第8話
昼は見慣れた学内でも夜はまた違った雰囲気だった。夜風を感じ、肩に羽織ったストールをぎゅっと握る。
馬鹿だからきた。
紫苑に期待してるわけではない。紫苑についていくことで私が変われることを期待しただけだ――と自分に言い聞かせる。どちらも同じことだけど……。
[PlayList No.08 枯葉](https://www.youtube.com/watch?v=y6hq3gjmhoc&list=PLf_zekypDG5rmEze1PbqCh3dDwop0KTCo&index=8)
「おまたせー」と紫苑と、彼と同じくらいの背丈のベースの影が見えた。紫苑はコントラバスのことをベースと呼ぶ。
「鍵の拝借に時間がかかってね」
「拝借?」
こちらの疑問には答えず、スタスタと歩いていく。
「まさか、音棟に忍びこむわけじゃないでしょうね?」
「大丈夫。夜は、そこには忍びこまないよ」
――夜は?――そこには?
宣言通り音棟を通り過ぎ、脇の坂道を下っていった。この道をずっと行けば海岸につくはずだが、防砂林があるため浜辺は見えない。
窓の灯が遠くなり、街灯もまばらになる。人影もない。初夏の訪れを告げるジー、ジーという虫の声が私の鼓膜をゆらした。
その先にはグラウンドと武道場しかなかったはずだが――いまさらだけど不安になる。
着いたところは大きめのプレハブ小屋だった。
紫苑は「ちょっとまってて」と鍵を差し込み、ガタガタと締まりの悪い引き戸を開ける。紫苑が中に入るとすぐに電灯がついた。手招きに従い、中に入ると雑多な玄関だった。内履きなのか外履きかわからない靴が放置されている。
「スリッパはそこのを使って」
床の一部と化したダンボールに統一感のないスリッパが無造作に詰め込まれていた。試しに一つ取り上げると、つま先がぱかっと開いている。誰が使ったかわからないスリッパのほうがよいか、うっすらとホコリが見える床に靴下で踏み込んだほうがマシだろうか――比較的に新しそうなスリッパをお借りすることにした。
玄関の先には両脇にそれぞれ扉があり、中央に位置するこのエントランスには各音楽サークルのポスターが貼ってあった。紫苑を追って右側の扉から入ると、木目床のフロアに楽器ケース、パイプ椅子と楽譜立てが乱雑に置かれていた。カバーのかかった木琴やドラムセットも見える。吹奏楽部かオーケストラ部の練習場所のようだ。
「奥にピアノあるから」
戸惑う私をよそに紫苑は鞄からタブレット取り出した。いそいそと備え付けのオーディオにつなぎ始めた。私はピアノの丸椅子に座って待つことにした。
「これ耳でコピーできる?」
流れてきたのはコンピュータで作られたピアノの音だった。本物の楽器と違って、残響が不自然だ。スローテンポのバラード。知らない曲だったが、ジャズでは有名な曲なのだろうか?
「いや、これは僕のオリジナル」
さらりと言った。
和声外音を多用し、調性も曖昧だ。クラシックに慣れた私の耳にはなじまなかった。しかし、聴き込むうちに「これもありかな」と思えてくる。どことなく優しい旋律だった。
「できそう?」
くたびれたアップライトの蓋を開き、音を拾う。
「これって、一部分を繰り返しはできますか?それと聞き取りづらいところだけテンポを下げるとか」
「お安い御用さ」
作曲はコンピュータで行うのが主流とは聞いていた。当然ながら私は使えない。タブレット画面を覗き込むと、見慣れた五線譜の上を音符が曲に合わせて流れていた。タイミングはわかりやすいが、清書された楽譜と比べて見づらい。これならば自分の耳を信じたほうが早そうだ。
音がさらえたので最初から弾いてみる。
いい曲だと思う。が、なにか物足りない。なんというか『紫苑らしくない』と思う。彼のことはよく知らないけれど。
それが早とちりだと気づいたのは紫苑のベースと合わせたときだった。
今日の紫苑は最初から全力だった。ピアノを伴奏に従え、ベースがメロディを奏でる。ジャズの作法の通りに何度も何度もテーマを繰り返す。そのたびに景色が少しずつ、あるいは劇的に変わる。彼の音に負けないように私も手数を増やす。音楽的な緊張や高鳴りが最大限に達したときに、それが来た。
紫苑が――歌った。
誰も聞いたことのないメロディを高々と歌う。本物だった。ああ、これは彼そのものだ。あふれんばかりの才気に満ちている。観客がいないことがもどかしい――誰か彼の曲を聴いて。
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