第18話
皐月のあたたかな風がゆるやかに吹く。
陽の光があげられた半蔀から室内に射し込んでいた。
墨を擦る音が響く。
橘の邸の陰光の自室。
文机に向かい、陰光は墨を擦っていた。
少し離れた場所に凜が座している。
あれから二日が経った。
陰光の不安通り、邸に到着後茵に向かうなり疲労から泥のように二人は眠り、見事に寝坊を果たした。さらには節々や筋の痛みもやってきた。
床に伏しながら陰光は思った。泰高に話を聞き、椿の木霊と牛鬼に遭遇した。これは物忌みだ。行触れよりもしっかりとした穢れの案件だから物忌みするしかない。しないでどうするというのだ。
そう決めて、陰光は勝手に物忌みに入ることにした。
その辺りは泰高の方から口添えがあったらしく、川人も察して正式な物忌みの日数を占じて公表してもらうことになっている。そうでもなければこの忙しい時期に急な物忌みなど、同僚たちから凄まじい殺意を向けられかねない。
泰高は翌朝には体調の悪さは一切なく、むしろあれは一日分の夢だったのではと疑いたくなるほどだったという。
けれど陰光とのやり取りも、赤い花の夢もしっかり憶えていた。さらには起きた時には鳶が几帳に留まっていたのだ。夢などではない。
出仕し、陰光がいないことに不安に駆られたが、そこも鳶が邸にいる旨を伝え、その事を川人に伝え……ということらしい。その事実はすっかり寝込んだ日の夜に泰高自身の口にて知らされた。
巻き込んで悪かった。助けてくれてありがとう。そう謝辞を述べて。
「泰高様もご無事で……よかったですね」
凜がゆったりとした口調で呟く。
それに擦り終えた墨を置いて陰光も頷いた。
「お前も、名前が思い出せてよかったな」
凜は小さく微笑む。
男は名前を思い出した。
“凜”。唯一つの名を。
家の名はない。本当に名だけ。
何故思い出したのか。
あの時。牛鬼を倒し、周りに蛍のような光が漂っていた。それが触れた時にふいに思い出したのだと凜は説明した。
翡翠の饕餮。それに記憶を喰われたのではないかとあの日に話した。ばらばらに砕けた翡翠を思えば取り戻すことはもはや絶望的だと思われた。だが、どうやらまだ残っていたらしい。拠り所にしていた先を失い、近場にいた本来の持ち主に帰って来たのだ。
それは希望だ。砕けてもなお残るならば、他にも砕けた翡翠を探せばもしかしたらまだ記憶を取り戻せるかもしれない。
さらなる吉報もあった。
昨晩、あの鬼の女が再びやってきたのだ。
そして二人に告げた。
『記録を抹消されているにも関わらずここまで自我を失うことなく今も在るのは前例がない。前例がないということは、どうなるかは未知であり、我々の知らぬことになる』
そこで一度言葉を切って続けた。
『記憶が戻れば、名前が記される可能性が無いわけではなくなった』
閉ざされた道がまだあるかもしれない。
勿論、それはあくまで可能性なだけで約束されたものではない。けれど、完全に閉ざされたわけではない。
ならば、やれる限りをやるしかない。
凜と陰光はその可能性を信じることにした。
試しにと泰高から預かった翡翠の欠片にも触れてみた。砕けてしまっていたが、一瞬だけ光が灯った。
そしてある事実がわかった。それは些細なことだ。翡翠に残っていたのか、名を思い出したことによる連鎖かは分からないが一つだけ分かった。
その内容を思い出して陰光は心底納得いかないとばかりに渋面を作りながら、背後の凜を省みる。
「それで二十七……」
凜は齢二十七だと口にした。亡くなっているから享年二十七かもしれない。記憶の断片からのものだとしたらもしかしたらまだ上の可能性もある。そうだとしたら最低二十七ということにもなる。
陰光は二十だ。陰光より年上だった。
正直、見えない。
背が低いのもある。整った顔立ちでもある。さらには普通よりは幼顔で、戦闘でもなければ少し眠たそうなおっとりとした雰囲気もある。
だが、彼がしっかりしているのも分かっている。従者然と密やかに控えていたり、椿の時や饕餮もどきの時に見せる別人のような姿がそうだ。
平時の纏う色々がそう若く見せているのだろうが、それでもなんだか解せない。
苦虫を噛むような目をすがめた顔に凜は少々困り顔で苦笑すると、口を開いた。
「一つ、聞いても?」
話題を変える為のそれに陰光は視線で先を促した。
「何故白冥の名を、お使いにならないのです?」
小さく首を傾げながら問う姿はやはり幼さがある。
その動作を一回除外して、問いに答えることにした。
「世間一般的には橘陰光が正しいんだ。白冥の名は俺が生まれた時に母上がそうだと思った名でもある」
夜。難産だった母が見た掃星。掃星は空の穢れを祓う星とも考えられる。冥闇を引き裂く白い光を目の当たりしたその時に陰光は生まれ落ちた。
それは、もう一刻もしないうちに朝を呼び込む薄明の時分。
だから白冥と母は名付けた。
「母上は気に入っていたが、周りが薄命に通じる響きもあるからと止めたんだそうだ」
折角産まれた赤子が薄命であっていいはずがない。
そういうことで父親の方から改めて陰光という名前を与えられ、白冥の名は母の中でのみ秘されてしまった。
幼い頃は時折その名で呼ばれていたが、成長するうちにそれもなくなった。
何故?と凜は不思議そうにする。
「見えざるものが見えることが分かったからだ」
人と異なる力を有している。決して疎んだわけではない。ただその力が強くなる度に、名を呼ぶ度に。命と引き換えに強くなっているのではないか?と思案したのだ。
母は普通の人ではあった。けれどその直感に従った。
「名は呪でもあるからな。生命に関わるかは別として。実際、今回の事で大切だとは気付かされた」
凜から発された懐かしい響きに白冥の名前を口にした。
陰光の力は周りが思うよりも絶大だ。ただ、それを使う理由がない為に普段は眠り続けている。当人すらも忘れるくらい長らく使われなかった力。名が根底にあるものを引き摺り出したのだ。
冥闇を引き裂く、白き光を放つ祓い星。
少々荷が重い気はするが、勿論大切なことに変わりはない。
小さく笑ってから陰光は手招く。
凜は応じて立ち上がる。
近寄ってきた凛に文机の横に座るように指で示す。
文机には先程擦った墨に筆。料紙。文鎮。それらが並んでいる。
これから書き物がある。その内容を凜は知っている。
夜闇の瞳がきらきらと期待に煌めいていく。
まるで子どものようだと陰光は笑い、その頭を乱暴に撫でてからすっと姿勢を正した。
数呼吸して息を整え、筆を取る。
擦ったばかりの墨に筆をつけ、たっぷりと含ませる。黒く染まった筆を持ち上げ、適量になるように筆先を整えてから料紙の上に移動させた。
下ろされた筆で料紙を黒く染めるとそれは流れるように動き出した。細くはない、はっきりとした太い。けれどその動きは流麗なもので、点と線だけのものが一枚の絵でも描くようにたった一文字を書き上げる。
最後を払えば、それは完成した。
凜。
ようやく思い出した男の名前。
約束をしていたわけではない。細やかな提案をただ成しただけだ。
だが、凜は目を輝かせて笑った。
それに陰光も笑い返した。
穏やかな風が吹き込む。そこに二人の笑い声が紛れていった。
陰陽師は白冥の名に応える 東雲 @sikimura
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