第17話

 白い光が終息する。

 緩やかに消えていく中で淡い光が蛍のように舞う。

 それもすぐに薄くなり、消え去った。

 がさりと、草の音がして陰光は振り返る。

 男が立っていた。

 周りに牛鬼や根の姿はない。

 ふわりと蛍のような光が舞っている。男の周りをふわりふわりと舞い、その一つが 男に吸い寄せられるように近寄る。光はそっと触れると消え失せた。

 静寂が辺りを包む。

 動くこともなく佇んでいた男がゆるりと陰光を見やる。

 そして、静かに微笑んだ。

 途端に緊張の糸が切れた。陰光はそのままその場に倒れる。

「陰光様!」

 慌てた声と草を分ける音がする。

 それでも起き上がるのが億劫で、やってくるのを待つことにした。

 見上げれば深い緑の葉が一枚、一枚と散っていく。

 禍々しいものはもはやない。妖の亡骸たちも術のせいで消し飛んでしまっただろう。

 流石にやりすぎた。

 しかし、別に亡骸に向けたわけではなく、巻き添えのようなもので。しかも、中身はやはりないわけだから別にいいはずだ。

 だが、破邪退魔の九字法で結界もどきを作った。自身が考え得る、使える最大最高火力の攻撃的な結界だ。やはり術の選択を過ったかもしれない。でなけれは、ここまで疲れたりしない。

 一人唸り続けると男が顔を覗き込んできた。

「ご無事ですか?」

 焦った様子で本当に心配そうな顔をしている。

 あー、と罪悪感から小さく唸り頷く。

「ちょっと疲れただけだから」

 ついでに力無く笑ってやれば、深く深く息を吐き陰光の横にずるずると座り込む。

 心底心配してくれたのがよく分かりさらに罪悪感が増していく。

 はらりとまた一枚葉が落ちた。

 常盤木の椿の葉がはらり、はらりと落ちていく。

「椿は」

 小さく声を出したのは男だった。

 顔を上げることなく、舞い落ちてきた葉を見ている。

「椿は、朽ちるのですか?」

 どこか寂しげな声色がある。

 陰光は葉を散らす椿へと視線を向けた。

「朽ちるさ。いや、もう朽ちたといった方がいいかもしれない」

 花の咲かせなくなった椿。常盤木の葉がただ散っていく。その枝には新しい葉はない。これが最後だろう。

 男は椿を見上げる。

 絶え間なく散る葉に手を伸ばした。その手に葉が一枚落ちる。

 瑞々しいはずの葉は乾いている。夜闇の瞳が静かにそれを見下ろす。

 数度瞬くと、陰光は手を上げて足下。木の根本を指差した。

「悪いがそこの根を退かしてくれないか?そこに翡翠があるはずだ」

 言われるままに男は視線を向ける。

 少し盛り上がったような形で重なる根があった。

 膝だけでにじり寄り、剣を召喚すると根に刃を突き立てる。

 硬くはない。思うよりも呆気なくそれは溢れるように剥がれていく。

 大きめの根を剥がす。その下に砕けた翡翠の欠片が無数にあった。もはや砂粒のようで、拾い上げることが難しい。

 指先を押し付けてなんとか拾い上げる。指の腹に少しだけ付着した欠片はさらさらと、今度こそ砂となって消えていく。

「……砂に、なりました」

「…………やりすぎたな」

 少々戸惑った声に陰光は渋面を作る。

 残していいことはないが、やはり完璧に除去していた方がいいのではないかと思っ ていた。砂になるほどならば心配はいらないかもしれないが、気持ちの問題だ。

 というよりもそこまで霊力を込めていたのかと力加減の無さを再確認した。

 よっこらせと掛け声一つに起き上がる。

 男の背中が映る。脇腹に巻かれた衣だった布。そこが汚れている。止血はしたが衣が吸った血をさらに吸ったのだろう。

 自身は袂こそ破れたが、怪我などはしていない。していても打ち身くらいだろう。それに対して男だけにこんな大怪我をさせてしまった。

 未熟だなぁ。

 心底そう思い知らされる。

「陰光様」

 呼ばれて顔を上げると男は体ごと向き直っていた。

「どうした?」

「椿の花……幻でも、咲かせることはできませんか?」

 目を見開き、瞬く。

「咲きたいと、願うなら。せめてと朽ち落ちる前に」

 咲きたい。咲かせましょう。今一度。

 椿はただ願った。牛鬼は絶えず泣きながら訴えた。痛切な願いだった。

 その願いが歪み、穢れてこのような惨事となった。僅かな力にすがり付き、手段を選ばなくなった。願いも祈りも。道を間違えれば呪いになる。

 ついと陰光は椿の幹を示す。

「幹、触ってみろ。多分お前なら分かるから」

 今度は男が瞬いた。

 不思議そうに小さく首を傾げるとまた椿へと向き直る。

 何が分かるのだろうか。

 疑問を抱きながら手のひらをそっと添える。茶の他に灰褐色も伴った幹は乾いていてざらりとしていた。その奥がやがて朽ちて空になるのだろうか。そう空虚な思いが過る。

 刹那、男は目を瞠った。

 手の先から微かなものが伝わった。

 とくり、とひどく弱々しいもの。

 思わず振り返る男に陰光は小さく笑った。

「悪しき鬼を退け、凶(わざわ)いと災(わざわ)いを祓う。それが本質だ」

 禍事を取り払い、穢れや邪なものを祓う。それこそ大本は災いを避けるための秘咒だ。

 凶いをもたらした翡翠の欠片。それ避けるではなく、持ち得る霊力を一ヶ所に集中して放ち破邪とする。今回は力を込めすぎて媒介だった欠片まで砂になってしまったが。

 椿は神木として扱われることもあり、桜とも変わらぬ霊性がある。この椿もまた境界に立ち、分け隔てていたことから霊性は高かった。

 その心が嘆きと翡翠によって穢れてしまっただけ。その穢れだけを祓ってしまえば、椿の格となる部分は寸でで残される。

「あの化け物は」

「嘆きの具現化だな。本体はあくまでこの椿。……心を別つほどに願ってしまったんだろうな」

 立ち上がり、男の隣に立つ。

 同じように幹に手を当てれば弱々しい鼓動を感じる。

 もとより朽ちる定め。それが暴走した為にもはや今宵一晩も持たないだろう。

「椿よ。椿の木霊神(こだまのかみ)よ。今一度と、願うか?」

 椿へと問い掛ける。

 微かに葉音が響く。首肯するかのように。

「俺はしがない陰陽師。神を勧請(かんじょう)させることは流石にできないが……手伝いだけならできる」

 ざわりざわりと葉が鳴いた。

 目を細め、一歩だけ身を退く。

「俺は、何かできますか?」

 男が問う。

「なら、そのまま椿を触ってくれ。それから……最期まで見てやってくれ」

 見届けるものを、と陰光は男に頼んだ。

 椿はあの猿の願いに応えようとしたのだから、咲いた花を認めるものが必要だ。

 その意を正確に汲んだのか男は静かに頷いた。

 陰光は一度だけ椿を見上げてから柏手を打った。

「拝み奉りて奏上(そうじょう)す 高天原(たかまのはら)に神留坐(かむづまりま)す」

 静寂の中に声が厳かに響く。

 決して大きくはない。けれど、一音も揺れないはっきりとした言霊が闇の中に広がっていく。

 鏡面のような水面。そこに滴が落ち、波紋が広がるように清冽な霊力が広がっていく。

 椿が揺れる。いつの間にか葉は落ちるのを止めていた。

 幹が脈動する。弱々しかった鼓動が力強く刻む。その力がある箇所に集約していく。

 男はその先を見つめた。

 それはとある枝。何もなかったそこに膨らみが生まれた。それは急速育ち、蕾となす。さらに膨らみ、淡かった緑から赤へと変じていく。

「憐れみ給い恵み給え」

 周りに霞んだ白い光が現れる。それは蕾を支えるかのようにより集まり赤に沈んでいく。

 大きく育ち、光を得た蕾が膨らむ。緩やかにそれが花開き始めた。

 赤い赤い、真っ赤な花。夜闇にそれが咲き誇る。

「幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)、守(まも)り給(たま)い幸(さきわ)い給(たま)え」

 奉上を終えると清浄で暖かな風が吹き抜けた。風が二人の髪を揺らす。

 大輪の美しい真っ赤な椿が咲き開いた。中央にたたずむ芯の黄がより赤々とした花弁を湛えている。

 たった一輪だけだった。けれど、その一輪に全てを捧げたように大きく、赤い、本当に美しい花が咲き誇った。

 緩やかな風に花が揺れる。

 ふと、二人の耳に声が聞こえた。

 薄ぼんやりとした声だった。

『これはまた美しいものだ』

 聞いたことのある声に二人は振り返る。

 椿全体を眺められる場所に大きな姿があった。

 大猿だ。

 だが、そこに存在感などはない。幻だ。

『赤々と咲き誇る……いやぁ、此処等にきてよかったわ』

 大猿は目を細めて満足そうに笑っていた。

 それが一度掻き消える。少し違う場所にまた姿があった。

『今年も美しいのぅ。互いに長きに生きたもの同士。これも縁か』

 愛おしそうに椿を眺める大猿がいる。それが浮かんでは消えていく。椿を言祝ぐ言葉が降り注ぐ。

 美しい。綺麗。見事――。

 語彙は多くはない。ただ、そこにある声色は真っ直ぐに心を表すようではあった。 間違うことない心からの言葉だった。

 大猿はこの椿と出会ってから毎年ここに来ていた。椿を見ては素晴らしさに言祝ぎ、咲き誇る様を眺めていた。

 椿もそれが嬉しかったのだろう。

 闇に浮かぶはずの世界は昼間のように明るく、淡い色彩の世界を作り、二人に見せていた。

 短い夢だ。椿の幸せな夢。

『美しいのぅ……真に』

 感じ入ったような呟きに椿は震える。

 椿が揺れる。

 暖かな風に揺れて、花が揺れる。

 幻の先で大猿は笑っていた。

『わしは、この椿が好きだなぁ』

『……咲いてみせましたよ。猿(ましら)』

 震える女の声が微かに木霊した。

 それと同時に音もなく咲き誇った椿の花が落ちた。

 風が吹いた。

 そこにあった幻が風に吹かれて掻き消える。

 夜闇の中に二人は残された。

 男が花のままに落ちたそれを拾い上げる。

 言葉はない。だが、その目は切なそうな、愛しそうな色をして花を見つめていた。

ふいに、花が淡く灯った。

 目を見開くと花は淡い光を溶かして手の平を通して男の身の内へと流れ込んでいく。流れていくままに花はその存在を薄め、やがては消えてなくなった。

 手の平から消えた椿に呆然としていたが、ぴくりと肩を揺らし、男は右手を腹に触れさせた。

 ひどく驚いた様子で陰光を省みる。

「穴が……塞がった……」

 信じられないといった様子で戸惑う姿に陰光もまた驚愕する。

 それから椿の木を仰ぎ見た。

「お礼、言っておかないとな」

 最後の最期。緩やかに土に還る時間すらも捨て、椿は男に力を与えて傷を癒した。

 礼なのか。或いは贖罪か。今となってはもう分からない。

 この椿は、もう何もないのだから。

 同じように仰ぎ見た男はしばし沈黙し、その幹に額をつけ、目を伏せた。

「ありがとう」

 小さく呟くような声音が陰光の耳に入る。

 それに淡く笑い、身体を伸ばした。少し骨が軋む音がする。筋も少し痛い。寝て起きたらそこかしこ痛くならないといいな。

 明日への少しの不安を抱きながらくるりと椿に背を向ける。

「さあ、帰ろう……」

 何かを繋げようとして開いた唇が、閉じる。

 本当ならば名を紡いでいた。けれど男の名は知らない。呼ぶべき言葉がなく、閉ざすしかなかった。

 ただ帰路を促す言葉になったそれに遣る方無く歩きだす。

 椿の陰から抜け出すと、月は天頂を過ぎて西に傾きだしていた。それでも、白い輝きは世界を照らしている。もう一刻もしないうちに朝を呼ぶ薄明の時分になるだろう。

 今日は疲れた。寝坊しないように気を付けないと。

「りん」

 ふいに聞きなれない響きが耳朶を打つ。

 目をしばたたかせる。

 その声は背後からした。

 穏やかな低い声音。

 振り返ると男が陰光を見つめていた。

「凜(りん)」

 短い、涼やかな響きの言霊を男は紡ぐ。

 そこから数歩進み、陰光の前にやってくる。

 陰光よりもいくらか小さな身体。肩ほどの柔らかな髪。幼げな顔立ち。その見た目から想像するに少し低い声。

 整った顔は緩やかに花の香るような微笑みを浮かべた。

「俺の、名前……凜です」

 陰光を見上げ男――凜はそう名乗った。

 ゆるやかに目を見開き、陰光は言葉を失った。

 本当は色々な言葉が頭の中を巡り、溢れそうで。だから何一つ言葉として生まれない。

 唇が小さく開閉を繰り返し、一度それを閉ざした。それから、真っ直ぐに夜闇の瞳を見つめる。

「俺は橘陰光。それともう一つ。冥闇を切り裂く白い光と成した掃星であるようにと……白冥と名付けられた」

 凛は目を見開き、驚いた。自身が放った言葉が名だと思いもよらなかったのだ。

 それを見て陰光は苦笑を浮かべる。それから手を差し出した。

「帰ろう、凜」

 陰光は強く名を呼ぶ。

 驚いた様子だった凜は名にぴくりと肩を揺らした。

 それから嬉しそうに微笑えんだ。

「はい……白冥様」





 境界に立ち続けた椿。

 やがてそれは朽ちて倒れる。

 倒れた木には小さな虫たちが拠り所となり、時をかけて土に還る。

 巡り続ける時の中に埋もれる。

 いつか、また。形を変えて、姿を変えて。

 新たな花を咲かせる為に。

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