第10話
暗闇に咲いている。
花が咲いている。
赤い花だ。
けれど輪郭が覚束無い。
あれは何の花だろうか。
赤い花が咲いている。
その向こうから何かが聞こえる。
微かな声だ。声は言葉にはならない。
泣いているのだろうか。
そんな気がした。
それでも赤い花は咲く。
咲いて……ぽとり、とまた落ちた。
頼まれ物の資料を持ち、陰光は陰陽寮へと歩いていた。
空は少し曇っている。朝方雨を降らせた雲の残りだ。最近は晴れの日続きでそろそろ恵みが欲しいと囁きがあったところでのものだった。
降ったのは夜から朝までの数刻だけ。それでも十分な恵みだ。来月からはそれが逆転するかもしれないが。
雲の狭間から垣間見得る青空は透き通るようで気持ちがいい。
そんな空を一度立ち止まり、堪能する。
ふと、話し声が聞こえてきた。
視線を巡らせると簀子の端。人があまり通らないところに泰高の姿があった。隣には誰かがいるが、ちょうど陰光の位置からは死角になり見えない。
なんにしろ陰陽寮の人間だろう。手にした資料は暦博士(れきはかせ)宛のものだ。ついでだから居場所を聞いて置こう。
陰光はそこに足を向ける。
近くに行けば泰高の隣にいたのが刀岐川人だと分かった。
他者にどうこうという気持ちはないが、あまり好意的ではないものであったら嫌だなぁ。という気持ちは少なからずあるから少し安堵した。
「泰高!刀岐殿!」
陰光が名を呼ぶと二人は揃って振り返った。
「陰光。そんな大きな声を出さなくても聞こえる」
呆れたような顔で泰高は簀子から陰光を見下ろす。陰光は外にいるから必然的に見下げるしかないのだ。
「元気があっていいだろうさ。これから更に忙しくなるからしっかりして貰わないとでもあるし」
そう笑う川人に陰光はそっと視線を逸らした。
皐月も半ばを過ぎ、いよいよ物質的な準備が佳境となってきたのだ。もちろん主だった役割は神祇官だが、やはり陰陽寮もやることがある。現に今持っている資料も関わりのあるものだった。
帝の代替わり。何か障りなどあってはならない。
だからとて駆けずり回るようなことにはなりたくない。
「そういえば、あれからは問題は解決したかな」
川人が問う。
同じ陰陽部にいるから会う機会は多いはずなのだが、何かとあって話すことがなかった。
山海経を教えてくれた人物であり、何かを察して任せてくれたのだから説明する必要はある。それは陰光もよく分かっている。だからこそ、まだもやつく疑念で報告を遅らせていた。
「目先、というか……一応一番の問題は解決したと思います」
歯切れの悪いそれに川人は瞬く。
「まだ何かあるのか?」
「いや、なんか納得いかないところがあって……でも問題はないはず……」
言ってはみるが、見る間に表情が曇っていく。言葉にすればするほどに喉に何かつっかえているような感覚に陥る。
上げていた視線がずるずると下がっていく。と、川人の手に何か握られているのが目についた。
手からはみ出ているのは木の塊だ。
思わずそれを凝視していると川人も気付いたのかそれを持ち上げた。
「木彫りの猿だよ」
「木彫りの、猿?」
なんでそんなものを。と明らかな疑問が顔に出るものだから川人は苦笑する。横の泰高は一つため息を吐いた。
「あの場所は都でも坤(ひつじさる)の方角だろう。そこで猿の死体が見付かった」
坤。鬼門の艮に対して逆の方角だ。そこは裏鬼門。鬼門と同じく忌まれた方角であり、陽から陰へと転じる不安定なものと考えられている。
その方角を指し示すのが十二支における羊と猿だ。
「その片割れが欠けたとして近く、この猿を形代として埋める話になったんだ」
元々不安定とされたものだ。今回は別件で関係がないにしろ猿が欠けたという表面上の問題を解決しないわけにはいかない。後々に問題が起きても困るからできることはそれなりにしておくべきでもある。
それとは別に陰光はじっと猿の木彫りを見つめていた。
猿を模した木彫り。それは形代であり、陰陽師が呪を用いれば式にもなるだろう。ただの木片を、紙を、時に全く別のものへと変える。それは大体そうさせる対象の形を作る。
今回は猿だ。陰光は以前式文を鳥の形に折ったことで鳥と成して飛ばした。また、人の形に折れば人の形にもなる。
形を作り、そこに名を与えればより強固となる。
暗がりの中に見つけたあれ。あれは何かを象っていた。
じっと見つめる中で、すとん、と落ちた。
「あーー!」
突然、目を見開き大声をあげる。
さしもの川人と泰高もびくりと身体を跳ねさせた。
「そうか!それなら分かるぞ!」
驚きと喜びに満ちていく陰光に、耳の奥がまだ響いているような感覚の二人は唖然としている。
「橘殿!暦博士への資料をお持ちと聞いたのだが!」
そこに声を聞き付けたらしい暦生が急ぎ足にやってきた。
「あ、そうだった!今行きます!刀岐殿ありがとうございます!」
慌てた様子を滲ませていたが、それ以上に晴れやかな顔をする陰光。一礼し、走って暦部へと向かっていった。
軽やかに走っていく陰光を呆然と見送る二人。
ふいに笑ったのは川人だった。
「どうやら何か解決したようだな」
「あいつは……全く」
額を押さえて苦虫を噛んだ様子を見せるのは泰高だ。
だから突然大声を出すな。と胸中で叱責する。勿論後程本人にもちゃんと叱責する予定だ。
近くの部屋から何人かが顔を覗かせている。少なくともこの陰陽寮には響き渡っていたことだろう。
川人が軽く手を振るとその何人かは大人しく業務に戻っていた。滅多にあるわけではないが、別に全くないわけでもない。陰光と同世代か、それ以上だとなんとなく察してしまうところもある。
「今回の件があまり尾を引くのは心配だからなにかしら変わったならよかったよ。穂積殿の話も関わりがないといいのだが」
そう話す川人の目は穏やかさがあるが、一握りの険しさを持っていた。
泰高は小さく肩をすくませる。
陰光がやってくる少し前。泰高は川人を呼び止めた。あることについて話を聞きたかったからだ。
その話が以前のような書物探しとは違うものだとは少々強張った表情からすぐに読み取れた。
泰高は一度息を吐いてから口を開いた。
「夢を見るのです」
「夢?」
「はい。赤い花の夢です」
そうして泰高は話し出した。
暗闇の中にぽつりと花が咲いている。
赤い花だ。だが、不思議とそれがどんなものか分からなかった。泰高に知識がないわけではない。輪郭がぼやけているような曖昧な感覚で認識できないのだ。ただ、それが赤い花だということは分かった。
ぽつりと花は咲いていたのだが、それが日を重ねる毎に増えている。
そして、その奥からなにかしらの音が聞こえるようにもなった。微かなそれは声のような気がした。それはまるで泣いているかのような淋しいもの。
川人は唇に指を置いて考える。
夢とはあらゆる意味がある。勿論無意味なものも。
懐かしい想い出。そうありたいという願望。疑心暗鬼の恐怖。何もかもを混ぜ合わせた混沌。そういったものたち。
だが、陰陽師のような力あるものはそれだけではない。
訪れるべき未来や回避しなければならない厄災などの予言と呼ばれるもの。今亡きものたちや、遠くにあるものたちに邂逅する夢渡り。今まさに起きている吉凶の報せ。
泰高も天文生であれ陰陽師だ。なにかしら意味がある。
「刀岐殿は、見てはいませんか?」
思案する川人に不安そうに問う。
それには首を横に振った。
「そうですか……」
「どうしてそう思ったのだ?」
二人は同じ陰陽寮の同僚だ。しかし、川人は陰陽部。泰高は天文部で部署違い。こうして話ができるほどに交遊はあるが、それは互いに温和で真面目であり、親しみやすさがあるからだ。年の差もあり友人と呼ぶような仲でもなければ、血に縁があるわけでもない。
ちらりと周りに誰もいないことを確認すると泰高は声を落とした。
「この夢。……思えば、祓えの儀の夜からなのです」
川人は瞠目した。
地の穢れを祓う儀式の夜。そんな日から同じ夢を見続けているというのは明らかに異常だ。
当時の記憶を呼び起こす。なにかしら手順を間違えていただろうか。だが、その時には複数の陰陽師がいた。泰高もそこに同席していた。もしなにかしら手違いがあれば誰かしら必ず気付くはずだ。儀式に問題があるわけではない。
では、何か。
「その日に何か変わったことは?」
泰高も思い起こす。
朝も夜もいつもと変わらなかったはずだ。変わったことがやはり祓えの儀に参加したこと。浄めに使う榊などを運び、他の同僚たちと同じように後ろに控えて儀式が無事に終わるまで見学していた。
その間に何かあったか。変わったことをしたか。
「何か…………」
口の中で呟き、熟考する。
目を閉じて風景を広げる。草の高い場所を掻き分けていた。一本の大木を横目に…………さらに奥に進み浄めの榊と神水を置いていく。その後は参列に回った。
そこまで考えてから首を横に振った。
やはり、何か変わったことがあった覚えはない。
「ふむ……何か憑いているわけでもないし。悪いものだと思うかい?」
「いいえ。淋しいとは思いますが、恐怖とかはないです」
そうなると害意はない。と考えるには早計か。
淋しいと思わせるならなにかしら未練あるものの魂と同調している可能性もある。 同調するというのも負担が大きい。早めに対処した方がいい。
「私で良ければ、それから剥がせるようにはするが」
泰高はそれには慌てて首を振ってみせた。
「いいえ!陰陽師ですから自分でなんとかします。今回は同じような人がいるのではと思いまして……お時間頂いてしまって申し訳ありません」
頭を深く下げ泰高は天文部へと歩いていった。
その背を見送り、川人は手の中の木彫りの猿を見下げる。
本当に何もなかっただろうか。自身に問い掛ける。
星が爆ぜた時は御簾の……境界の向こうで何かがあったのは分かっていた。ただ、あくまで境界。妖たちだけのことであれば人間が干渉する必要はなかった。
それ以外に目につくようなことはなかった。
祓えの儀の時はどうだったか。
争った痕はあった。それは痕でしかなかった。今まさに手を伸ばすような異様な気配はなかったはずだ。
ではその後か。
一つ息を吐く。
全く関係ないことであればいい。偶然、祓えの儀の日だった。それだけならいい。
いや、そうでもないが。
「刀岐殿。こちらにいましたか。博士が呼んでいましたよ」
後ろから支部のものが声をかけてきた。
少々考え込んでいたようだ。
「分かりました。今伺います」
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