第8話

 橙に染まり始めた橘の庭。皐月の頃の爽やかな風が吹いていて気持ちがいい。

 庭に面した簀子で陰光は泰高と二人座していた。

「表面的にはこれで事件は解決。裏面もまた解決として考えても良さそうに思うが」

 泰高は持参した酒を杯に満たした。

 祓えの儀から四日が経った。大内裏は相変わらず忙しないが、事件解決祝いにと持ってきたのだ。

 陰光も満たされた杯に視線を落とす。小さく傾ければ、酒もまた傾き揺れる。

「あの異形は倒したし、あれから何か起きた様子もない。一件落着……なんだがなぁ」

 やおら酒を煽り、杯を床に置いた。

 自身が逃がした異形。確かにあれはその異形だった。それを倒した。当初の目的は果たされた。

 だが、どうにも疑問が残る。

「全て解決してないことのせいかもしれないな。異形の正体とかはどうなった?」

「それならこの前宿直の時にようやくそれらしいのを見つけた。当たりを引くのに時間がかかったけど……さらに釣れたみたいだ」

 懐から一枚の料紙を取り出した。

「山海経のそこだけ写した。言っておくがさぼってないからな?写すだけなら式でもできる」

 何か言われないうちに先に陰光は言葉を加えながら泰高に渡す。

 杯を置き、渡された料紙を広げる。

 そこには流麗な筆跡が並んでいた。意思のない式が写した場合、そういったものは主に似る。つまりこれはほぼ陰光の筆跡だ。相変わらず性格の杜撰さに対して美しいそれに小さく感嘆する。

「その状は羊の身の如く。人面、目が腋の下にあり。虎の歯、人の爪、その声は嬰児のよう。名は狍鴞(ほうきょう)……」

 陰光が見たのは毛の生えた牛のような身体だったが大体合っている。

 そもそも陰光は羊を知らない。

 その昔、推古天皇の御世に大陸から献上されたらしいのだが、それきりでこの国にはいない。書物には山羊に似たものとされているが、その山羊も見たことがない。

 ただ描かれた絵を見ると作りはあまり変わらないように見えるからもはや牛でいいだろと結論付けた。

 読み上げるうちに見る間に泰高の表情は険しくなっていたが、書き加えられた一文に言葉を失っていた。

 写した料紙を手に顔色を青くさせている。

 加えられた一文。それは名だ。

 この文面の特徴に似た存在を泰高は聞いたことがあった。しかし、その存在はとんでもないほどの力を有した悪神として扱われている。

 記された名は饕餮(とうてつ)。

 大陸の妖怪変化たちは似たようなところがある。地域や書物によっては名が変わることもある。

 記憶を遡れば、確かに何処かで同一と扱われたなどと聞き齧ったような気がする。

 だが、そうだとしたら。

「こんなものと戦ったのか!?」

 青ざめた顔で声を荒げる。

 饕餮という名。『左傳(さでん)』に記された大陸にいると言われる悪神。四凶。その一体の名だ。

 『左傳』正確には『春秋左氏傳(しゅんじゅうさしでん)』。五経の一冊であり、歴史書である。基礎教養の一つだ。陰光も勿論読んでいるからこそ山海経の文面を見て類似するこの存在を思い出したのだろう。

 だが、もしその名であるとしたら大事だ。強大な存在がこの国にいて、しかも陰光は対峙していたのだ。

 肝が冷えるでは足りないほどの衝撃が走る。

「そこだ」

 陰光は泰高の眼前に手の平を突き出して思考を制止させる。

 その行動に素直に従う。泰高は愕然とした思いを落ち着け、視線でどういう意味だと問い掛けた。

 陰光は腕を下ろす。

「確かに見た目は狍鴞か饕餮だと思う。しかも直感的には饕餮。だがな……俺がそんな奴に勝てるわけがない」

 きっぱり断言する。

 断言するべきことかと思うが、饕餮の話を考えるにそこらの妖たちとは訳が違う。 肩書きに『神』の字が入るほどだ。嘘か真かは分からないが、そうであるならばただの人間である陰光と剣の男二人でどうにかなるとは到底思えない。

 狍鴞の名の方ではとは考えるが、この二体は恐らく同一の存在の、記された名が違うだけのように思えた。

 また直感が饕餮のほうだと思わせる。術者の直感というのはある程度の信頼があるのだ。

 そうだとすれば何故勝てたのか。

 長らく封じられていたから。一度は猿に喰われたから。それにより弱体化した。その可能性も否定できないわけではない。それでもそれだけでは足りないように思える。

 眉間に深い皺を掘りながら渋面を作る。

「既に弱っていた。だから封じられていたのでは?」

 話を聞いていた泰高が一つ答える。

 その前提で猿に喰われたのならば確かに相当弱っていたと考えてもいい。辻褄は合ってくる。それでも陰光の皺は解れない。

「でも、なんか……なんか違う気がするんだよな」

 深々と溜め息を吐き、新たな酒を自身の杯に注ぐ。

 そろそろ考えすぎて知恵熱が出そうだ。

「私ではなんともなぁ。ともより、この国にその正体の真偽を答えられる存在なんかいないだろう」

「いたらすごいわ」

 酒を一口含む。辛みの強い酒で、喉が焼ける感覚がある。先程はよく煽ったなと陰光は自身に思う。

 意識の移行に気付き、泰高は気になることに触れた。

「剣の男はどうなんだ?」

 邸についた時、泰高は初めて男と面会した。

 玄関で膝をついて礼を取る男は思うよりも小さく細かった。

――おかえりなさいませ

 そう告げる声は男にしてはゆったりと柔らかい。剣の男という印象とは随分とかけ離れていた。

 そんな男は今、姿を見せない。出迎えをし、膳の用意だけすると陰光が下がらせて塗籠に篭って読書に勤しんでいるのだ。

「話せるようにはなったが、今も記憶は全く」

 暫定饕餮を倒し、その際に偶然にも声を取り戻した。

 しかし、記憶は戻らず。詩経を読んではいるが、そちらでも糸口はないのかまだ名前すらも思い出せていなかった。

 さらに、字は読めるには読めるが読み解くまでには少々時間を要するらしく、内容を理解すること事態に難儀しているようでもあった。

「小野殿から文の返事はあったのか?」

 別角度はどうだろうかと泰高は文の話をふる。

「昨晩な。ただ、向こうも難儀らしい」

 小野の使いが文を届けたのは戌の刻前だった。

 書にも優れた小野篁の筆跡は陰光よりも流麗で優雅なものだ。だがその筆跡の中にしたためられたのは朗報ではない。

 仕方ないことではあった。名前も何も分からない。さらにはいつの時代の死者かすらも見当がつかない。そんなたった一つの魂の正体を探すというのは相当に難しい。加えて、そこまでになっていれば名前すら完全に消え失せているかもしれない。

「それでは、彼はもう」

「いや。思い出せばまだ分からないとも……」

 あるべき道筋は完全に消え失せてはいない。そうであると信じている。

 橙が濃くなり、紅が滲み出す。やがて東には藍の色が落ちるだろう。夕暮れというのは移り変わりが激しい。

 庭に視線を落とす。さして広くはない庭だが、草木が生えて季節事に色彩を添える。

 冬には椿が、夏の終わりには木槿が咲く。それも昨年までは手入れがあまりされず枝が好きに延びていた。地に生える草花もまたそうだった。それが今は体裁が整えられている。

 それに気付いた泰高は庭に視線を向けたまま口を開く。

「この庭も彼が?」

「ああ」

 短く肯定する。

 この邸には家人はいない。陰光だけだった。

 片付けなどができないこの邸を、男は昼の内にせっせと整えていた。最初の部屋の片付けもそうだったが、ついには庭までも整えられ陰光は一度自身の邸かと疑ってしまった。

 もちろんこれら全てを陰光は指示していない。

 驚くほどに男はそつなくこなす。これが女であるならば早々に宮中に召集されて何処ぞかの姫付きの女房に召しあげられていただろう。

「記憶がないままでこうなると、生前は何をしていたんだろう」

 泰高はしみじみと呟く。

 料理ができ、針も使えて、庭も整えられて、片付け上手。何もなければ静かに控え、何か言う前に察して事を始める。それでいて一切臆することなく剣を持って立ち向かう。

「…………謎だな」

 長い沈黙の後に陰光は言った。

 ここまで完璧と言って差し支えない存在とはなんなんのか。

 唯一は字が書けず、読み解くことが苦手なことくらいだろうか。それも記憶が甦れば変わるかもしれない。

 ますます完璧ではないだろうか。

「所作とかを考えると誰かに仕えていたのは確かだろうね。大陸の生まれならそれこそ位の高い人物付きだったか」

 顎に手を添えてさらさらと泰高は意見を述べる。

 それには同意と陰光も頷いた。

「腕を見込まれて着々と昇進。とかか。あのまったりくらいから考えるとそこまで出世欲があったとは思えないし、誠実さとかも」

「いや、今の性格が元々の性格とは限らないだろう」

「え……」

 思いもしない言葉に陰光は泰高を見る。

「記憶がないということは彼の育った身の回りの環境もまるっとないはずなんだ。人は環境によって大きく変わる」

 周りにいたのが良き者たちならばその心は陽に傾く。逆に悪い者たちならば心は陰に傾く。今の男は傾く前の秤のようなものだ。本来あるべき錘がないだけ。記憶が戻ればその錘も置かれ、秤は傾く。

「ない!あんないい子が実は悪人だったとか!絶対にない!」

 膝を叩き、声を大にして否定する。

 あまりの声に即座に泰高は耳を塞いだ。長い付き合いで彼のこういった大声は慣れてはいるがやはりうるさい。そしてたまに対処を忘れて被害に合う。

「あいつは俺の命を三度も救ってくれたんだ!絶対いい奴に決まってる!」

 どんどん近寄ってくる陰光の身体を押し返す。

 唾まで飛んできそうな勢いもあり、身体は後ろに退いているから腕が伸びきっていく。

「分かったから帰れ」

 冷たく突き放すが何故か陰光は退かない。謎の攻防戦が始まろうとしている。

「陰光様」

 緩やかな声がした。

 二人が視線を後ろに向けると妻戸から話題にしていた男が心配そうに覗き込んでいた。眉尻を下げて隠れるようにしている様は子どものようだ。

「どうか、なさいましたか?」

 小さく傾く頭に、やはりあの声は届いていたかと泰高は溜め息をつきたくなった。

 勢いよく押し返すと反撃に対処できなかった。先程の力はどこいったのか陰光の身体は簡単に後ろに倒れこんだ。

 ぎょっとして男が出てくると直ぐ様陰光の側に座る。

「すまない。これはいつものことだから気にしなくていいよ」

 今度こそ溜め息を吐く。

 それには男は困惑した様子を見せるが、一応頷いてみせた。

 顔を合わせた際に陰光の親友だとは説明がある。そのせいか、初対面ではあるが泰高の言葉をそのまま信じるようだ。

 その横で陰光が起き上がった。

「確かにいつものことなんだけどー」

 不服と盛大に顔に書いてある。そんな顔をするものだから男は不安そうに二人を交互に見やる。

 どうしたものかと思い、話を変えることにした。

「気になっていたのだが、君はなんでまた陰光を助けたんだ?」

 話を聞く限り男が陰光を助ける理由はない。特に最初は。

 突然の事ながら問われればゆるりと首を傾げる。

「なんで……」

 小さく一部を反芻する。

 夜闇の瞳が何かを探すように彷徨う。しばしそうしてから泰高に定まる。

「あれに、敵意があったから……つい?」

 一応答えを出したが本人も明確ではないらしい。言葉尻が上がり泰高に問うような形になってしまった。

 目覚めた直後ならば仕方ないのかもしれない。

「なら、どうしてここまでしてくれるんだ?確かに今は此処にいるって理由はあるけどさ」

 今度は陰光が問う。

 またしても思い悩むような素振りを見せるが先程よりも考える時間を短くして答えはあった。

「笑って、くれるから」

 ゆったりとした口調で男は柔らかく笑ってみせた。

 陰光も泰高もきょとんとして顔を見合わせる。その答えの意味を今一掴みあぐねた。

 笑ってくれる。そもそもそれは理由なのか?

「あれは、危ないから。でも、ここは貴方が笑ってくれるから」

 何処かたどたどしい言葉を紡いで男は笑みを深める。

 あれとは暫定饕餮のことだろう。危険なものだから戦った。

 ここは邸のこと全般か。それにはさきほどと同じ、理由なのかも分からない曖昧な回答がなされる。

 男には記憶がない。故に思考の仕方もあるいは幼くなっているのかもしれない。そう泰高は考えた。

 陰光は唇を吊り上げると男の頭をがしがしと強く撫でる。

「そっか。ありがとうな」

 否定をするでもなくその答えに応えるようにして笑顔を見せる。

 明確な理由はない。だが、逆にそれはとても真っ直ぐなものだ。そんな真っ直ぐさが嬉しいように陰光には感じられた。

 乱暴な手に軽く目を閉じていたが、男は嬉しそうに微笑んだ。

 そんな二人のやり取りに泰高は穏やかに見ていた。

 彼が何者か。これから先どうなるかは分からない。それでもこうして笑い合うのは何よりもいいことではないか。

 紅が西の山の端に消えていく。東は藍からさらに濃さを増して、夜の匂いを漂わせていた。


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