第7話

 空に上弦の月が浮かぶ。

 すっかり夜の帳が降りた大路を陰光は歩いていた。

 闇に紛れるようにと濃い藍の狩衣を纏い、髷を解いて適当に括った髪という出で立ちだ。その後ろを剣の男がついてきている。

 最初は連れていくつもりはなかったが、男は行く気満々で。何かしら訳をつけようかと悩んだが、男は常人には姿が見えず、当たり前だが見えざるものが見えて、かつ、剣を使って対峙することも辞さない。むしろ連れていかない理由がなくなってしまった。

 鳶は眠いから寝る。と寝床に帰っていった。あの後、情報収集を優先して飛び続け、その足――翼で陰光に会いに行ったそうだ。だから遅いと事騒いでいたことをそこで知ることになった。

 灯りはない。術の一つに闇を払い除け見通せるものがある。それを使用しているので必要がないのだ。

 しばらく進めば木々が見えてきた。

 小路の手前で一回壁に寄り、そっと道を見通す。火は見えない。検非違使たちも流石に帰ってくれたようだ。あるいは全く違う路にいるかだ。どちらにしろ好都合と小路を走り抜ける。

 野のような草地が広がり、木々が点在する。それも一町程度で、更に奥には木々が繁りはじめている。森と呼ぶには鬱蒼としてないが、野と呼ぶには見通しはよくない。おかげでそこまで進めばまず人に見られる心配はない。

 高い草地を分け入り進む。

 進みづらい。長い袖が芯の強い葉に引っ掛かる。

 後ろの葉音が大きくなり、横についた。そちらを見れば男が剣を持って陰光を見ていた。

 剣で道を作ろうかと問うているような気がする。が、明らかな人の道があるのも何か問題になるかもしれない。

「いや、大丈夫だ。無理そうになったら頼む」

 男は小さく頷いて、また背後についた。

 しばらく無心で前へと歩く。

 ふと、水の音がした。

 視線を彷徨わせると小川があった。それがさらさらと流れている。

 足を止めて空を見上げた。月と星が煌めいている。

 それなりに中へと入り込んだ。ならばそろそろいいだろう。

 陰光は刀印を結び、目を閉じた。

 意識を落ち着かせ、波紋のない水面を思い描く。決して揺れない、鏡のような水面。そこに触れるものを探す。

 数呼吸。沈黙が続く。

 水面が揺れる。幾つかの気泡がこぽり、こぽりと表れては消えていく。それは数多。あらゆる箇所から、それでいて遠巻きに表れる。

 見ている。この地に潜む妖たちが。遠巻きに陰光たちを見ている。

 だが、それは探しているものではない。さらに集中する。

 気泡が弾けて、波紋が広がる。一つ揺れては一つとぶつかり、一つ揺れては広がる。遠くに行くほどに波紋の壁が先を塞ぐ。気泡が邪魔だ。泰高たちもこんな形になっていたのだろう。これでは探すのは難しい。もっと的確な場所でなければならないだろう。もう少しに奥に進むべきか。思案する。

 水飛沫が上がった。

 はっと目を開けると、人の背丈を越える大猿(おおましら)が三丈先にいた。

 思わず息を飲み、後退しそうになった足を踏みとどめる。

 赤褐色の毛に全身を被われ、赤い面に黒々とした瞳が二人を睥睨する。

「何用だ」

 大猿は少々嗄れた声で問う。猿の年など見た目で図れないが老齢なのかもしれない。

 言葉が詰まる。が、一呼吸して落ち着ける。

 妖退治は確かにしてきた。が、対峙してきたのは人間の怨念か無害な妖たちばかりで、こうして分かりやすく好意的でない妖と対面することは数がない。自身の周りにいた妖怪変化たちは実に弱く、無害だったかと改めて思いしらされる。

「異形の行方を追っている」

「それが逃がしたあれか」

 瞠目する。

 大猿は目を細めた。

「北の、人の住処から飛んできたのだ。人の仕業以外にあるまい。小さきものたちはそこよりそれの姿を見たとも」

 言葉を失う。

 思っていたよりも妖たちに情報は行き渡り、自身の過失だと知られている。

 唇を噛み締めて、きっ、と猿を挑むように見据える。

「確かに逃がしたのは俺だ。すまん!」

 はっきりと、いやに響く張りのある声で陰光は謝罪した。

 空気が固まった。

 剣の男は硬直している。

 大猿も大きい目をさらに大きく見開いている。

「だから今追ってる最中だし、蛇にも言われている。昨晩星が爆ぜたとか、異形が殺されたとか聞いたからここにきた。何かあるなら教えて欲しい」

 なにも衒(てら)いなく陰光は言い放つ。

 奇妙な空気がそこで停止する。けれども陰光は真っ直ぐに大猿を見据えたまま。

 剣の男はそっと剣を握る力を加える。

 と、からからと大猿は堰を切ったように笑いだした。

 それには陰光も男も目を丸くする。

「ここに来たのがわしでよかったな。人よ。容易にこちらのものに謝辞をするは誉められたものではない」

 嗄れた声はそれでも明るく笑ってみせる。

 黒々とした瞳が先程までの圧を失い、穏やかなものに変わっていた。

「気性の真っ直ぐさだけは誉めてはやれるが……術師ならば捨て置けよ」

 未だに喉の奥で笑いを含めている。

 そこまで笑うようなことか、と陰光は眉根を寄せて唇を尖らせた。

「逃がした事実を認めただけだ」

「まだまだ青いの。足を掬われるなよ」

 にやりと口端を吊り上げる。完全に敵意が消えた。

 巨体がのそりと動き、背を向けた。

「行方を追っているのだろう」

 一言。それだけで大猿は体を丸めて奥へと進み出した。

 陰光は男を振り返る。

 敵意は消えていたが、果たしてついていっていいものか。男も同じ考えか少し険しい顔をしていた。しかし、手掛かりを持っているのは確かに感じられる。

 陰光は一つ頷き、前を向いて大猿の後を追った。

 奥に進むほどに歩きがたくなる。一本一際高く大きく伸びた木を横目に草を捌きながらなんとか進む。大猿が巨体で助かった。見失うことがない。

 のそり、のそり。大猿はゆっくりとした足取りで歩みを進める。

 一番後ろの男はそっと背後を確認した。何者かの気配はない。回り込まれるようなことないと判断して前を歩く赤褐色の背に視線を投じる。夜闇の瞳は少し大きめに揺れる背を静かに映した。

 幾らか歩いただろうか。大猿が止まった。つられて二人も足を止める。

「行方の果てだ」

 言葉に陰光は一度止めた足を再び動かし、少し距離を置いて並んだ。

 少し開けた場所だった。草が倒れ、土が抉れている。妖気も他に比べると強く残っている。だが、残滓だ。思うより進みにくい奥まった場所にこの程度。

 確かに生半可なものたちでは見つけることはできないだろう。何よりも、空気が少し違う。

「境界を越えた先だ」

 察したのか大猿が答えた。

 境界。全く違うわけではない。同じ空の下に確かに在る。だが、人がまず入り込むことのない先だ。例えるならば薄い御簾(みす)一枚向こうだろうか。それならば余計に見つかるはずがない。

「此処であれは喰い、喰われた」

 陰光は大猿を見る。そこでようやく気付いた。腹がやたらと膨れている。

「幾つかが喰われたが、それでも数には勝てぬ。あれは我等が喰らい、最後に逃げようとした欠片も力及ばずと空にて爆ぜたのみ」

「喰ら、い?」

 何故か詰まる言葉。猿は省みることはなかった。

「喰らった。力を欲するものは人であれ妖であれ喰らい、その力を手に入れる」

 弱くては生きられない。そこまでのことはない。小さく弱くても生きる場所はある。だが、それでもより強く在りたいものたちは力を求める。

 生きる為でもあり、高みにありたい為でもあり、何かをまとめる為であったり。 様々な理由がそこにはある。時には深い冥がりに通じ、破滅を求めるものも。

 故に、力ある人が狙われることもある。そういったものから守り、退ける為に陰陽師などが存在する。

「だが……間違えたかもしれぬ」

 ぽつりと、猿は空を見上げたままに呟く。

 煌めく星と月は変わらずにそこにあり続ける。昨晩、そこに翡翠の光が咲いたのだ。

 緩やかに胸の奥で鐘が鳴り始める。

 ざわりと髪が揺れたような気がした。脳裏に広がる水面もざわめいている。

「無理をしてまで来たかいがあった」

 水面が揺れて、定まらない。

「術師よ。わしはお前がただ力任せに祓うだけの者なら喰っていた」

 大猿は告げる。

「だが、どうにも変わった真似をしてくれたから、お前に任せよう。お前を喰ったところで、わしにはどうやらどうにもできそうにない」

 ちらりと黒い瞳が陰光を見て笑う。そうして再び空を見上げた。

 突然の不穏な告白の果てに生まれた言葉の意味が分からない。何を言いたいのか分からない。

 けれど、嫌な予感が胸に巣食う。

「花が、あるんだ」

 嗄れた静かな声が闇に溶けていく。不思議なほどに優しい声色だった。

「花?」

「ああ、赤い花……好きでなぁ。もう朽ちる頃だから……それが惜しかった」

 猿は目を細めた。

 赤い花だ。赤い花は美しく、落ちれば一面が花に覆われる。毎年よく見ていたのだが老木となり、今年には根が朽ちるかと思われた。それが惜しかった。もう少し。もう少しと願った矢先だ。

「爆ぜたあれを、拾った」

 ぼこり。

 猿の腹が脈打った。

「あるいはとな……だが、間違いだっただろうな」

 ぼこり。

 膨れた腹が歪に伸びる。

「術師。お前の非ならば収めてくれ」

 ぼこり、ぼこり。

 脈打つ腹が絶えず蠢く。腹の中で暴れている。

「猿、お前、何をしたんだ?」

 思わず問う。問うが、その答えは既に成されていた。けれども口にせずにはいられなかった。

 大猿は緩やかに首を下げて見下ろした。

「すまぬな。名前は忘れた。好きだったのになぁ」

 愛しそうに目を細める。

 腹が、膨れる。本来の数倍になろうほどに。今にもはち切れそうなほどに。けれども大猿は苦痛を見せることなく、少しだけ悲しそうに笑っていた。

「忘れて……喰われてしもうた」

 ぶつり。

 鈍い音がした。次いで肉を引き裂く嫌な音と水音。そして、巨体の倒れ臥した音が鳴る。

 大猿の腹が爆ぜるように引き裂かれた。真っ赤な花を散らすような血飛沫の中から、中空に飛び出す一つの影。

 陰光は目を瞠った。

 猿の腹にいたとは思えない巨躯は毛の生えた牛のよう。曲がった角。醜いひきつれたような人面の口元からは牙が生え、蹄には鋭く長く伸びた爪。足の付け根には眼がある。

 あの日見た異形が血に塗れながら凄惨な形で産まれ出た。

「殺されたって……喰われたって」

 現れるはずのない存在に愕然としながら呟く。

 血に塗れた異形の四つの瞳が陰光を見下ろす。爛々と煌めく赤い瞳がその姿を正確に映すと、にたり、と嗤った。

 背筋に冷たいものが駆け抜ける。

 異形は醜い口を開き高く咆哮した。闇に響き渡るそれは葉を震わせ、空気を震わせ、陰光の鼓膜も強く震わせる。あまりのことに顔をしかめる。

 しかめた一瞬だけ視界を塞いだ。その一瞬後に異形は突進してきた。

 息を飲んだ。体が反応できない。

 途端、男が飛び付くようにして引き倒した。直後に異形はその地に抉り混むように突進していた。草が薙ぎ倒され、土が飛び散りながら抉れる。

 凄まじい音に心臓が冷える。

 危険なことは数えるほどだが過去にもあった。決して毎回楽な相手だったわけではない。それでもやはり、この異形はそれらと格段に違う。早鐘を打つ胸に眩暈さえも訪れる。

 そこに夜闇が降る。

 違う、瞳だ。

 男の瞳が陰光を見ていた。昼間に見せたような顔ではない。鋭くきつくなった目許。引き結ばれた唇。まるで別人のようだった。

 硬直する陰光を見て直ぐ様身体を起こし立ち上がる。俊敏な動きについていけずにいるが、その手が強く腕を引っ張りあげた。思うよりも強い。されるがままに身体が無理やり起こされるが、立ち上がるまでには至れない。

 男は一瞥を投げると背を向けた。

 その先にはあの異形がいる。土にまみれた角を払っている。

 一瞬前まで空だった男の手に銀の光が灯り、それが瞬く間に片刃の剣へと変じた。両手に召喚した双剣を握り締める。

 男は振り返らない。

 小さく身体を屈めた。

 刹那、矢の如く男は飛び出した。その勢いに草の葉が流れる。飛び出し、跳躍する。高く掲げた右手の刃が月の光に煌めき、振り下ろされる。狙うは首。しかし、それは到達する前に歪に曲がった角が阻止する。硬い音が短く鳴る。

 夜闇が鋭くその顔を睨み付けた。赤い輝きはそれを返す。

 左手を即座に回し、柄を逆手に持つ。右手は角を受けたまま、決して視線を反らすことなく、左の剣で異形の胴体を突き刺した。だがまだ浅い。

 異形は目を開き、苦痛に吼えながら暴れる。その勢いのままに弾き飛ばされた男は空中で身を捩り、着地する。

 ゆらりと立ち上がる男の目は静かに異形を見据える。片膝を軽く曲げ、左手を水平に据えた。右手は顔の横に。凛と構えられた姿からは闘気すら目に映るような気迫を感じられる。

 暴れ周り、痛苦と怒りに燃える異形が再び吼える。あらゆるものを震わせる強い咆哮。そうであっても男は揺るがずに立ち続けた。

 異形が土を掻く。男は軸足に力を込めた。

 同時に動いた。

 突進しながら咆哮する。咆哮は妖力を宿し、衝撃波となり男に放たれた。それに対して男は高く跳躍し、空へと逃げる。突き進む異形を見下ろすように避けて背後に立つ。そのまま横に走り出した。

 勢いのままに急旋回した異形は男を追い掛ける。

 攻防戦を茫然と見ていた陰光は気付いた。男が陰光から距離を取っていることに。 彼が囮になっている。

 唇を噛み締め、足を叱咤して立ち上がる。

 確かに頼れるとは思った。だが、ここまでさせるつもりはない。何よりも、自身で決めている。自身がやらかしたことを自身で片付けないでどうする。刀岐にも言ったのだ。してみせると。それを違えるつもりなど毛頭ない。

 強く地に足をつけ、懐から霊符を取り出し二本の指で構えた。

「ノウマク サンマンダバザラダン カン」

 息を大きく吸い、響かせるように強く唱える。

 霊符が仄かに赤く光を宿す。

「ノウマク サラバタタ ギャティビャク」

 真言を唱えながら睨み据える先は異形。男が対峙し、剣を振るっているが思うより機敏に動くせいでまだ致命傷を与えられない。

「サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケンギャキギャキ」

 眼前に据えた霊符に更に力が宿り、真っ直ぐに立ち上る。

 朽葉の瞳が逃がさぬように射る。

「サラバビギナン ウンタラタ カンマン!」

 唱え終わると霊符を異形に投じる。紙であるはずの符はまるで意思ある矢の如く駆け抜け、過たず異形の体に刺さるように張り付いた。瞬間、霊符は紅い閃光を放ち燃えあがる。紅い焔となり、異形の身体を舐めるように走り抜けていく。

 苦悶に異形が叫び、地に悶え転がり回る。

 その姿に男は身を引いて信じられないと言った様子を見せた。

「舐めるなよ。心構えさえしてたらできないことはない!」

 強く言いきり笑ってみせると、男は瞬いた後に同じように笑みを浮かべた。

 土を踏む音と荒い呼吸が二人の耳朶を打つ。

 異形がよろめきながらに立ち上がっていた。その身体は焼け焦げて煙が上がっている。肉の焼ける嫌な匂いまでも風に運ばれてきた。ぎらぎらと光る瞳は赤を深くして黒さも伴っている。

 唇が震えて、咆哮と妖力が放たれる。今までの一点集中ではない。全方位に向けた避けようのないものだ。

 即座に壁を作れないと両腕で庇う。強い力が全身に叩き付けられる。分散しただけ弱まっているとはいえ、吹き飛ばされそうな力だ。前に体重をかけるようにしてなんとか堪える。

 衝撃をやり過ごし、腕を解けば牙が迫っていた。

 息を止まった。そうだ。こいつは自身よりも余程俊敏だった。

 三度同じ過ちを繰り返したことを恥じ、身を固くした。

「――――っ!」

 声なき叫びが響く。

 閉じることもできない瞳が異形を見つめていた。その身体ががくりと傾いだ。牙が届かない。

 狭まった視野が広がり、理由を知る。異形の後ろ足、その付け根近くに剣が深々と刺さっていた。その背後に男の姿はない。

 男は残した剣を両手に持ち、跳躍していた。刃を横に、その視線が、刃が、落下する。夜闇の瞳がすぼまりある一点を見据える。真っ直ぐに落ちた先は異形の首。勢いと体重をつけた深い一撃が鈍い音と硬い音を立てて根本まで入り混む。幅広の刃は首のほとんどを裂き、切っ先が喉から表れた。

 異形が痙攣する。だが、倒れない。

 痙攣する身体で男を振り払おうとがむしゃらに暴れる。男も落とされまいと剣と角を掴み耐えている。その力で刃がさらに肉を裂いていくがそれでも暴れるのをやめない。

 陰光は柏手を打つ。

「拝(おろが)み奉(まつ)りて謹請(きんじょう)す」

 音が、言葉が広がる。

「禍(まが)きよ、邪(よこしま)なる霊よ、響きし音は神の御音」

 陰光の身の内から力が白い揺めきとなり立ち上る。

「これは一切を払う音霊言霊 祓い浄めたまえ!」

 足下から霊力が吹き上がり、手に集約する。その指先が刀印を結び、真っ向に異形を睨み付ける。

 瞬間、首の肉が耐えきれず裂け、男は剣共々振り落とされた。

 頭がだらりと傾いで、垂れ下がる。首の肉の大部分が裂けている。それでも落ちることなく、燃えるような殺意を宿した異形の二対の瞳が煌めいて禍々しい力を放ちながら陰光を射抜く。

 だが陰光は怯まない。

「臨兵闘者皆陣列在前!」

 襲いくる異形を前に裂帛の気合で素早く九字を描き、最後に斬り払う。それは九つの白い光の刃となり、異形の顔面に叩き付けられた。

 絶叫が迸る。

 白い刃が異形を切り裂き、清浄な力で飲み込み身体を祓い崩していく。尾を引く叫びが崩れる身体と比例して塵の如く消えていく。

 やがて光が終息する。

 眩い光は止み、変わらぬ夜闇の中に月と星の光が降るだけ。先ほどまで戦闘があったとは思えないほどの静寂が訪れた。

 禍々しい力はない。数呼吸を数えると陰光はその場に膝から崩れ落ちた。

 男は焦った様子で駆け寄る。項垂れる姿に片膝をつく。

「……」

「怖かったあぁぁ!」

 突然、顔を上げると陰光は叫んだ。

「いやいやあんな牙とかないだろ!がちんってやられたら頭が一発で砕かれるわ!不動明王符持ってきてよかった!噛まずに言えた偉いぞ俺!頑張った!俺頑張った!」

 今までの緊張感を吹き飛ばすかのように早口に感想と自身への労いを叫びに叫ぶ。鳶がいたならば喧しいとつつかれていただろう。

 その姿を眼前で見ていた男は虚をつかれて唖然としている。

 一頻り言い終えた陰光は不自然に固まる男をようやく視認する。数度瞬いてから手を伸ばし、戦闘で乱れてしまった頭を乱暴に一撫でする。

「お前もありがとうな。お前がいなかったら絶対死んでた」

 事実、先ほどの牙は男の投擲した剣がなければ間違いなく陰光に届いていた。それでなくても初めて出会った塗籠でも。異形が現れた直後も。男がいなければ助かってはいなかった。

 三度彼に救われた。しかし、それはそれで情けないような。

 その事実に気付き渋面を作る。

 ころころと表情を変える陰光に男は小さく笑う。

「……貴方が、無事ならば良いのです」

 穏やかな声がそう告げた。

「その無事を作ってくれたのがお前なんだよ。本当、命の恩人だ。感謝しかない」

「いえ……」

 恐縮したように身体を小さくするが、その顔は嬉しそうに綻んでいた。

 心穏やかにさせるような微笑みにつられそうになってから、はたりと違和感を覚えた。

 今、何か、とても重要なことが起きていたような。

 黙り込み、小さく首を傾げる。男も陰光の様子の違いに気付いて同じように傾げた。

「何か、ありましたか?」

 男はそう言った。

 唇を開き、その唇から音が紡がれた。幼さを感じる見た目に反して思うより少し低い、穏やかで優しげなゆったりした声色がその唇から溢れて落ちた。

 男が話している。

 見る間に驚愕と喜びに陰光の目は見開かれた。

「お前!話せるじゃないか!」

 ずいっと前のめりになりながら喜色を露にすれば、男も目を丸くした。

 その手がそっと喉元に触れる。指先が沿うように下りる。

「声……声が、出る」

 男も驚愕しながらもその表情を明るくしていった。

「やったじゃないか!でも……なんでだ?」

 思っていない事態に疑問が浮かぶ。

 男もそれには見当がつかないのか、しばらく思考する。後には眉尻を下げてしまった。

 陰光も考えてみるが何分声だ。全く持って予想も想像もつかない。原因不明。だが、声が出た。話すことができる。それは喜ぶべきことに他ならない。

 思いがけないことではあるがとりあえずこの事実は事実として受け取り、陰光は立ち上がる。

 身体が重く感じる。先程の術で普段使うはずもないほどの霊力を込めたのだ。それが原因だろう。霊力の使用は気力や体力も同時に削いでいく。軽く太股を叩き、気合いをいれる。

 衣についた土や塵を軽く叩き落とし、周りを今一度見渡す。

 多少の妖気は残るが、対峙した異形のものはもはや消える他ないほどに弱い。そう時間をおかずにこの地に漂う他の妖気に紛れて消え去るだろう。

 ここをわざわざ浄化するほどではない。何より、ここは境界の先。人間よりも妖たちの場所だ。人界側ならばまだしも、そこを浄化などしたら色々問題になるかもしれない。

 時のままに。それが一番だ。

 異形がいた場所にざっと視線を走らせる。

 夜の暗さと踏み倒された草。物を探すには向いてはいない。いないが、目につくものがあった。膝を折り、それを拾い上げる。

 爪の先ほどの大きさになった翡翠だ。最初に見掛けた、切っ掛けとなった封じの翡翠。あの場所になかった以上はと考えていたが、やはり異形と共にあった。

 禍々しい気配はない。もはやただの翡翠の欠片。そんなものが何故わざわざ異形と共にあったのか。

 異形は喰われた。その最期に放った光。そこで異形は死んだはずだった。

 しかし、異形を喰らったという猿の腹から産まれ、討ち倒された場所に残されたのは翡翠の欠片。

「……翡翠が要だった?」

 異形の核となるものとして翡翠を持っていった。

 そうであるならば塗籠から翡翠が無くなり、ここに欠片があるのも納得がいく。

 だが、あの翡翠は封じの為にあったようにしか思えない。翡翠の中に異形が封じられていれば陰光が触れたあの時に砕かれていたのではないだろうか。まして封じをしていたものを要にするわけがない。

 残された欠片を凝視しながら晴れない疑念に頭を痛める。

衣が引っ張られた。

 思考を打ち切り、省みると男が何処か悲しげな面差しで困惑していた。

「どうかしたか?」

「あの……大猿は」

 肩を揺らし、目を反らした。

 無視をしていたわけではない。もう、分かっているから見ないようにしていたのだ。

 男は瞳を揺らし、掴んでいた衣を離した。そしてゆっくりと背を向けると大猿の下へと歩いていった。

 大猿は仰向けに倒れていた。赤褐色の毛が赤黒く染まっていた。内側から破かれたような腹は無惨に広がり、腸が飛び散っている。その量が少ない。腹の中で既に異形に喰われていたのだ。大猿の様子から痛みはなかったのだろう。それでも喰らっていた。食われたはずなのに。

 更に近寄り、顔を覗き込む。苦痛の顔ではない。だが、諦めたような、悔いたような、物悲しい表情が遺されていた。うっすらと開かれた瞳は何も映さず、やがては濁るだろう。

 膝を折り、手を伸ばしてその瞼を下ろさせた。

 悼むように男は瞑目する。

 風が吹いた。風もまた、悼んでいるかのようだった。

 妖たちは人間と違う。

 冥府への道はない。人間で言うところの肉の器のない魂だけの存在である彼等は死すれば消滅する。僅かに残された妖力などが世界に還るだけ。

 あそこにある身体も人間の器とは違う。妖力の残滓に近しい。

 妖は死すれば何も残らない。

 それは冥府への道を閉ざした人間もだ。

 逞しくもあった小さな背を見つめ、陰光も静かに眼を伏せた。




 翌日。

 さらに奥の調査に入った検非違使たちは妙に荒れ、土の抉れた場所を見つけた。そこで本来よりも遥かに大きい猿の死体を発見する。

 その死体はまるで内側から爆ぜたような異様なもので、穢れがあるからと直ぐ様祓えの儀が執り行われた。

 星が爆ぜたのはこの猿に縁があったとして、事件はそのまま人の口の端から消えていった。

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