第13話

 空が藍に染まる。宵が来る。

 簀子で書物を読んでいた男は陰光の帰りを待っていた。

 今日は一段と遅い。月の終わり頃は忙しいから帰りは遅くなるとは既に聞いている。それでもここまで遅くなることは今までなかった。男が知らないだけで、忙殺されるとこれくらいが普通なのかもしれない。

 手にしている書物はいつもと系統を変えて貰ったものだ。

 春秋左傳という歴史書。五経の一つであり基礎教養として家に写しがあるのだと教えられた。

 大陸の春秋と呼ぶ時代のものらしい。文章を読み解くのが難しいなら漢詩よりもこちらがいいのではということだった。

 しかし、内容がどうであれ文章には代わりはない。さして読む時間は変わらないような気がした。それでも少し新鮮味はあった。

 顔を上げる。星が瞬き始めた。満ちていた月は欠け、今やその姿は半分も見えなくなっている。

 昨晩。自身は人で非ず、と人ならざる女はそう告げた。

 驚きはなく、すんなりとそれを受け入れたのは自身の記憶が何もなかったからもしれない。記憶があれば混乱していただろうかもだが……。不思議と記憶があっても受け入れたかもしれないと思っている。

 男はあまり深く物事を考えるのは得意ではないと自覚している。目の前にあるものを一つ一つ取り除く。複数並べられるとどれから手をつけたらいいか分からなくなってしまうから。

 昨晩の通り。陰光の為に何かできる。身体的制約はなにもない。それだけで十分だ。 無いものを嘆くつもりはない。

 ふと、深まる宵の空に影を見た。

 宵の中によく見つけられるなとは思ったが、人でなくなったから見え方がそもそも変わったのかもしれない。

 そう今更ながらに思う。

 影は小さい。近付いてなおそこまで大きくはならない。甲高く尾を引く鳴き声が一つ響いた。鳶だ。

 やってくる鳥影をじっと見つめる。目があったような気がした。

 鳶はそのまま男の元へと滑るように降下していき、するりと高欄に止まった。

「あれはまだなのか?」

 翼を畳むと開口一番に鳶はそう言った。

 簀子に座るせいで視線を少し上向かせなければならない。

「今日は、まだ」

「ふむ、時期も時期だから仕方ないか」

 数度頷く鳥に男は投げ出していた足を簀子に上げる。流石にそろそろ帰ってくるかもしれない。

 ばさりと閉じられた書物を手に立ち上がる。鳶はそれを眺めていた。

「記憶はどうだ?」

 言葉少ない問いには首を横に振ることで答えた。

 金の瞳が切なげに細まる。

「そうか……いや、まぁ、絶対必要とも言えないからあれなんだが、うむ」

 歯切れの悪い言葉が並ぶ。何か上手いことは言えないかと探しあぐねているのだろう。

 苦笑を浮かべ、開いた手で背を撫でてやる。思いの外それはあたたかい。

 気持ちいいのか目が伏せられた。

「しかしだなぁ、お前の記憶も不思議な抜け落ち方をしている」

 開かれた嘴に男はなんだろうと首を傾げた。

 無言のそれを促しと判じた鳶は続ける。

「字が読める。会話も問題ない。針や料理もできると。だが、名前やお前の出自に関してはさっぱりだろ?」

 首をもたげて、今度は鳶が男を見上げる。

 男は頷いた。言われてみればそうである。自身に直接的な記憶はない。生活に必要なものだけだ。問題がないからそこには気付かなかった。

 金の瞳が視線を落とした先は男の手にある書物だ。紐で綴じられている。

「これのように、まるで紐をほどいて中身をまるっと抜き取ったようだ」

 嘴が書物を指すのを見て、持ち上げた。

 紐をほどけばそれは何枚と重なる紙だ。一枚一枚順序よく重なる紙。でたらめではなく、中身に沿った連なり。その連なりの一部を抜き取った。

 例えばそれが独立した章で、それをまるっと抜き取って元に戻せば……存在したことも分からなくなるのかもしれない。

 自身が思うよりあっさりとしているのはそういうことも一因しているのか。

 そうだとしたら一つ見つかれば連なるように思い出せるだろうか。物語のように。

「話を変えるが」

 思考する男を中断させる甲高い声に視線を向ける。

「前に言っていた赤い花なんだが」

「見つかった?」

 思いもよらない話に少し食い気味に男は問う。

 見つからないがそれでも男は大猿の赤い花を気に掛けていた。探しにいくにも男はこの都を知らない。さらに陰光を頼っている以上は勝手に出掛けるようなことはしたくなかった。一声かければ許してはくれただろうが、なんだか気が引けた。

「残念だがそうではない」

 鳶は少々驚いた様子を見せたがすぐに申し訳なさそうにする。

 朗報でないことに肩を落とす。

「だがな、一つ気になることがあってな」

「気になる?」

 幼子のように言葉を繰り返す男に鳶は頷いた。

「赤い花と聞いたから探していたが、赤い花としか聞かされていないわけだ」

 それについては前にも話した。

 大猿自体が赤い花としか口にしなかった。朽ちる頃と話したからこそ老木だろうと宛をつけた。

「だから。そもそも、今咲いている花だったのかと思ってな」

 きょとんと男は鳶を見返す。

 赤い花で朽ちる頃の老木。確かに今咲いているとは断定できない。盲点だった。

 赤い花という最大の特徴にばかり気を取られて、咲いているかどうかなど考えもしなかった。時期違いであればいくら探しても見つからないわけだ。

 その様子にああ、やはり。と鳶は察してからくるりとその場で回る。身体事向いた先は庭だ。肩翼を上げるととある場所を指す。

 橘邸の大木の一つだ。てらりと光沢のある緑の葉が大きく重さのままに垂れながら広がっている。

「椿はどうだ?ちょうどあれも赤い花だ」

 そう言われるままに男も椿を見やる。

 今更にそれに見覚えがあった。この邸にあるのだから見覚えがあって当然だ。

 違う。この場所ではない何処かでこれと同じ、椿の木を見ている。何処だろう。昔ではない。最近だ。

 最近。出歩いた場所など数える程度だ。目を覚ました貴族の邸。橘邸への道。大猿と出会った山野。

 手から書物が滑り落ちる。ばさりと紙の音が響く。

 ゆるやかに見開かれた瞳が揺れる。

 見た。確かにあった。もし、そうだとしたら。赤い花がそれだとしたら……。

 ばさりと音が響く。

 はっと、我に返ると手にして書物が落ちていた。力が抜けて滑り落としてしまった。

 鳶がぐるりと首を巡らせて男を見上げている。

「ごめん……驚いたね」

 膝をつき、書物を取ろうと手を伸ばす。落ちた際に書物は開かれてしまっていた。その見開きに視線が止まる。

 まだ読んでいない場所だ。それでいて止まったのは小さな文字列。本文とは別の箇所だ。

「……饕(とう)……餮(てつ)……?」

 二つのやたらと読み難い字。その響きは陰光が何度も口にした言葉だった。

 男は口頭でしか彼の異形の話を聞かされなかった。別にそこまで必要でもなければ、わざわざ苦手な文章を読む理由もないと追及しなかった。

 この二つで異形の名を表すのだろうか。

 そう思い、前後の文章も読む。短いおかげですんなりと意味を理解した。

そしてその内容に息を詰めた。





 ばたばたと駆け込むように陰光は邸に帰って来た。

 玄関にはもはや見慣れた男が立っていたがそれどころではないと沓を急いで脱ぐ。こういう時に限って何故か脱げない。

「陰光様」

「着替えたら出掛ける」

 即座にそう言えば、男は数拍置いて踵を返した。

 ようやく沓が脱げた。

 揃えることもなく自室へと走っていく。

 室内は暗いがなんとでもなる。着ている衣を脱ぎ、濃色の狩衣に着替える。烏帽子も鬱陶しいと投げ捨てた。

 そこに羽音が一つ。視線を走らせると几帳に鳶が留まっていた。

「騒がしいな」

「用事ができた」

 まだ比較的に動きやすい狩衣でも布量は多く、長い袖が邪魔だ。いっそ今後は直垂でも用意するかと考える。

 帯を締めると隅に置いてある箱を開けた。数珠やら符を取り出していく。

「物騒なものを」

 鳶はそう口にするが気にした様子はない。それが自身に向けられないと知っているからだ。

 加えて、陰光自身の様子を見ていれば厄介事ができたのは直ぐ様分かった。その前から厄介な事があるのを鳶は知ってもいたが。

「何処に?」

 甲高い声が短く問う。

 それに陰光の箱をしまう手が止まった。

 何処に?

「……右京の端。祓えの儀があった場所」

 泰高が翡翠の欠片を拾ったのはそこだ。何かあるなら間違いなくあの周辺に違いない。

 だが、赤い花は?

 今泰高を呼んでいるのは翡翠の欠片ではない。赤い花だ。赤い花が欠片を媒介にして泰高を夢の中から呼んでいる。その原因たる赤い花の在処を陰光は知らない。

 それでも早くしなければと警鐘が鳴り響く。一日二日ならまだ持つはずだ。けれど何故か焦燥が胸を灼く。

 今は分からなくてもあの場所に行けば何か分かるはずだ。そう信じている。

「陰光様」

 静かな声が名を呼ぶ。

 振り返ると男が立っていた。その表情は普段より幾分か鋭く感じられた。

 夜闇の瞳がじっと朽葉の瞳を捕らえる。数歩前に進み出た男は薄く微笑みを浮かべた。

「何かしら口に入れてください。空腹はよろしくない」

 そう告げて差し出してきたのは干し果実だった。

 意表をつかれて目を丸くする。

「急いてはなりません。それは世界を狭めてしまう」

 静かに、穏やかに。けれど諭すように男は言う。

 優しげな瞳の奥に何か違うものがちらついている。刃のような鋭い銀の閃きのようなもの。恐ろしくはないのに切っ先が据えられているような感覚に陥る。

 男に記憶はない。けれど刻まれたものはそこにあり、彼をそうさせている。まるで剣に刻まれた傷のように。

「一度立ち止まりください」

 真摯な瞳に陰光はひやりとする。不思議なほどに静かなのに、否と言わせるほどの隙はない。

 すぅっと息を深く吸い、そして吐き出す。熱を帯びていた頭が冷めていく。

 言っていることは正しい。目的はあるが闇雲だ。もしかしたら横路に大切なものが落ちているかもしれない。

 冷えた頭で数度頷く。

「悪い」

 男は柔らかに微笑む。

「急がれますか?」

「その方がいい」

「今すぐにも?」

「……これを食ってる時間と、話す時間はある」

 短い問答に男は一度頷くと干し果実の包みを渡す。

「水を、ご用意致します。俺もお話が少し」

 そう告げると男は音もなく妻戸の奥へと消えていった。

 渡された果実を見下ろし、嘆息するとその場に座る。傍に鳶が降りてくると陰光の顔を覗き込んだ。

「頭は冷えたか?」

「冷えました」

 きっと、自覚している以上に焦っていたのかもしれない。親友が知らぬところで巻き込まれている。その一因は自身にあるだろう。それは衝撃となり、正常な判断を奪う。

 心は常に落ち着けねばならない。術というのは心身に負担をかける。乱れた心で術を行使すればとんでもないことになりかねない。

 例え警鐘が鳴り、焦燥に灼かれようとも平常心でいなければならない。

 頭をがしがしと乱暴に掻く。髷が乱れた上に落ちてきた。苦虫を噛み潰した顔をする。

 その様子に鳶は喉の奥で笑う。

「あの男に諭されるとは情けないな。陰陽師」

「うるせー」

 指で鳶の頭を小突くと痛いと返される。

 そんな言葉を流して、包みの干し果実を一つ取り、口に運んだ。甘い味が口内に広がる。これは桃だ。

 視線を感じたので一つを鳶の前に置いた。

「違う」

 むすっとした声に怪訝にする。

 今のは催促ではないのか?

「……あの男はああも変わるのかとな」

 男の消えた先を金の瞳が示す。

 それに言葉が出なかった。戸惑うことではないが、鳶は剣を握った時や昨晩の様子を知らないのだと思い出したのだ。およそ、おっとり気味の静かで緩やかな姿しか見ていなかったのだろう。

 さらに桃を口に運びながら、確かにと胸中で同意する。

 昨晩も。その前も。見せる顔が違う。

 泰高が以前言っていた。記憶がないということは育った身の回りの環境もなかったことになる。人は環境によって大きく変わる。と。

 剣を持ったあの険しい姿の方が彼なのだろうか。

 落ち着きを見せた思考が男について考える。と、そこに椀を持った男が帰って来た。そのまま陰光の前に座ると椀を差し出す。

 ちょうど良い時にと受け取り、口に含む。無味の水が桃の甘味を胃へと流し込んでいく。

 こくりこくりと半分を飲み、椀を傍らに置く。

 顔を上げれば男が静かに陰光を見つめていた。先ほどの鋭利さはない。

「泰高が臥せった」

 短く切り出すと男の眉がぴくりと跳ねる。

「原因は夢だ。赤い花の夢を見て、それに囚われかけている」

「赤い、花」

 驚いたように繰り返す言葉に黙然と頷いた。

「俺が思うに大猿の言っていた赤い花だ。それが夢を介して泰高を捕らえようとしている」

 何故に?

 夜闇の瞳が雄弁にその問いを映す。

 陰光は眉間に皺を寄せた。

「声がしたらしい。咲いてみせましょう。という」

 男は瞠目する。

 赤い花は願われていた。それに花が応えようとしている。ただの花ではなかったのか。

 その疑問を察して陰光は懐から懐紙を取り出した。それを開くと翡翠の欠片が現れた。

「これは」

「あの翡翠と同じやつだろうな。泰高はこれを拾っていたんだ。何故か、指摘するまで忘れていたが」

 ぴくりと男の肩が揺れた。生憎、陰光はそれを見ていない。

「大猿は翡翠を拾ったと言った。推測だが、その欠片を赤い花に与えたんだ」

 そうして続けた。

 朽ち逝く花が惜しい。そこに現れたのは見もしない強い力を宿した異形。最初は漸く落ち着いた妖間の争いの火種を増やさない為か。本当に力を欲した為か。幾らかの妖たちと共闘して喰らった。

 その最期に見せた輝き。喰らった力とは別か。逃亡最期の足掻きか。本体だった翡翠は砕けて地に落ちた。それを大猿は拾った。

 拾った欠片にはまだ力が残っていた。その力を花に与えればあるいは延命できるのではないかと、そう考えてしまった。

 きっとそれは陰光が出会う前に既に行われてしまっていた。時差で喰われた大猿はその行いが間違いだと最期の時に察してしまったのだろう。だから言ったのだ。

――あるいはとな……だが、間違いだっただろうな。

 花に一時的に力を与えられたとして、それが化生へと変じた。そして、願いに応えようとして力を欲した。霊力が有し、翡翠を所持してしまった泰高を欲した。

 翡翠と同じように、他者を喰う為に。

 陰光は歯噛みする。

 最初に訪れた蛇は警告した。

 宿したものを喰らい合う。

 まさにその通りとなってしまったのだ。

 一度解き放たれた力が枝葉を伸ばしている。なんとかしなければならない。最後に触れて、力を与えたのは陰光なのだから。

 だが、そこに一つ問題がある。

「赤い花が、分からない」

 大猿の示す赤い花。名前も忘れたと言っていたが、もしかしたらその在処すらあの時には忘れていたのかもしれない。

 欠片の埋められた赤い花。それを見つけなければならない。

「陰光様」

 ひたすらに沈黙し、陰光の話を聞くに徹していた男が口を開いた。

「その赤い花ですが……もしかしたら、分かるかもしれません」

「本当か!」

 男は頷いた。

「何処だ!それは何の花だ!」

 矢継ぎ早に陰光は前のめりになりながら問う。

 男は動じることもなく、答えた。

「花は――」

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