運び屋 ー19.3.10.
監督:クリント・イーストウッド
「チャラ過ぎて重さ格別!」
始まってすぐガンガン伝わってくる今回の主人公のチャラさ。
寡黙で耐える人物が多かったイーストウッド作品を待ち構えていた当方としては、それはそれで心地よい肩すかしだった。
だが考えるほどに老齢にてチャライとは、パワフル過ぎないか。
主人公の挙動を追いながら、「もう歳だから」「いまさら」と手放すありがちさについて考えさせられる。
俺のように人生を楽しめ。
言う一方で、楽しんだ代償も一つのテーマに。
追いかけ、取り戻し、己がままに行く。
その果ての、年齢分ためこんだ知恵と経験が導き出したティーンエイジャーとは異なる結末の重みには「老人青春ムービー」なんて言葉を思い浮かべてみたり。
とびきりキュートで、しかしながら淋しさ漂う一本だったなぁと振り返る。
しかしイーストウッドの芝居は素なのか、老人ぶっているのか、いまだに分からない。
時間は経ってみないと分からず、
年令は重ねてみないと分からない。
本当に。
それは知るべく感覚も意識も知性も全て、フィジカルを通してだからで、
老いてゆく肉体のそれが実際、どうなってゆくのかを味わうのはまさに、
そのときが来なければ実感しようがないからだろう。
そして常にグラデーションのかかったこの変化へ、うまく対応円熟してゆくもあれば、気持ちのままに変わらず乗り切る場合もある。
どちらがいい、悪いはなく、それこそ本人のもって生まれた性質に寄与するところが大きいのではと想像するばかり。
ただどうしても見た目と行動があまりに乖離し過ぎると、メタ認知という知性の点で
なんだか哀れに見えてくることもなく、
作品にはその辺りの悲哀を感じた。
たとえば若々しく、しかしながらまんま、若い時と同じではない時、年齢に応じた本当の若さは見出されるのでは、とも考える。
ということで若い人が参入の多くを示すアマチュアモノカキ界において、
もう後一回りで還暦を迎えようかというお年頃のわたくし。
果たしてはたからどう見え、どう見られているのか。
考えると寒いことこの上ないが、うまく若い人と同じことをしつつ、今でなければ出せない味を上乗せで来たなら、と思うばかりである。
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