第15話
野のような草地が広がり、木々が点在する。それも一町程度で、更に奥には木々が更に深く繁りはじめる。森と呼ぶには鬱蒼としていないが、野と呼ぶには見通しはよくない。
その中を最初に進んだのはもう十日近く前になるのだろうか。
高い草地を分け入り進む。
祓えの儀からも日にちが経っていて清浄と呼ぶような雰囲気はないが、正常な様子があるようには思えた。
ただ、妙に静かだ。
さらさらと小川の音が響く。だが、虫の声がない。皐月となればなにかしらの虫の音が聞こえてもおかしくはないはずなのに微かに吹く風に揺らされた葉の音と小川の音しか聞こえてこない。
妙な静けさに足を止める。
周りを見るがおかしなところはない。
こちら側は。
数度瞬き、記憶を手繰る。
この先で大猿の招きによって御簾の向こうに入った。
その道のりに木があった。他と違い高く大きい木だ。
「少し探る」
横に立つ男に告げる。
男は頷き、一歩退くとすぅっと気配を殺した。
そこにいるのに驚くほどに気配が消える。隠形の術でも行使したかのようで舌を巻く。
一度息を吸い、肺が空になるまで吐き出す。
入れ替わった空気の下に刀印を作り、目を閉じた。
意識を落ち着かせ、波紋のない水面を思い描く。決して揺れない、鏡のような水面。そこに触れるものを探す。
以前なら水面が揺れた。気泡が浮かび、消えて、それが波紋を作る。
それが今はない。全く揺れない。
さらに集中して何処までも続く暗闇を見る。果てない水面の先を。
微かに音がした。
音だと思った。だが、違う。泣き声だ。
誰かが泣いている。
水面の先。暗闇の先で誰かが泣いている。
それは叫ぶようなものではない。ただ悲しくて、哀しくて。淋しさが抑えても溢れ落ちてしまうような啜り泣き。
誰が泣いている?
問えば、泰高の言葉が答えるように思い出された。
――咲いてみせましょう。
言葉と同時に視界に色が現れた。
赤だ。赤い花が水面に落ちている。花弁ではない。花そのままが落ちてしまっている。
そうだ。椿の花は花弁を散らさない。
だが、この椿は本当に花なのか?
瞬間、水面を通じて冷たいものが駆け上がってきた。
「陰光様!」
声が、名が引き戻す。
はっと目を開けば暗闇の広がる草地があった。
肩を掴む男の視線は鋭い。
「…………悪い」
冷たい汗が首筋を伝う。
思っている以上に嫌な状態になっているのかもしれない。だが、今更引き返すことはできない。
懐にしまっていた数珠を取り出すとそれを手首に巻き付けた。
「行こう」
静かに促す。
朽葉の瞳を見つめていた男はそっと手を離した。
そして、今度は先を行く。
「俺が先行します」
そう告げて、草地を分けて進み出した。陰光も後を追う。
祓えの儀の際に人が入ったせいで他よりも癖がついた草がある。そこに沿いながらさらに切り開くように男は歩いていく。
歩いた道を省みる。
倒れ、凪いだ草の道は以前より歩きやすそうだ。
これは退路だ。ただ漠然と距離を取る為の道。男はそれを切り開いていた。
陰光よりも小さな背は戸惑いなく進む。
草の音が響く。
空気が少しずつ冷えていく。
歩みを進める事に空気が冷たくなっていく。
それに合わせるように道を開く音も小さくなる。
そして、遠くに光を見つけた。
ぽつり、ぽつり。赤い光。
否。それは暗闇に浮かぶ全く異なる色彩だからそう見えるだけで、決して光などではない。
歩き、近付く。
歩く度に足下から澱んだ空気が絡みつく。邪気が広がる。
高い木がある。大きな木だ。思っていたよりも遥かに大きくある。人の手が加えられないまま、長く生きたそれは三丈を優に越えていた。てらりとした光沢ある葉が木を飾る。さらにそこにいくつもの赤が彩る。
数丈前にして二人は立ち止まった。
椿の大木は咲いている。
真っ赤な大輪の花をたくさん。
香ることない匂いの代わりのように、濃密な妖気を放ちながら。
弱々しい月明かりの下に椿の花が咲いている。
「陰光様」
男は呼ぶ。固く、鋭い声だ。
「あれは……なんですか」
問う。両手に剣を召喚して。
陰光は言葉を失っていた。
目に映るのは椿の花だ。だが、正体を口にすればそれは姿を変える。
陰光はその正体が何か分かっていた。
分かっていたから真実を晒すのが辛い。
被害が誰にも及ばなければと願っていた。きっと、まだ人に被害はない。最初になるのは泰高だったろう。
まだ人に被害はない。
人には。
唇を噛み締める。
大猿が食い破られたのも衝撃だった。それでも、それは喰ったが故の返しのようなもの。言い訳が許された。
だが、その真実は周り回って陰光が原因だ。もっと早く気付いていたら。翡翠を拾い集めていたら。そもそも最初に全て終わらせていたら。
たらればを繰り返す。意味などないのに。
「あれは……花じゃない」
絞り出すように声を出す。
赤い花が揺れる。風もないのに。
苦々しく竚立する椿を睨み付ける。
「あれは……妖の亡骸だ」
刹那、花が崩れた。まやかしが真実に砕け、崩れた。
赤い花に見えたのは真っ赤な血を滴らせたいくつもの妖たちの亡骸。首が。腕が。脚が。胴が。あらゆる種類の、あらゆる部位が椿を飾るように枝に突き立てられていた。もはや枯れ果てた亡骸も見られる。
その中にだらりと長い体躯が目についた。頭を突かれ、顔など残っていない蛇の亡骸。瞬時に過ったのは、最初に警告に訪れたあの蛇。
「すまない」
強く握りしめた拳が微かに震える。
最初に警告をしてくれた。聞いたのに、どうにもすることができなかった。後悔が押し寄せる。
がさり。
葉の擦れる音が響く。
ずしり、と重い鈍い音がすると椿の木が揺れた。身をくねらせたかのように枝が震える。葉が踊り、浅く刺さっていた亡骸が落ちる。
ふっと、影が降った。
その先は上だ。
月を背負う椿の木の上に巨体があった。
六つの脚は椿の幹のように太く、釘のように鋭い。丸々とした胴は蜘蛛のようだが毛はない。頂きには二本の角がゆるりと弧を作りながら聳え立つ。その下にある顔は牛のようで、けれども人のようにも見える。椿の花のような大きく真っ赤な二つの瞳からは水が溢れて止まらない。
「牛鬼……?」
陰光は呟く。
境界に咲く椿には神霊が宿ると言われている。それが老いて姿を変えることも。この椿にも弱々しくも宿っていたのかもしれない。
だが、今その身から放たれる力は神聖なものなどではない。
『……咲きましょう』
異形の口から言葉が落ちる。しゃがれたようで、だが哀しみ、うちひしがれる女の ような、交わった声だ。
『今一度……咲きましょう』
空を仰いだ瞳がぐるりと陰光たちを見下ろす。
瞬時に二人は背後に飛んだ。
次いで牛鬼がそこに飛び降りた。人の背丈の数倍はあろう巨体だ。
『咲きましょう。咲きましょう』
繰り返す。何度も何度も。真っ赤な瞳を二人に据えて。
その瞳に宿るのは殺意や敵意ではない。獣が餌を狙う捕食の色。二人を捕食の対象として捉えている。
「俺が相手をします」
風を払う音と共に男は告げる。
両手に剣を握り真っ直ぐに牛鬼を見つめる。
「その間に椿を……参る!」
言うや否や。男は強く一歩を踏み出した。
瞬時に間合いを詰めて、左脚の一本に刃を落とす。
浅い一撃だ。大木ような脚に薄く一線が引かれる。
硬い。
男の表情が苦いものに変わる。
太いだけでなく、硬い。予測していた為に敢えて浅く斬り込んだが、手に伝わる感触は思っていた以上だ。男の剣では切断には至れない。
牛鬼がぎょろりと男を見下ろすと切られた脚を振り上げた。
叩き潰そうとするそれに気付き、その場から飛び退き、身を翻すと距離を取る。
叩き落とされた爪が地面を深く抉る。草が舞い、土砂が飛ぶ。その勢いのままに牛鬼は男を追った。
標的は完全に男に移った。
陰光は一瞬、足を踏み出そうしたが堪えた。
男には何も話していない。けれど、男は適切な回答で行動した。
牛鬼は椿だ。本体はあくまで椿。大猿が与えただろう翡翠の欠片があるならば間違いなく椿なのだ。
椿の神霊だったのであればあんな凶悪なことになるはずがない。ならば原因はやはり翡翠の欠片だ。
大猿は喰い破られたが欠片にはそこまでの力はなかったのだろう。代わりに浸食し、穢してしまった。
朽ちぬようにと。今一度咲けるようにと。大猿が祈り、与えたのならば。それを叶えようとした。その思いが穢れて歪み、手段すらも問わなくなってしまった。
見るにも忍びない。
「そこまで願ったのか?」
今はいない大猿に問う。
一度目を伏せ、思いを振り切るように頭を振って椿へと向き直った。
今は禍々しい妖気を放つ大木。まやかしを破られた今、そこにあるのは花も咲かず、所々葉も落ち始めた、妖の亡骸で着飾られたおぞましい姿だ。
妖の血が滴り、金臭さが鼻を突く。
此所は人が訪れるには深い。まして先の事件で足を伸ばす者はいなかった。だから人間に被害はなかった。
最初となりかねているのは力を有した親友。そんな真似はさせない。
邪気を祓い、牛鬼を討つ。
袂を払い、手を広げる。そして柏手を一つ。巻き付けた数珠が追うように音を鳴らす。
口を開こうとした刹那、地面が揺れた。
咄嗟に横に逃げると、地面から何かが勢いよく現れた。
土を撒き散らし、鋭利で槍のようなそれはうねる。色は深い茶の……根だ。椿の根が意思を持って動いている。
「それ反則だろっ!」
血の気を引かせながら思わず叫ぶ。
牛鬼がいるのに椿本体までも攻撃を仕掛けるなど反則だ。
言ったところで意味はないのは承知だ。駆け出す鼓動を誤魔化し、伝う冷や汗を知らぬふりをする為の言葉だ。
揃えた手を払い、印を組む。
「オンシュチリ キャラロハ ウンケンソワカ」
真言を唱えると見る間に根がどくりと跳ね、弾けて裂けた。
仕掛けた側だが流石にその様に目を見開く。しかし。次いで別の根が現れた。威力の強い真言を選んでいたはずだが相手はそれ以上のようだ。
根が再び影光に向かう。
「禁!」
瞬間的に印を払い、障壁を作り上げる。
可能ならばあまり椿本体を傷付けたくはない。あくまでこうに至る原因は翡翠の欠片。それを祓えば大人しくなるはずだ。そう信じている。
どうするか。
視線を走らせる。
椿の根は障壁の向こうで蠢いている。少し離れたところで男と牛鬼が今も対峙していた。
術師でもない男は手にした剣だけで応戦している。勝っている様子はない。だが劣勢とも言えない。互角だ。
男に対して不安を抱く理由はない。ただし、現状これ以上の助力は請えない。
今一度椿を見据える。
蠢いている根は影光を狙う。刺さった暁には無事ではいられない。さらにはあの亡骸同様に飾られるだろう。
動きを封じる。そして椿を祓う。
数呼吸し、息を整える。
手に巻いた数珠を外すと力一杯にひっぱり、引きちぎった。
数個がバラバラと地に落ちる。
「拝(おろが)み奉(まつ)りて謹請(きんじょう)す」
低いが通る声が厳かに発せられた。
「青龍」
言葉を紡いだ。それに応じるかのように落ちた数珠の一つがうっすらと白く灯る。
それを見ることもなく駆け出した。
瞬間障壁が破れて砕ける。
根が影光を追いかける。
「白虎」
再び紡がれた言葉と同時に珠を落とす。それがまた一つ白く灯る。
止まれば狙い撃たれる。しかし、草が邪魔だ。
椿の影で育ちの悪かっただろう足の短い草と長い草の境を沿うように駆けていく。 袂が草に当たり大きな音を立てる。
「朱雀」
また一つ。落とした珠が灯る。
足は止めない。
背後から土を穿つ鈍い音が追い掛けてくる。槍のような鋭い切っ先となった根は今では数を増やして四つとなっていた。
「玄武」
落としたと同時に地面が揺れた。
直ぐ様直角に曲がる。
視界の端に根が突き出てきた。回避したかと思われたが右の袂が引っ掛かり、腕を持っていかれる。その勢いのままに身体が浮き上がる。
このままではまずい。だが、袂はそれ以上に裂けてはくれない。小刀なども持ち合わせていない。今は術を放つことはできない。
うねりながらさらに高々と掲げるように根は上っていく。高さは一丈を越えた。真横には亡骸たちが並んでいる。これの一員にするつもりだ。
「陰光様!」
男の声が響く。
うねりに合わせて踊る身体で男を探すと戸惑いなく陰光の下に駆けてきていた。背後には追い掛ける牛鬼の姿がある。
前方には根が踊り狂っていたが切っ先がその狙いを男に定めた。このままでは挟み撃ちだ。
だが、男は足を止めない。むしろその足に力を込めていた。
夜闇の瞳が根たちを睨み据えている。それが見えているのか根が真っ直ぐに男に突き進む。
瞳が鈍く煌めく。
眼前に迫る茶の切っ先。刹那、飛び上がった。
跳躍し、真上へと逃げた男の足は突き立てられるはずの根を踏み締めた。そのままその根を駆け出した。
別の根が追うように穿ちにくるがそれをも新たな足場として駆け上がる。
陰光へと駆けていく。それを目前として新たな根が立ちはだかり行く手を遮る。すり抜けるには幅がありすぎた。
足場は固定されていない根。横に逃げる術はない。一瞬だけ背後に視線を投じれば牛鬼も迫っている。完全な挟み撃ちの形になってしまった。
しかし、男は唇を吊り上げた。
足場の根を蹴りつけて前へと出た。逃げ場のない前方。立ちはだかる根がそこにはある。もはや壁のようだ。
逆に言えば、踏み締める土台だ。
剣は振らない。駆け出した足は跳躍し、立ちはだかる壁を蹴った。駆け上がるように一歩。見下ろすように緩やかな曲線を描く切っ先の半ばに二歩目を。進行方向と天地が逆転する。
視線の先には迫りくる牛鬼がいる。しかし、駆け上がった足場たちで六つの脚は使えない。あるのは角の生えた巨大な顔。
蹴りつけた勢いのままに顔に向かい降下する。瞬間身体を捻る。体勢をまた逆転させるとその足は牛鬼の額に下ろした。巨大な顔は足場には十分だ。
前方を睨む。距離が先程より空いた。
瞬時に確認すると男は牛鬼を蹴りつけた。距離と角度をつけてさらに高く跳躍する。男を追う壁となった根を飛び越えた。
その先に陰光がいる。袂が根の先で突かれ、破れることもなく踊らされていた。降下しながら一点を見定める。
そして剣を斬り払った。
裂かれたのは袂だ。楔にもなっていた袂を切り裂き、戒めから解放する。
「っ!」
支え失った身体は落下する。そんな身体を男は腕に抱えた。
そして片方の剣が今まで陰光を拘束していた根に突き立てられる。落下の勢いを殺しながら根が勢いよく裂かれていく。
木の裂ける音がすぐそばで鳴る。まるで悲鳴を上げているかのように。
「離します」
短く告げられたと同時に支えていた腕が離された。力を込められた身体は斜めに着地先を変える。
高さこそさほどなかったが両足でついた身体は支えきれずにそのまま前方に倒れこむ。だが、痛みは思うよりもない。跳ねるように立ち上がる。
振り返れば、男は踊り狂う根の中で舞っていた。
舞う。正にそうだった。両手に持った剣を捌き、迫りくる根をいなし。闘っているはずなのに、正しく舞っているかのようだった。
思わず惚けるがそうではないと一発自身の頬を叩く。そして駆け出した。
先程までに紡いだ言葉は四つ。
振り回されていたがなんとか残っている数珠をまた落としていく。
「勾陳(こうちん)…………帝台(ていたい)」
一つ。二つ。珠を落とす。
はっと足を止めると、眼前に亡骸が降ってきた。
椿が震える。足下が揺れる。逆巻く妖気が風となる。冷えた風が足を絡め取ろうとぬるりと吹き上げる。
振り払うように亡骸を避けて走り続けた。
「文王(ぶんおう)……三台(さんたい)!」
一つ、一つと落ちた珠は白く灯っていく。
手の中に残った数珠を握り締め、椿の枝葉の際へと走り抜けていく。
「っ!」
突如として身体ががくりと下がる。足が何かに引っ掛かった感覚があった。走り抜けた勢いのままに前方に滑るように倒れこむ。
立ち上がろうと足を引き上げる。が、上がらない。
勢いよく足下を見れば右足に根が絡み付いていた。
息を飲み、引き剥がそうと手をかける。手首の半分にも満たない細さなのに、石のように硬く動かない。左足で根本を蹴りつけて見るが樹皮すらも傷付かない。何度も何度も蹴りつける。そこに意識を傾け過ぎた。
土が降った。
顔をあげると鋭い根が影光を狙い定めていた。
目を見開く。
同時に根が振り下ろされ
ひどく、鈍い音がした。
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