第5話

 幼いころは神童と呼ばれた。クラシック好きの母のもと、2才の頃からピアノを習った。レッスンに加え、母の支えがあったため、同世代の誰よりも上手に弾けた。耳がよく育ったことも幸運だった――と思う。


 小学校の入学のときに「より専門的な先生のもとで」と推薦を受けた。そのときには両親も大変迷ったと聞いている。「何もそこまでやらなくとも」と「才能があるなら伸ばすべきだ」という葛藤があったらしい。父親から「音楽で飯を食っていくのは難しい。それでもやるか」と聞かれ、私が「うん」と答えたことで両親は決めた。今、考えてみてもおかしい――6才でそんなこと理解できるはずもないのに。


 そこからはピアノだけの生活だった。週に1回の個人レッスンとグループレッスンに加えて、自宅での練習。毎日3時間は弾かないと間に合わなかった。泣きながらピアノに向かったこともある――母はさぞ大変だっただろう。


 先生は地域で有名なベテランだった。厳しかったが、私を上手に導いてくれた。そのおかげで、小学四年生でソナチネアルバムを終え、五年生で子犬のワルツを弾き、、六年生の発表会ではベートーベンの小品のソナタにチャレンジした。中学ではジュニアコンクールでも入賞できた。このときが人生のピークだったと思う――二十歳に満たない小娘が言うセリフではないけれど。


[PlayList No.05 悲壮ソナタ(第二楽章)](https://www.youtube.com/watch?v=MmYf0PTNzA4&list=PLf_zekypDG5rmEze1PbqCh3dDwop0KTCo&index=5)


 中学の卒業間際に、先生は体調をくずされ、長期の入院となった。見舞いの際に「貴女のピアノを最後まで指導してあげたかった」と病床で告げられた。


 新しい先生はプロになるための指導をした。作曲者の意図や、先人たちの演奏テクニックを徹底的に教え込んだ。コンクール審査員に受けるポイントも私の演奏に組み込んだ。


 少しずつ私と、私の手が奏でる音楽がずれていった。


 不安定なままコンクールの日は近づいてきた。私は自分の音楽を探し求め、ぐるぐると考えたあげく、私のやりたい音楽なんてものはなかった――ということに気づいた。


 高校二年生のコンクールで散々な結果――というより演奏を残したあと、私はプロになることを諦めた。


 母は「もし希望するなら――」と前置きをつけたあとで、私立でも音楽大学に進学することを勧めた。しかし、ピアノで生きていく道――大勢の前でコンサートで開き、CDを発売できる――という未来は見えなかった。だから、父の「教育学部の音楽科がいいのではないか」という一言をうけて、音楽の先生という想像ができる進路を取ることにした。


 今まで音楽以外の勉強はほとんどしてこなかった。その遅れを取り戻すための猛勉強が始まった。レッスンを止め、進学塾にも通った。そのおかげか、はたまた単なる奇跡だったのかわからないが、国立大学に合格することができた――これが今年の春のことである。

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