第16話

 人がいる。朽葉のような色の瞳をした乱れた髪の男。凍り付いたような顔は自身を凝視している。

 否。それは陰光自身だ。

 銀色の何かが鏡のように姿を映している。

 何故、こんなものが?

 恐る恐る身を退いていくと視界が広がる。

 影がある。傾ぎ、片膝をついた人影だ。思うよりも小さな身体。男だ。

 その手にした剣が陰光と男を隔てるように土に突き立てられている。鏡を為してい たのは剣の刃だった。

 何故そんなことを?と疑問を抱くと、金臭さが鼻をついた。

 広がった視界がその理由を捉える。

「死者でも……血は出るのか」

 低い声が落ちる。どこか感嘆とした響きだ。

 喉で小さく笑うと夜闇の瞳は真っ直ぐに影光を見つめた。

「ご無事ですか?」

 声が出ない。

 それでも男は口端を吊り上げ微笑みを浮かべる。右脇腹に根を生やしながら。

「お、ま……」

 ようやく出た言葉は情けないほどに震えて、まともな言葉にすらならない。

 血の気が引いて目眩がする。それなのに、視界はやたらと鮮明で実情を叩きつけてくる。

 男は視線を滑らせると陰光の足に絡み付く根を見つける。

「それか」

 呟くと視線が鋭利になり、左手の剣が素早く根を切り裂いた。あんなにも硬いものが驚くほどにすっぱりと切断される。

 宿っていた力も断たれたのかそのまま急速に根は枯れ朽ちた。

「早く、行って」

 促した言葉と同時に男の身体が浮き上がる。

「ぐっ」

 低い呻き声が遠くなる。男を貫いた根が高々と上がり、無造作に男を振り払う。

 ずるりと抜けた根。身体が舞い、無惨に草地に落下する。

 陰光は追い掛けた。高い草を掻き分けると根が横に突き立てられる。

「邪魔するなぁ!」

 怒号し、印を結びながら振り返る。

「オンシュチリ キャラロハ ウンケンソワカ!」

 鋭く叫べば、襲い掛かろうとしていた根全てが内側から弾けるように裂けた。木っ端微塵となった破片が雨のように振る。

 さらに睨みながら刀印を組み凪ぎ払う。

「禁!」

 次いで不可視の壁を作りあげる。

 一瞥すると男の下へと駆け寄った。

 草の中に倒れこむ男はそれでも両手の剣を離していなかった。苦痛に僅かに顔を歪ませている。呼吸も荒い。脇腹には腕一本はあろう穴が穿たれ、衣を赤黒く染め上げていた。

「大丈夫か!待ってろ」

 風穴に手を翳し、止血と癒しの術を口の中で瞬時に唱える。

 見る間に血は止まり、痛みが退いた。しかし、穴を塞ぐには至らない。

 男は驚嘆に目を瞠る。

「あぁ……すごい」

 低く感嘆を溢すと男は直ぐ様起き上がる。

「動くな!」

「そうもいかない」

 鋭い制止を間髪入れずに否定すると剣で己の衣を腰から裂いた。腰から足首まである長い衣だ。風穴を塞ぐようにそれを腹に巻き付け、強く締め上げる。痛みに顔をしかめるが構わずに続け、括った。

「何をして」

 男の行動を見ていた陰光が問う。

「腸が出たら戦いの邪魔だ」

 短く答える男は、笑っていた。

 柔らかではない。鋭く、険しく。不敵に。男は笑った。

 見たこともない顔をして男は笑い、立ち上がろうとする。それに腕を掴み止める。

「やめろ!いくらなんでも無茶だ!」

 根は裂いた。だが、あの大木を支えるだけの根はまだ地中にある。さらには牛鬼がいる。それに怪我を負った男が立ち向かおうなど無謀としか思えない。

 何より、男は陰光を庇った。自身のせいで怪我を負わせてしまった。

 罪悪感と悔しさに感情が昂る。視界が歪む。

 泣いている場合じゃないのに。

 ふいに頭にあたたかい感触が生まれた。

「やはり、お優しい方だ」

 穏やかな声音が耳を撫でる。

 乱暴に目元を拭い、前を見れば男は優しい色を瞳に映していた。

「泣かれぬな。俺は戦う以外に貴方に返すものがない」

 幼子にするかのように頭を撫でる男は微笑む。

「返すって、俺は何も」

 何もしてやってなどいない。むしろ助けられてばかりで。これで四度目か。命を助けられるのは。

 助けられてしかいないのに。家のことだってそうだ。むしろ与えられてばかりで、何一つ男にしてやれていない。

「いいえ」

 男は一つ否定を紡ぐ。

 夜闇の瞳は真っ直ぐに朽葉の瞳を見る。反らすことすら許さないような強い力がそこにある。

「俺は何もない。暗闇に中にいる」



◇ ◇ ◇



 歩いてきた道のりも。歩くべきその先もない。今の男は二振りの剣と己の身一つだけ。それ以外は暗い冥い闇。

 何もない。

 歩くことはできる。闇であろうと足があるのだから。

 だが、進むべき導はない。歩こうにも意思がなければ歩けない。

 冥い闇の中を歩く。その意思はなかった。

 だが、細やかに灯る光があった。最初はなんともなしに存在する遠い遠い、星のような光。それを辿ることにした。

 星は遠いのに、ふとした時にそれが強く白く光るものだと気付いた。気付いた瞬間。それは圧倒的な導になった。

「冥い闇の中。貴方は白い光となってくれた」

 細やかだった。自身でも思うほどに細やかだった。

 笑ってくれた。

 それだけが導になるなど馬鹿げている。何もないからかもしれない。

 それでも願った。

 笑ってほしいと。屈託なく、真っ直ぐに笑って欲しいと。

 憶えてなどいない。けれどもきっと、何よりも願っていたのは誰かの笑顔だと気付いた。

 その本当の誰かはわからない。

 ただ、今は目の前の男に笑って欲しい。

 道行きを失った自身の代わりに泣いてくれる、この優しい橘陰光という男に。

その為にできることなど数少ない。

 己ができることで守り、笑顔になってもらいたい。

 だから、刃を振るおう。

 そう決めた。



◇ ◇ ◇



「俺は折れません。心折れぬ限り、折れたりなどしない」

 男は断言すると立ち上がる。

 障壁にひびが入っている。話している間にやられたのだろう。新たな根と牛鬼が障壁を破ろうと今も攻撃している。

 剣を持ち直す。

「それに、俺なんとなく知っています」

 そう言うと男は陰光を見下ろす。

 未だに何処か泣きそうな、迷子になったような顔をしているものだからやはり微笑んでみせた。

「貴方は、本当はもっと強い」

 陰光は瞠目した。

 迷いなく、それが曇りない真実であるように男は断言してみせた。それはもはや言霊にも近い強い響きとなり、身の内を震わせる。

 男は前を見据え、構えた。

 夜闇の瞳が鋭く研ぎ澄まされる。

 すらりと刃が敵に向けられた。

 そこに立ち上るものがある。

 霊力ではない。男はその類いの力は強くはない。

 妖気でもない。男はそんな存在にまで落ちていない。

 これは闘気だ。

 怪我を負ってなお戦意を失わず、むしろその意思は強固となりゆらりと陽炎のような闘気となり現れた。

「名乗れなく失礼だが……参る!」

 口端を吊り上げて不敵に笑った瞬間、障壁が砕けた。

 それを合図に男は駆け出す。背面に残された長い衣が舞った。

 障壁の破壊に歓喜するようにうねる根と未だに嘆きの声を繰り返す牛鬼に戸惑いなく立ち向かう。

 その背を瞬くことなく陰光は見つめていた。

 どくどくと駆け出す鼓動がある。恐怖ではない。絶望でもない。

 ある種の愕然だ。

 男はなんと言った。

――冥い闇の中。貴方は白い光となってくれた。

 冥い闇の。白い光。

「あっ……ははっ……」

 小さく、陰光は笑う。

 懐かしそうに目を細めて。顔を歪めて。

 無惨になった袂の腕を上げて顔を覆った。

「その名は……もう誰も呼ばないと思ったのにな」

 昔。母が亡くなったのが最後だ。

 いや、ちゃんと呼んだのはもっとずっと昔のような気がする。

 母が言ったのだ。

『暗い、冥い夜を引き裂くような鮮やかな白い光だったわ。つらくて苦しかった私にとってそれはとても心強くて……そんな中で、貴方は産まれたのよ。だから……』

 そう話していた母の顔はとても優しく穏やかだったのを今も鮮やかに思い出せる。

 そのあとに紡がれた言霊は今となっては誰も知らない。呼ばれることも二度とないだろう大切なものだ。

 それに近しいものをあの男は己に見いだした。

 応えねばならない。その名を紡ぐならば。

「名は祈り。願い……」

 立ち上がる。

 手の中に残された数珠はいつの間にか一つだけになっていた。

 それで十分だ。

「応える。この名の呪に応えてやるよ!」

 眦を決した朽葉の瞳が強く煌めく。

 それは母がつけた秘されたもう一つの言霊。祈りと願いの名。

「冥闇を裂く白い光たる祓い星であれと与えられた、この白冥(はくめい)の名に!」

 唇を吊り上げて力強く笑い、最後の数珠を高く高く投げた。

 その手が印を結ぶ。

「青龍、白虎、朱雀、玄武!」

 四つの言霊を紡ぎだす。

 一つを紡ぐごとに異なる印を指先は形作る。

「勾陳、帝台、文王、三台」

 印が流れるように形を作り、崩れては形を作る。

 陰光の足下からゆらりと陽炎が立つ。それは白い煌めきだ。

 数珠が落ちた。

「玉女(ぎょくにょ)!」

 刹那、珠が白く光を放つ。

 それは九つ。椿の周りを囲うように落とされた数珠の欠片たちが九つの光を放つ。

「結びし印、禍(まが)きを祓い、封じの繋ぎとなれ」

 印を解き、素早く空中に九つの線を引く。

「急急如律令!」

 叫ぶに呼応するように九つの光が椿を囲う線を引く。それは歪ながら格子となり椿をいくつにも寸断する小さな囲いとなる。

 妖の亡骸がさらさらと崩れ落ちる。椿が苦しむように震える。

 同時に男を襲う根ものたうつようにうねりながら地に沈む。

 牛鬼も絶叫をあげてその動きを一度止める。

「陰光様」

 突然のことに振り返った男は目を疑った。

 陰光から白い光が立ち上っていた。暗闇の中のそれはあまりに眩しく、目をすがめて小さく笑った。

「やはり……強い方ではないか」

 その先の陰光は動きを封じ込めた椿を見据える。何かを探すように視線をあらゆる場所へと滑らせた。

 木の先端。広がる枝葉。幹。

 ついと根本に目が止まる。

 そこだけが淡い翠の光が微かに灯っている。

 駆け出した。

 格子は術者たる陰光を拒絶しない。

 それを見た牛鬼が陰光を追おうと足を向ける。

 が、上げた一本が崩れ折れた。

 赤い瞳がぎょろりと足を見る。

 深々とそこに剣を突き立てる男がいる。その部位は爪と太く硬い足を繋ぐ接続部。関節だ。

「どうやら、化け物も基本構造は同じようだな」

 にやりと男は凛乎に笑う。

 どれ程に皮膚が硬くとも関節部は他よりも柔らかくならなければならない。そうでなければ曲げることができない。だが曲げられたままでは届かない。歩く瞬間。伸びた瞬間を狙う他なかった。切断できなくても突き立てるだけでも効果はある。

 事実、足は屈した。

「邪魔はさせない、それに……」

 男はぎょろりと見下ろす赤い瞳の先を見据える。

そこにも翠の光が灯っていた。




 椿が震える。地面が揺れる。

 よろめきながらも陰光は椿の根本にやってきた。

 木の根が幾重にも絡み合う中から翠の光が漏れ出ている。

 焼けるような匂いを感じるのは術に反応しているからだ。

「この下に」

 木の根を掻き分けようとするが硬い。足に絡み付いたものよりはまだ手応えがあるが素手では無理そうだ。

「なら……そのまま行く!」

 片手を根に重ね、光を覆う。

 目を伏せる。

 乱れた髪が陰光の霊力にふわりと揺れる。

「拝み奉りて謹請す」

 ざわりと根が蠢く。

「東に坐(ま)します神よ」

『咲かなければ』

 声がする。それは二つ。

 頭に直接響く女の声と、遠くからしゃがれた交わった声が聞こえる。椿の木と牛鬼の二つの声がする。

『咲かなければ……今一度』

「西に坐します神よ」

『願われたのだ!今一度と!』

 声が嘆きの叫びをあげると大きく震えた。

 根が蠢き、陰光に向かう。が、それは届く前に崩れていく。

 迸る強い霊力が触れることを許さない。

「南に坐します神よ」

『咲かせて……咲かせておくれ』

「北に坐します神よ」

 紡がれる言葉は止まらない。

 煌めく瞳が一度椿を見上げる。

 泣いているかのように葉が舞い落ちている。

 哀れむように一度、目を細めた。

「百鬼を退け、凶災を祓え!」

 鋭く声を響かせ、重ねた根を強く掴む。

 奥に植え付けられた翡翠の欠片だけを狙うように。

「急急如律令!!」

 白い閃光が雷のように放たれた。

 手の先にある全ての力がただ一つを穿つ。

 耳鳴りがする中で確かに何かが砕ける音がした。



 絶叫が轟く。

 閃光が放たれたと同時に身を反らして牛鬼が絶叫する。

 額から翡翠の光が共鳴するように光った。

「連れて行こう」

 反らされた身を足場に男は駆け上がる。

 一振りだけを構え、片角の上にひらりと舞い降りた。

「嘆きも、悲しみも、想いの全て。俺が背負い連れていく」

 柄を掴み直す。拡散し揺れる翡翠に狙いを定める。

「それが……剣を持つ、俺の責務」

 赤い瞳がこれ以上ない程に見開かれた。

 夜闇の瞳はそれを真っ向から迎えた。

 月がある。それを背に男は静かに見下ろす。反らされない優しい夜がそこにはあった。

 赤い花はしばし見開き、そしてうっそりと笑んだ。

 滴が一つ、落ちていく。

 柄を両手に持ち、男は真っ直ぐに額に刃を落とした。

 花を。額を。翡翠を。

 刃は過たず落ち、ぱきり、と欠片が砕けた。


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