第6話
「何だジャズ分かるじゃん」の次に出てきた言葉は「ちょっと弾いてみてよ」だった。
「3週間後にライブをする予定だったんだけど、ご覧の通りピアニストに逃げられてね」
彼は大げさに肩をすくめる。3週間という期間はあまりにも短いのではないだろうか。私は発表会の準備はどんなに遅くとも3ヶ月前からやっていた。
「いえ、ジャズは弾けません。父が聴いてたのを覚えているだけで――それに楽譜もないですから」
彼は私の言葉を気にする様子もなく、ゴソゴソと鞄から黒い表紙の本を取り出し、パラパラとページをめくった。どうやら曲集のようだ。
「あったあった。これで大丈夫でしょ」
そこには手書き風のフォントで"Beautiful Love"というタイトルと、1ページ分だけの右手のメロディが書かれていた。
「左手が採譜されていない――」
聞けばジャズの楽譜は大まかなメロディと、アルファベットで指示された和音があっていれば、弾き方の指定はしないらしい。クラシックのそれとはぜんぜん違う。
「自由に弾いてくれればいいから」
その言葉に心が動く。思えば、子供の頃は聴いたメロディに合わせて自由に弾いていた。いつからだろう――誰かの指示通りにしか奏でることができなくなったのは。
「曲にあっていれば、好きなようにに弾いていいんですよね」
自分でも驚いた――私の口から出た言葉なのに。
彼は、ぱあっと明るい顔で何回も頷く。大丈夫――知っている曲だし、先程のCDで聴いた演奏がまだ頭に残っている。
***
32小節の短い曲だ。短調の哀愁をおびたメロディが美しい。
1回目はメロディラインを忠実に弾く。2回目はジャズのイメージで少し崩してみた。3回目はビル・エヴァンスを真似て、和音に変化を加えてみる。不協和音が少し耳に障る――聞くのと自分で弾くのでは大違いだ。
4回目は――少しずつ自分のイメージに合わせていく。
低音のレの音が、「このままつづけて」という彼の指示を伝えてきた。彼のベースに支えられて、私は自分のイメージを鍵盤で表現する。
```
二度と会わないと決めたあの人を夢でみた。
自分で仕舞い込んでいた慕情に驚きながら、ゆっくりと起き上がる。
風に揺れるカーテン越しに、自宅の門を見つめる。
他人に期待する自分を情けなく思う。しかし、年甲斐もなく心が揺れるこの気持に嘘はつけない。
```
心と音楽が一致した――そんな経験なんてしたことがないのに。不思議と指が動いた。奏でている――深窓の淑女の切なさに満ちた想いを奏でている。
```
秘めたる想い。
この気持はずっと明かさない。
そのはずだった――
```
物語は終わらなかった――彼のベースがこれで良しとしない。
これまでのゆったりとしたビートから、徐々に激しさを増す。緊張感が高まる。「嘘でしょう」と思うくらい、ベースの音程が上がり、私の弾くメロディに絡み合ってくる。引っ張られてはいけないと思う。曲の高鳴りに合わせて、ベースが高々に響く。
[PlayList No.06 Beautiful Love(Live)](https://www.youtube.com/watch?v=kQDCmKQioU4&list=PLf_zekypDG5rmEze1PbqCh3dDwop0KTCo&index=6)
彼の熱情にあてられて、頬が紅潮する。鼓動が高まる。
ピアノが歌う――物語をつぐむ。
```
貴方に会うまでの、私はからっぽだった。
だから、もう止まらない。
着の身着のまま、部屋を出て、貴方のもとへ向かおう。
この楽園を追放されようとも。
行き着く先が破滅であろうとも。
```
音楽が終わりを迎えた――それは空に消え、誰も掴むことができない。
***
首筋にじんわりとした汗を感じる。しかし、不快には感じなかった。店のクーラーが火照った体を冷やす。
コントラバスに寄りかかりながら、彼は息を切らしている。深い目がじっと私に語りかける――
> もしよかったら、一緒に演らない?
> 何を?
> もちろん音楽に決まっている。
> 私のピアノは――プロにはなれない演奏なんです。先生にも周りにも――誰にも認めてもらえない。
> 誰にも?そんなことあるわけない――聞いてみなよ。
「ブラボォ!」
――前川さんの歓声と拍手で、我に帰る。
彼はコントラバスをそっと横に寝かせると、さっと右手を出してきた。戸惑いながらもこちらも差し出す。手のひらは大きく、指は長かった――この手であの太い弦を抑えているのか。
これが私と、紫苑と名乗るベーシストとの出会いだった。
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