが数多く取り上げている曲のことで、アレンジは私の好みからビル・エヴァンスに寄せていた。


 形にはなっていると思う。少なくとも私達の演奏を聞いて、不快に思う人はいないだろう。しかし、紫苑は満足しているわけではなさそうだ。今日もうんうんと何かを考えていた。


 相方として相談に乗るべきだとは思う――しかし、今の私にそんな元気は残っていない。髪を乾かしたら、巣ごもりするハムスターのように、布団にくるまり寝てしまおう。スキンケアもさっと終わらせて――洗濯も明日でいいや。


***


 次の練習場所には――先客がいた。

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