第14話
夜も更け、人の気配のない大路を陰光と男は駆けていた。
鳶はもしもの時にと泰高の邸に飛んでもらっている。何か異変があれば直ぐに知らせてくれるように頼んだ。
空には下弦の月が暗闇を照らす。望月ほどに明るくはないが朔のような暗闇でもない。だが、人の目にはやはり暗い。
術を施し、視界を確保した陰光は並走する男をちらりと見た。
走っているせいで短い柔らかな髪が後ろに流されていく。上下に揺れる様子がないのは男の体幹の良さだ。
『花は椿。あの、境界の大木です』
そう男は告げた。
まさかと思った。椿の時節は過ぎている。しかし、それには鳶が今と誰が決めつけたと言い放った。陰光もまた今の時節の花だとばかり思っていた。固定観念とはおそろしい。
それでいて、男もよく覚えていたと。
あの時、大猿の背を追っていた。その道すがらに大木があったのを言われて初めて思い出した。
だが、それは数ある中の一本で。一年を通して緑の葉で彩られる常盤木(ときわのき)。花を咲かせない木など記憶に留めることなどなければまず種類すら判別しない。それなのに男は覚えていたのだ。
記憶がないからこそ細やかなことすら覚えていたのかもしれない。
「異形なのですが」
低い声が横から投げ掛けられる。
一瞥を向けて先を促す。
「俺は、あの化け物の名前を聞くだけで、字を知りませんでした」
何の話だ。と一瞬掴みあぐねた。
ちらりと一瞬だけ視線を横に向ける。
「お貸しいただいた書に、饕餮の名を見かけました」
そこでようやく男にはあの写しを見せていなかったのだと気付いた。
別に他意はない。単純に口頭ですむだけの情報しかなかったのだ。さらには文章が苦手なのも既に分かっていたのだからそれでいいだろうとも思っていた。
「饕餮の字は二つから出来ていました」
常より固くなった声音が紡ぐ。
視界に草の繁りが明確となってきた。
「二つは互いに貪るの意です。そして、書には饕は財を。餮は食を。貪ると書かれています」
男が読んでいた春秋左傳。偶然にも落とし、開かれた場所には確かにそう書かれていた。
財を貪るを饕といい、食を貪るを餮という。
饕餮とは全てを食らう妖。ありとあらゆるものを食らう貪欲さを持つもの。それは陰光も知るところだ。
夜闇の瞳が暗闇の先を見据える。
「俺はきっと、財も何もなかった……では封じられていた俺は、何を食われたのかと」
陰光は息を飲んだ。
妖はありとあらゆるものを食らう。その名を呪とした翡翠は封じとして剣に巻かれていた。
男は食われた。それは何か。
もしかしたら霊力だったかもしれない。けれど、男が示しているのはそれではない。
何もなかった男から食らったのは、記憶ではないか。男はそう言いたいのだ。
知識もある意味財だ。形なき財。それを持つ記憶もまた財に値するならばおかしくない。
そして、記憶を食らうのならば。泰高が忘れていたことも、翡翠の欠片に触れたからと説明できる。祓えの儀の前だ。まだそれくらいできたかもしれない。
さらにと記憶が甦る。
高階の家。元々は陰陽師がいた家柄だ。それが少しずつ弱り、今はその力はない。それは翡翠が少しずつ食らっていたからだとしたら。
もしかしたら剣と翡翠が納められていたあの箱も本当は一度誰かが触れてしまったからで。だから今になって異音を発生させ、陰光への依頼を頼むことになったのではないのか。
唐突に絡まりあった糸がほどけ、一本を見いだす。
そして最後に陰光が触れてしまった。
瞬間、翡翠が飽和してしまった。
「だから、今になって顕現したのか」
饕餮となった翡翠の原因が今になって解明された。
そして、記憶の欠損にも理由がついた。
はたりと、陰光はあることに気付き、ふつりと足を止めた。
草地まではもう目と鼻の先だ。
陰光に合わせて数歩先で男も止まり、訝しげに振り返る。
「記憶を喰われたとしたら……喰われた記憶はどこに行くんだ」
色を失い独り言めいたそれに男は沈黙した。
長い時間をかけて翡翠は与えられた名の下に男を封じ、記憶を喰らった。その時はもちろん砕ける前。翡翠の中にそのまま封じられていたはずだ。
だが、翡翠は饕餮の姿で顕現し、この都に棲まう妖たちに敗れ喰われ、最期には翡翠だけとなり砕けてしまった。
ばらばらとなった。力を欲した妖たちは喰らった。
ならば、記憶は何処にいった?
翡翠の中にあったなら妖たちが持っているのか?
だが大猿は男を見ても何も示さなかった。
何かの力でもない、ただの人の記憶は持ち主無しにどこまで残る?
愕然とする中でふいに肩を掴まれる。
焦点を定めれば男が薄く笑っていた。
「行きましょう。泰高様をお救いするのでしょう?」
小さく首を傾けて優しく男は微笑む。
「お前、は」
「今は泰高様が優先です」
震える声に対して、それでも背を押すように男は促す。
あらゆるものが失われた。今、それが明らかになった。昨日の今日で。それでも男は微笑む。夜闇の瞳は揺れることなく真っ直ぐに陰光を見つめる。
それでも言葉もなく立ち竦むのは、あまりにも彼が分からなくて。
何故そうまでして進むことを選ぶのか。
泣きもしない。怒りもしない。失意に伏せることもなく、陰光の前で笑う。男の存在の在処も。これからの道行きも無いというのに。
胸が苦しくなり、胸元をぐっと掴む。
男はゆるりと瞬いた。
「言ったでしょう?」
小さいけれどはっきりと、男は幼子にするように言い聞かせる。
「無力ではない。この刃が有り……前に進む力は此処に在る」
伸ばした手が陰光の頭を撫でる。烏帽子を取った頭に直接触れる手はあたたかい。
「だから、行きましょう」
陰光よりも低い位置にある目は、やはり曇りなく真っ直ぐに見つめる。
真っ直ぐ過ぎて眩しい。
「どうしてだ」
目を細める。眩しい光を見るように。
「俺、お前に何かしてやってるわけじゃないのに。どうして俺に力を貸してくれるんだ」
偶然出会って、ただそのままにして置けないからと一緒に連れてきた。それだけだ。それだけなのに男は陰光についていく。陰光の為に何かとやり、時には剣を振るった。
何もしてやれていないのに。何もしてやれないのに。
それがあまりに申し訳なくて、虚しくなる。
男は静かにそれを聞いてから、少し悩んだ素振りを見せる。それから苦笑した。
「名前。書いてください」
「は?」
突拍子もない言葉に思わず間の抜けた声を出してしまった。
「文の時に。そう、話してくださったでしょ?」
言われてはっとした。
小野篁に宛てた文をしたためた時に、子どものようにぱちくりと瞬かせていたから名前を思い出したら書いてやろうと話した。そうしたらきらきらと瞳を輝かせたのだ。
「まさか、それだけで?」
それには首を横に振られた。
「それも……でも、一番は笑ってほしいから」
またしても思いがけない言葉に唖然とする。
「悲しい顔よりも、笑っていてほしい。それだけ」
あまりに純粋で幼い、単純で真っ直ぐな願いを口にして男は笑う。
記憶を失うと願いすらも幼くなるのだろうか。自身の身の上さえ失っても屈託なく笑う子どもでいられるのだろうか。
それは以前、泰高がいた時にも思ったことだった。宵の藍に変わる夕暮れに見せた。男の言葉は変わることなくそこにある。
記憶の有無ではい。これがこの男なのだろう。
眩しい光のような存在なのだ。
「…………欲張れ」
ようやく出たのはそれで陰光はくしゃりと顔を歪ませて笑って見せる。
男もつられて破顔した。
そして一歩足を引いて、手を差し出した。
「行きましょう」
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