第9話
暗闇に咲いている。
花が咲いている。
赤い花だ。
けれど輪郭が覚束無い。
あれは何の花だろうか。
赤い花が咲いている。
赤い花が咲いて……ぽとり、と落ちた。
暗闇に目を覚ます。
ぼんやりと梁や壁の輪郭が浮かび上がる。
見慣れた部屋だ。
数度瞬いて陰光は身体を起こす。
今は何時だろうか。
分からないが、およそ二度寝できるようなほどの時間ではないように感じられた。なにより、なんだか目が冴えてしまっている。
立ち上がり、袿を羽織って簀子に繋がる妻戸を開けた。
外はまだ暗かった。それでも東の空に微かに薄明の匂いを漂わせている。見上げれば月もまた西にだいぶ傾いていた。
「薄明か……」
目を細めて小さく呟く。少々早起き。その程度か。
夢を見た。
赤い花の夢だ。
何の花だっただろうか。
ある程度基本的な花は覚えたつもりだ。歌にも読まれるものならば特に。だが、特別に興味があるわけではない。目の前に突然出されてもすぐに答えられる自信はない。しかも、夢の花は輪郭がぼんやりとしていて不鮮明。色だけで判別などできるはずがない。
なんでまた花の夢など。とまだ暗い庭に視線を落とす。
人影が一つあった。
どくり、と鼓動が跳ね上がる。
こんな刻限に誰がいるというのだ。
闇の中を凝視する。
人影が視線に気付いて振り返った。肩につく程度の柔らかな髪。見慣れない異国の装い。剣の男だ。
深く息を吐いた。
そうだ。今この邸にはもう一人いるのだった。
預かってまだ十日と経ってはいない。それで夜中にこんな形で出会すのは初めてだ。
いくら妖怪変化が見えるとしてもなかなかに恐怖体験だ。いや、一番恐ろしいのは夜盗か。一応そういったものを遠ざける呪いは邸に仕掛けてはいるが絶対ではない。
陰光は多少なりにも体力には自信がある。刀も持てなくはない。が、間違っても対人戦を行える技術はない。術を放てば確かに対処できるが、生きた人間に放つにはあまりに危険なので避けたい。
つらつらと考えていると男は陰光に近付いてきた。簀子と庭なので陰光からはだいぶ見下げる形になる。
「おはようございます」
朝の挨拶をして頭を下げる。
さきほどまでの恐怖体験の犯人はいつも通りだ。
「ああ、おはよう」
「朝餉、ご用意しますか?」
その言葉にやはり少々早起きだったのだと悟る。
男が来てからというもの、食事の準備もしてもらえている。以前は当然ながら陰光が作っていたのだが、その時間がまるっとなくなり朝の時間が多少異なっている。そのせいか起きる時間がまばらになっていた。
「そうだな。で、お前はどうしていたんだ?」
男には一応使っていない一間を与えた。
寝る必要があるのかと思ったが、控えている折りにうつらうつらしているのを見掛けている。必要か否かは分からないが習慣は残っているようだった。
「花は」
一つ呟くと視線を庭へと向けた。
「赤い花は……なんだったのかな、と」
赤い花。
さきほどの夢を思い出す。
「猿が、言っていたから……気になって」
それで庭に生える花を見ていた。そういうことらしい。
確かに大猿はそんなことを言っていた。陰光はそのことを今ようやく思い出した。
なるほど。直近でそんなことがあれば確かに夢に出てきてもおかしくはない。猿の死の印象が強すぎたせいで上書きされただけで、その言葉も何処かで残っていたのだろう。
視線を庭に向ける。
今は春を過ぎて夏だ。花よりも青々とした葉たちの方が余程目立つ。残念ながら庭先に花らしきものは今の時期にはない。小さな、名も与えられていないような花はあるかもしれないがそれは目を惹くような赤ではないだろう。
「あの、木は?」
男がとある木を指差す。
庭にある一際大きい二本の内の一本。根本は太く、伸びるほどに大量に枝分かれしている。それはそれぞれに真っ直ぐに伸びて扇のように存在を広げている。今は一丈に届くかもしれない。
「木槿(むくげ)だ。俺が生まれる前からある」
目を細めて昔に思いを馳せる。
幼い頃はあれが本当に大きくて、無邪気に木登りをしようとして母に怒られた。母は大輪の花を咲かせるこの木を気に入っていた。勿論、それが理由で怒られたわけではない。下手に登って枝が折れたら大怪我になるからだ。それでなくても木槿は根本こそ太いが、枝分かれされた先は細い。子どもには登りやすいかもしれないが、その分危険なのだ。
「花は?」
「咲くぞ。大輪の花をたくさんな。ただあれは白い花だな。それだったらあっちだな」
ついと、木槿とは対象的に立つもう一本を示した。
こちらも負けず劣らずと大きな一本だ。同じく根本は太い。が木槿よりもどっしりと構えており、横に大きく枝を伸ばしている。木槿が天に手を伸ばすようならば、こちらは地を包むように重さで先が下がっている。
「椿。こっちは赤い花だが……時期はもう過ぎたよ」
こちらも大輪の花を咲かせるが当の昔に時期が過ぎてしまった。しかも花によっては遅く咲くものもあるが、この木の花は真冬の頃に咲く。年によっては雪の中に咲いていた。
「そう、ですか……」
残念そうに肩を落とすと振り返る。
「少々、お待ち下さい」
そう言うと走って行く。朝餉の準備に向かったようだ。
背を見送り、空を見上げる。
星堕ちなど言われているが、陰光の星が落ちたわけではない。生まれた日に一際大きな星が落ちただけ。そうでなければそもそも陰光は生まれた時に死んでいただろう。
星が自身に関わっているのかは明確には分からない。だが、周りはそうだと思っている。
父の一族にも。母の家にも。視えざる者を視る力を持った者は誰もいなかった。陰光だけがその力を有していた。
それがいいのか悪いのかは分からない。
ただ、少なくとも母は良く思っていた。幼い時分に母は言っていた。
『暗い、冥い夜を引き裂くような鮮やかな白い光だったわ。つらくて苦しかった私にとってそれはとても心強くて……そんな中で、貴方は産まれたのよ。だから……』
そう話していた母の顔はとても優しく穏やかだったのを今も鮮やかに思い出せる。
そのあとに紡がれた言霊は今となっては誰も知らない。呼ばれることも二度とないだろう大切なものだ。
頭を掻き、追想に更けていたのを終わらせる。
そういった思い出も今のあの男にはない。本人はそれをどう思っているかは分からないが、陰光は淋しいものだとは思っていた。籠められた言霊さえも失せてしまったのだから。
早く何かしら手掛かりが見つかればいいのだが、まだ見つかっていない。
何分記憶だ。手伝うにもそんな手段はない。殴って思い出せるならしているが、そういうわけにもいかない。記憶を呼び起こす術があるかどうかは一応仕事の合間に探してはいるが……大抵は何かしら手掛かりがある前提のものばかりだ。何もない状態の男には使えるようには思えない。剣が使えないかと思ったが、宿っているなら下手に使わない方がいいかもしれない。
気になることはある。やるべきこともまだ色々ある。
「あ……あいつにも買ってこないと」
やるべきことを並べていると鳶との約束も思い出した。今日にも買いにいかないとそろそろ突撃されかねない。
結界の壁はない。害あるものを阻むだけのものが作られている。
あの時の結界衝突事故は起きないだろう。が、いつかの烏帽子強奪時の勢いで室内に飛び込まれるの大変まずい。それは避けたい。
「はぁ……最近どうにも忘れてるなぁ」
一人ぼやきながら、顔を洗おうと井戸へと向かった。
傾きかけた日に向かい陰光は歩いていた。
手には包みがある。干し果実だ。種類はそこまで無かったがとりあえず手に入った。唐桃と林檎。柚もあったのでそれも。
これで満足してもらえればいいのだが。いや、何か言われても無かったと言えばいいだけだ。実際そこまでなかったのだから。
胸中で鳶の文句への反論を想定しながらのんびりと歩いている。
まだ人の往来がある。庶民や市にいたものが大半だ。時折何処ぞかの舎人が足早に行く姿も見掛ける。
市の中に紛れる直衣の陰光は少々浮いていた。大内裏に通うような男が市にいるのは稀だ。いないわけではないが、やはり家人や女たちが圧倒的多数になる。
それでも顔馴染みの西の市からすると別に不審に見られることはなかった。
昔から陰光は何かと市には来ていた。母と年老いた乳母と陰光の三人暮らし。母亡き後は二人だけ。荷物持ちは陰光の仕事だった。定刻になって早足に帰邸し、重い荷物を買いにいった。
今はこうして陰光自身が一人足を運ぶ。時間がなければ式に最低限のものだけを任せるようにもなった。
市は何時もと変わらぬ平和なように見えた。
せっかくだからと市の者にそれとなく星の話を聞いてみたりもするが、そんな話を聞いたな程度だった。
そもそも寝ていた。がやはり大半らしい。後は実質的な被害があるわけではないからというのも理由だろう。
あれやこれや憶測を並べて不安がる貴族よりも、庶民の方がよほど肝を据わらせているようにも思える。それはまた基本的な見方が違うからこそなのだろう。
ただ、流石にまだ入りにくいとは話していた。遠出ができない者はあの辺りから果実や野草を拾ってくるのだという。彼等だけは少々気後れしているが、祓えの儀も行われた以上はそんな気も失せているかもしれない。とのこと。
人が入らないと思っていたが、少数はいる。何もなければいいが。
僅かに不安を抱きながらふと空を見る。
鳥影が一つ。くるりくるりと空を旋回している。そこは気のせいでなければ自邸だ。
今日買ってきてよかった。
安堵しながら足を早める。角を曲がればもうそこだ。
足早に進みながらちらりと空を見上げると鳥影は邸の敷地へと降りていった。帰邸に気付いて先に中で待つつもりなのだろう。
門を潜り、玄関を抜けて自室に向かう。
開かれた妻戸を通れば、やはり鳶は床に立っていた。
「今日は内裏の方ではなかったな。あれは市からの帰りだ」
開口一番。推理を披露するかのような得意気な喋り方に苦笑を漏らした。
「大正解。でも時間と時期あるからそんなにないからな」
「物を見てからだな」
文机の前に座ると鳶もその端にやってきた。
買ってきた包みを開くと、さらに小分けされた三つの包みが現れた。
その一つを開くと、少し白さを纏った丸い深い黄色の唐桃がころりと出てきた。もう一つ広げれば薄い黄色の林檎。輪切りにされたもので外側は赤い皮が残っている。最後は柚だ。どれも仄かに色の違う黄色だが、香ってくるものはまるで違う。
「おう。これは唐桃か?甘い匂いがするな。こちらは林檎……柚とはまた珍しいものだな。山にはない」
三つの包みを見やりながら鳶はその金の瞳を輝かせている。
そんなに食べたかったのかと笑いそうになるが、ここで笑うと何か言われてしまうかもしれない。
笑いを抑えて、唐桃を一つ床に置いてやる。大きさを見るに一口で食べられるものではない。
「すまないな。では一つ」
鳶は鋭い爪を備えた足で唐桃を押さえつけると嘴の先で啄みだした。鴉と違い、丸みのある嘴だ。少々食べにくいのではと思ったがそんなことはなく、慣れた様子で実を食い千切り食べ出した。
「ふむ、やはり瑞々しさはないな。だが代わりに味が深まっていい。甘味が強いのもまた」
味の感想を述べながら鳶は一つ、また一つと唐桃を食い千切る。
鳥に歯はない。大体は丸呑みか、今のように小さくしている。その小さいのも結局は呑み込むだけで、咀嚼することはない。よくよく考えればなんでまたそんな味わえているのだろうか。
ふと疑問が生まれたが、多分知ってもあまり意味はない。
「林檎と柚も取ってくれ」
金の瞳が要望を出す。言われるままにこちらも一つずつ床に置いてやる。
唐桃はまだ残っているが、味比べだろう。
林檎に手、ではなく足を伸ばして同様に啄む。こちらは砕けるように割れたのでそれを口にする。
「これもなかなか……あのさっぱりさの中の甘味がこうなるかぁ」
噛み締めるようにしながら啄む。
なんとも評論家のような事を言うものだ。
苦笑し、せっかくだからと陰光も唐桃を一つ取り口にいれる。
唐桃は元より甘い。それが濃くなっている。陰光には少々甘すぎるきらいはあるが、一個つまむ程度ならばこれでいい。
「おかえりなさいませ」
声がかかり振り返る。
廊に繋がる妻戸から男が入ってきた。その手には椀が二つ。傍らまで来ると膝を折ってから椀を差し出した。
中を見れば水が入っていた。喉が乾くだろうと持ってきてくれたのだ。
「ありがとう」
「いえ」
小さく返すともう一つを床に置いた。鳶の分らしい。
「すまないな。お前も食うか?」
翼で文机の干し果実を指し示すが、男はゆるりと首を横に振った。
「そうか。そういえば何か進展はあったか?」
特に推し進めるわけでもなく鳶は話題を変えたが、当の男はその内容が分かっていないのか首を傾げる。
「記憶だ。それなりに日数が経ったのだから何かしらあるだろう?」
それには男は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
まだ何も思い出せていなかった。書物も三冊目に入ったようだが、全く何も引っ掛からないらしい。読むのに必死になっているから、ではないと思われる。
ここまで全く何もないとなるとこちらは不安だ。それに反して本人事態は何も不安な様子はない。
「……名前くらい思い出せたらなぁ」
陰光はぼやく。
「仮の名もつけていないのだな。ここにいる分には不便ではないだろうが」
「それはつけない。名前は……うん」
名前というのは大切なものだ。そこには祈りや願いが込められる。それはその者をそうたらしめる形ない呪縛ともなり得る。名こそが呪となるのだ。
故に下手に名前など与えては男の記憶を邪魔しかねない。故に未だに男のことは適当に呼んでいた。
その話に男はゆっくりと瞬いてから鳶を見た。
「鳶は、名前あるの?」
珍しく男から口を開いたことに少々驚いた様子を見せるがすぐに答えた。
「妖たちで人のように名前を持つものはあまりいないぞ。ある程度纏まりのある一族ならばそうだが、好き勝手自由にいるやつらなんかは容姿やらで呼ぶ程度。俺なら鳶だ」
「つまり、ない?」
返ってきた疑問に鳶は翼を嘴で掻いてからあらぬ方を見た。
答えはない。ないのか。または言いたくないのか。
男は少し身を退いた。
突然のなんとも言えない空気に陰光は新たに林檎を一つ食べる。うまい。ではない。
「……あれ?お前、こいつが話してるの驚かないのか?」
今さらに当然のように会話していることに気付く。
あの事件以来、鳶とは顔を合わせていない。そうなれば男が話せるようになったことなど知らないはずだ。
鳶はあー、と声を漏らした。
「なんか大勢でやってただろ?その翌日の夜に一回此所にきたんだ」
その夜、生憎陰光は宿直で不在だった。邸には留守を預かっていた男がいるだけ。その際に声が出るようになったことを知った。
知らない間に会っていたのであれば驚く理由はない。
「知らなかった」
「まぁ、いないなら別にとな。すぐに帰ったし、言わなくてもいいって伝えたからな。そうじゃないとそいつはわざわざ報告しそうだったから」
嘆息混じりに翼で男を示す。実際、用件やらなんやらを一回ちゃんと聞いていたのだ。
相変わらず出来た子だな。と少しずれた感想を陰光は抱く。
それはそれとして一度来ているのだ。
「何かあったか?それともただの催促だったか?」
催促だったならもう果たされたので問題はない。
「催促とは失礼な。約束は違えるものではない」
それは正論なので黙って首肯した。
「こうして用意しているからいいがな。で、それとは別の用件だ」
「別の?」
反芻すると鳶は頷いた。
「猿が死んでからまた少しざわついたぞ」
それに二人が表情を引き締める。
急な様変わりに鳶は慌てて翼を広げた。
「待て待て。懸念するようなことじゃない」
「ならなんだ?」
険を孕んだような語調に鳶は肩を竦める。
「猿はそれほど大きい存在じゃないが、空きができた。そこを取ろうとした奴が現れたくらいだ」
猿は群れをなす。妖もそこは同じだったらしく、若い頃は一団を従えていたそうだ。それも老いてからは若いのに任せ、悠々自適な生活に移り、都近くの山間を小さいながらも縄張りとして暮らしていた。
その空いた縄張りを取ろうとした奴が現れた。それは自然な流れだ。
「まぁ、それで妖たちがごたごたしだしたくらいで、問題らしいことはない。それに 合わせて何人かが行方知れずとか出てきても負けたんだなぁくらいの話だ」
行方知れずのくだりが物騒だ。だが、そういう妖社会なのだろう。と考えることにする。
「ただお前が猿を殺したみたいに思ってるやつが少しいる」
最後の柚を飲み込み、そう何気なしに言いながら渇きを潤そうと鳶は椀に嘴をつけた。
ぽかんとする。が、しばしその内容を噛み締めてから目を向いた。
「はぁ!なんでだよ!」
確かに猿は死んだ。が、原因は腹にいた暫定饕餮だ。間違っても陰光が手を下したわけではない。そんな誤解をされてはたまったものではない。
鳶はそんな調子を意に介さず、ふぅ、と息をついた。
「現場にいなかったやつが残された事実に根も葉もないものを加えたり減らしたりしてるだけだ。知ってるやつは知ってるからそのうちなんとかなるだろう。俺が話を聞いて回った時も少数だったからな。でも、今はあそこに行かないほうがいいかもだ」
陰光は遠い目をした。
妖だろうが人間のように噂を勝手にでっちあげないで欲しい。
別に妖たちと仲良くしようとは思っていない。それでも、何かの折りに関わりが必要になるかもしれない。そこで敵意を既に持たれているのは非常に問題だ。今はまだ完全に解決したかと疑念を抱いているならなおさらだ。
深々と一つため息を吐く。
それに鳶はようやく干し果実三種を食べ終わって満足そうに目を細めている。
床に落ちた滓は男が料紙で浚う。邪魔にならないようにと鳶は数歩後退した。
「ああ、そうだ。赤い花だが、木だったら目につかなかったぞ。芥子とかならまだあるが」
思い出したのか鳶は男に向かってそう話した。
「そう……」
浚った料紙を溢さないように折り畳みながら残念そうな顔を作る。鳶も申し訳なさそうにしながら首をめぐらせた。
その様に陰光だけが分からないでいた。
「何の話だ?」
話に入り込もうと一度態勢を立て直す。
答えたのは鳶だ。
「赤い花を見掛けてないかとこの前に聞かれたんだ。探すまではないが、目についたら教えて欲しいと」
それには男も頷いて肯定してみせた。思うよりも男は猿のことを気に掛けているようだ。
「だが、なんで木なんだ?木と断定していたか?」
首を傾げて記憶を遡るが、赤い花とだけのような気がした。
それには男が口を開く。
「朽ちる頃と……。花なら、枯れるかなと」
言い回しでそう考えた。
確かに草花ならば枯れるか散るだろう。朽ちるという表現ならば樹木の方が適切か。
「となると老木で赤い花を咲かせるか」
顎に手をやりながら考える。
この時期に赤い花を咲かせる木。
思考し、記憶の中を探してみるがそもそも底は浅かった。詳しくないと探す箇所事態が狭く浅いからすぐにことが終わる。
男も探したそうだが、そもそも自身の記憶がない。探しようがなかった。
鳶は目にした現状がある。赤という殊更に目立つ色彩の花が目に映らないのであればないということに他ならない。
しばらく沈黙が続く。
「……………………分からん」
ついには陰光が一言。それで三人は揃って息を吐き出した。
「しかしだな、その猿はもう亡いんだ。優しいのはいいが当人がいなくば仕方あるまいよ」
とてとてと鳶が男に近付くと翼で身体を叩いて慰める。
男は少し寂しそうにしたが小さく微笑み鳶の背を撫でた。気持ちがいいのか目を細めている。
それを見てから広げた干し果実を包みなおし、おもむろに立ち上がる。
退出後、そのまま市に向かい、帰邸して今に至る。着替えていなかった。別にそのままでもいいのだが、自邸で直衣というのはなんだか落ち着かない。だから陰光は着替えるようにしている。
この前対峙した際に着ていた狩り衣が目についた。藍色とはいえ汚れが目立っていたそれは今では綺麗だ。これも男がしてくれた。
藍の狩り衣に袖を通して、直衣を畳みながらふと気がついた。
「お前、花を探したってことはあの場所を飛んだのか?」
あの場所とは猿と会い、暫定饕餮と対峙した場所だ。それを正確に汲み取った鳶は陰光へと首をめぐらせる。
「ああそうだ」
「なんか変わりあったか?さっきの以外に」
縄張り争いは聞いたがそれくらいだけなのか。
あれから陰光はあの場所に向かっていない。その目で現状を把握できていなかった。陰陽寮の者が祓えの儀をしたし、泰高からも話を聞いているからあまり足を運ばなくてもとは思っている。だが、現地を見ているものがいれば話は聞いておきたい。
鳶は思い巡らせるように首をついと伸ばす。
「うーむ。少し違和感があったにはあったが、何分人間が何かした後だからな。そのせいかもしれない」
化生である鳶からすれば祓えを行われた場所は異質なものだ。例えるならばちゃんと祀られ、神の威光を戴ける小さな社。悪意や邪気を持たなければ通りすがることが許されるようなところか。あくまで一時的なものではあるから、もうほとんど効果は失せているだろう。
そうか、と陰光は一言呟く。
そこまで不安に思うこともないのだろうか。まだ判明していないことが気掛かりなだけだろうか。
胸の内にある疑念はまだそこにあり続けた。
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