第6話

 弱弱しい月明かりが辺りを照らす。

 木々と高い草で周りは荒野の風景である。

 風が吹く。自然のものではない。

 葉が流れる。強い力が枝を折るほどに。

 声がする。それは怒りだ。

 数多の影が山野に現れた。

 その中心にあるのは牛のような影だ。

 影たちは呻く。

――立ち去れ

 しかし、牛は歪な嬰児の声で呻き、牙を向き、影たちに襲い掛かる。

 影たちが割れる。

 出遅れたものの首に牙が突き立てられた。それも即座に噛み潰され、千切れた部位がずるりと落ちる。

 僅かなどよめきが影たちに広がった。

 牛のような影が淡く煌めく。翡翠のような輝き。だがそれは暗く禍々しい闇を纏いどす黒く変質する。

 風が吹く。

 影たちは一斉に襲い掛かった。

 あらゆる音が空に落ちる。

 土を抉る音。葉を裂く音。硬いものがぶつかり合う音。肉を食らう音。張りつめたものが割れる音。

 あらゆる音が響く。

 苦悶につんざくような叫びが天空に伸びると、一つの光が中空に飛翔し――爆ぜた。




 朝から大内裏は大騒ぎだった。

 大内裏の南西で星が爆ぜた。

 それは宿直していた天文部や警護に回っていた者たちから報告が上がり、日も明け ぬうちから検非違使や京職たちがそこへと向かった。

 陰陽寮も始まりの鐘鼓と共に爆ぜただろう場所に何名かが派遣された。中には泰高も含まれている。

 残された者たちは本来の業務を回す為に仕事の割り振りが急遽行われ、明らかな人手不足にあらゆる部署から騒がしく声が上がる。陰光も空いた穴を埋める為に久々に雑務に追われていた。これが月末だったならさらなる惨状だっただろう。

 資料を抱えて渡殿を歩いていくと、別の部署の者たちとすれ違う。

「星が爆ぜたなど」

「不吉の兆しでなければよいが」

 耳に入ってきた不安な声に陰光の表情は固くなる。

 何が起きたのか。陰光はまだ詳細には知らされていない。

 丑の刻も半ば。突然南西の方角で光が爆ぜたらしい。時折聞こえてくれる噂話では淡い緑の閃光だとも。

 最初は雷ではないかと話が上がった。しかし、昨夜は綺麗な星月夜で雷神が気まぐれをおかしそうな様子はない。何より雷鳴が響かなかった。光を見た者たちは皆雷鳴の轟を聞いていないのだと。ならばあれは何ぞ。と陰陽師たちが派遣されたわけだ。

噂話にある淡い緑。それは翡翠の色ではなかったのか。

 陰光はそう睨んだ。あの時の異形は翡翠から現れた。その翡翠は見つかっていない。ならばもし光を放つなら翡翠の色ではないか。

 では、何故爆ぜた?

 そこが分からない。できるならば陰光自身が調査に参加したかったのだが、残念ながら選出されることはなくこうして気もそぞろに仕事に勤しんでいる。

 正直、ここまで大事になるとは全く思っていなかった。確かに逃がしたのは問題だ。何処ぞかの主にも指摘された。だが、それでもと、何処かで軽く考えていた。

 軽くとは少し違う。そもそも経験していない事態だ。だからこそ慎重にならなければならない。わざわざ正体を知ろうと書庫室に向かったのもそれが理由だ。それが裏目に出てしまった。

 唇を噛み締める。

 早く終わらないかと空を見上げる。日はそれなりに傾いてはいる。もうすぐ鐘鼓がなるかもしれない。

 遠くからざわめきが聞こえた。

 思わずそちらへと駆け出した。

 朱雀門の方から一団がやってきた。派遣されていた陰陽寮の者だ。中には泰高の姿が見える。道を歩き寮内に入っていく姿を見て、またも駆け出しかけた時、風が吹いた。腕の中の資料が存在を主張するようにバサバサと捲れる。

 舌打ち一つに、踵を返す。

 ここで放り出した日にはまた某かと煩くなり、時間を取られる。それは避けたかった。




 そうそうに資料を渡し終えて陰陽寮へと取って返す。

 鐘鼓が鳴り響く。終業の刻限だ。

 結局派遣された面々は一日調査に宛がわれたことになる。

 激しい足音を立てながら戻る途中で、妻戸から泰高が顔を出した。

「泰高!」

 名前を呼ぶと泰高も気付き、妻戸から離れ、簀子の隅へと移動する。そこに陰光も並ぶ。

「どうだった?」

 真剣な声に泰高は軽く肩を竦めた。

「場所は都の南西……右京の端も端だ」

 遷都の折りに都は画一化された美しく規則正しい区画でもって整備された。が、それは全てが全てではない。

 主に内裏へ続く朱雀大路。大内裏に出仕する貴族や官人たちの住む四条大路より北側はしっかりと整備された。庶民が住む四条大路南下も勿論区画整備はされているが、西市よりの南西は手付かずの荒野が存在する。道祖大路までは道はあるがそれ以降は立ち消えるようになされていない。

 都において切り取られた荒野なのだ。

 しかも、式占(ちょくせん)ではその付近という答えしか現れなかった。捜索範囲の広さと手の入らない自然も相まって余計に時間を労させる事になっていた。

「もう一度式占と。星ということから天文部で過去の記録を調べ直すことになっている。私も宿直の日をずらすように言われたよ」

 黙って聞いていた陰光はついと視線を外に向ける。

 周りには誰もいない。あまり人が通らない場所だ。それを確認する。

「妖気は」

 短く、小さく呟く。

「……私では判じられない」

 普段から人間の居住する場所であれば泰高でもある程度は妖気を読み取ることはできる。だが、そこは普段から人が入る場所ではない。そういうところには遷都前からこの土地にいた妖や神霊たちが存在する。人ならざる気配の方が濃いのだ。勿論それらは人に害を成すようなほどではない。あくまでも常との違い。昼の空気と夜の空気の違いのようなものだ。そうとなれば読み取ることは難しい。

「ただ、刀岐殿は何かあっただろうとは」

「刀岐殿が?」

「ああ。それでも何か、というだけだ。妖同士のいさかいの可能性も否定できないとか」

 うっすらと眉間に皺が寄る。

 なにかしらの乱れがあったとしてもそれがどこまでのものなのか。何が関わっているのか。

 単なる縄張り争いのようなこともあり得ないわけではない。そうであればさして憂うることもない。獣同士でもあるように。人間が政権争いをするように。どこにでもいさかいというものはある。

「縄張り争い……」

 険を孕んだ声が落ちる。

 昨夜現れた蛇はなんと言っていた?

――あれは災いと争いをもたらす。

 争いとはこの事なのか。だが、縄張り争い程度などさして警戒することでもないのではないのだろうか。それとも、それを成されるとさらなる大事に繋がる存在がいるのか。

 分からない。何も確証がないのだ。

 大きく息を吐き出す。

 やはり、一度現地を見るべきだ。異形の正体も気になるが、調べものは後回しにしてもいい。書物は逃げない。それよりも完全に痕跡が消える前に何かしらを見つけたい。

 そう予定を急遽変える。

「陰光自身は何か知らないのか?正直お前のことと関わりないとは思えない」

今度は泰高の方から問われて、そっと腕組みをする。

「素直に言おう。寝てた」

 きっぱりはっきり。

 泰高はがくりと身体を傾がせた。だが仕方がない。丑の刻など普通は寝ているものだ。目撃者も皆、仕事だから起きていただけに過ぎない。泰高も寝る前に星を見たが、やはりその時間は就寝していた。

 仕方ない。再びそう思い体勢を立て直す。

「なら、男の方は?」

 関わりが有りそうな件の男。なにかしらの進展があったのか。

「それなんだが、ちょっと厄介かもしれない」

「厄介?」

「忘れているみたいなんだ。自分のことを」

 泰高は目を見開く。

「……全てか?」

「多分な。名前も覚えてないらしい」

 気落ちした声色に泰高も真なのだろうと考えた。

 泰高も記憶のない魂だけの存在の危うさはわかっている。確かに厄介だ。魂が消滅する可能性もあるが、場合によっては暴走する危険性をある。肉の器を失い、記憶を失い、欠けたものを取り戻そうと襲い出す。怨霊の類いの成の果てだ。

 救いは剣に宿っていることか。それが器になっている。

「あいつもなんとかしてやりたいが……とりあえず、異形と星を優先する。こっちの方が実害出そうだし」

 今一度溜め息一つに陰光は向きを変える。

 資料は渡して一通りの仕事は終わらせている。帰っても問題無いはずだ。余計な事を言われないように鮮やかに足早に帰ればいい。一度邸に戻って、一応呪符とかを持ってそれから右京端へと急ごう。

「宿直とか言ってたが」

 首だけ泰高を向ける。

「ああ。今日は宿直に配された。突然だから一度家族に旨を伝えても構わないとも言われたからこれから一度帰るよ」

 泰高もそうして向きを変える。

 二人して陰陽寮内に一度顔だけして退出する。泰高はいつも通りだが、陰光は足早にそそくさと。声を掛けさせる隙を与えないように。

 足早に寮内を出て、朱雀門を目指す。

 通りすぎる官人たちからはやはり星の噂話が聞こえてきた。見掛けたものこそさしていたわけではないだろうに、不安が噂話を広げていく。それには余計なものがつき、遂には真実を押し隠してしまうかもしれない。

 人の言葉とは厄介だ。

 朱雀門を抜けて大路を二人歩いていく。昨日と違い、明るく、人通りもある。

「そうだ。男についてなんだが」

 陰光は声をあげる。

 先ほどまでの硬いものではなく、泰高は一瞬身構えた力を抜いた。

「すっごくいい子かもしれない」

「は?」

 突拍子もない発言に変な声で返してしまう。

「いやな。昨日帰ったらな。部屋は片付いてて、夕餉も用意してくれてて、使った書き物一式も気付いたらしまってくれてたんだよ」

 昨夜のことを思い出しながら陰光は首を縦に数度頷いているが、泰高は目を瞬かせている。

 陰光が言うのは剣に宿っているという男の話だ。そのはずなのに言っていることはまるで人間の家人のようなこと。いや、話を聞く限りは人間の男だから一応人間でいいはず。いいはずなのだが、既に亡くなった人間が家の事をしていたなんて聞いたことがない。そもそも霊が何故そんなことができる。でも干渉できる霊がいないわけではない。そちらなのかもしれない。が、何故わざわざあの惨事になり得る部屋を片付けた上に夕餉まで。いやいや、待て。霊が食事を作れるのか?

 泰高の頭は困惑を極めていた。それほどにあり得ないことだった。

 唯一あり得そうなことはある。あるが、それはないはずだ。いくらなんでも早いし、あってはならない。

「なぁ、陰光。まさかその男を式にしたとか言わないだろうな」

 陰光は陰陽師だ。陰陽師には式と呼ばれる術法がある。式、識神、式紙、式紙とも呼ばれるものだ。人や動物の形をした札に自身の霊力を込めて変化させ、意のままに命令を聞く駒使いとすることができる。ある程度の能力を有していれできなくはない。一定の力を越えていれば身の回りの世話を式にさせる者もいる。

 それとは別に妖怪変化などと契約なりを交わして使役する術もある。そういった存在もまた式と呼ぶ。彼の役行者(えんのぎょうしゃ)は鬼神を使役していたとも言われており、神にも通ずる存在にのみ式神とも称している。勿論、神を使役するなどそんな大層な真似ができる存在はいるわけがない。だからと言って、人間を使役するなどさらにあるわけがないのだ。

「はぁ!」

 まさかのことに陰光はすっとんきょうな大きな声をあげる。あまりに大きく、付近を歩いていた人々が二人を振り返った。慌てて泰高が口を塞ぎ、周りに頭を下げた。それを見て首を傾げていたり、なんなんだと言った不審の目を向けるものもいたが直ぐに平時のように大路の流れは戻った。

 それを見てから陰光は乱暴に手を剥がし、目尻を吊り上げる。

「そんなことするわけないだろ!相手は人間なんだぞ!」

 先ほどよりもだいぶ小さくなった声で憤慨する。

「あいつが自主的にやったことだよ。むしろ俺が驚いたくらいだ」

 不機嫌そうに眉間に皺を寄せる姿に泰高は安堵する。

 この友は時々とんでもないことを仕出かす。それは普通では考えられないこともしばしばだ。いくらなんでもとは思ったが、そうでないことに本当に安堵する。

「大体、死んでなお力がある奴。しかもこっちに留まるなんて怨霊くらいだ。怨霊を使役するなんて危ない真似する馬鹿なんかいないし、あいつはそっちの力が強くもない」

 腕を組み、止まっていた足取りを進める。泰高も追いかけるように歩き出す。

「なら、なんだと思う?」

 力も強くもない人間の魂。それが剣に宿っているというのはまずないことだ。

「分かったらよかったけど、本人が忘れてるからなぁ」

 肩を竦めて見せる。

 ふと視界の隅に入る建物に気付いた。築地塀(ついじべい)に囲まれた大きい邸だ。大内裏の横という立地は貴族の中でも殿上人や上流貴族などが多い。

 陰光の視線を追い掛けた泰高はそれが誰の邸か直ぐに理解した。

「小野殿の邸だな。陰光は縁があったな」

「どういうわけだがな。俺には過ぎてる」

 元服の折り陰光の加冠役(かかんやく)を担い、何かと世話を焼いて貰っている。

その理由は母の遠縁に当たるからというらしいが、その母もよく分からなかった。祖父母が亡くなって、親戚筋もおらず、橘の北の方にもなれなかった母に身寄りはなかったはずだった。が、その小野は突然邸にやってきて遠縁であると話した上で加冠役をやろうと押し掛けてきたのだ。

 当時は母も陰光も唖然としていたが、色々あって押し切られた。

 身に覚えのない縁ではあったが、将来を考えればその後ろ楯は陰光にはありがたかった。

 当時は刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)。今は参議の地位。内裏に登れる殿上人という本来ならば雲の上の存在が後見人なのだ。下手なことをせず真面目に過ごせば将来安泰間違いなしとも言える。

 そんな人は時折文を送ってくれることはあったが、身分の違いや病などで会うことはなかった。

 その小野には一つの噂があった。

 歩きながら見ていた邸から視線を外して前を見る。

 昨晩出した式文はこの邸に届いている。病状にも寄るが、読まれているはずだ。

「陰光。まさか小野殿に?」

 泰高が声を潜める。そこまでしなくても誰かに聞かれることはないだろうが、一応だろう。

「文は出した。何せ専門家だ」

「……冥府の補佐官殿か」

 そっと泰高は呟く。

 小野とは参議小野篁(おののたかむら)のことだ。若かりし頃、彼は夜には冥府にて閻魔大王の補佐をしているなどと噂があった。

 噂ではある。だが、陰光は知っている。それが真であると。だからこそ文を出したのだ。死者の扱いならば彼が適任だ。

 問題は男がその範囲にいるのか。高科の話を聞く限り、剣が保管されていただけでも相当時間が経っている。そうなれば男が死んだのはそれより前になる。

 百年以上時間が過ぎ去っていたとしてもわかることなのか。

 分かるならばそれに越したことはない。あるべき道に向かうべきだ。例え記憶がなくとも道を歩けるはず。

 ついと目を細める。

「未練があるから残ったのになぁ」

 やるせなく吐き出す。

 道を背いて、剣に身を寄せてしまうほどの何かがあった。それが分からないとは虚しい。むしろ、あれこそが成れの果ての一つなのだろうか。

 思案していると泰高が小さく唸った。

「唐渡りの品の中にあった、だよな?」

 泰高の確認に首肯する。

「お前の家、確か漢詩の書物が結構あったよな」

 再び首肯する。

「漢詩を見せたら案外何か思い出したりしないか?」

「あ」

 一音を溢し、泰高を見る。口はその音のまま開かれている。

「または大陸縁の何か。本人に直接関わりなくても近しいものなら案外なんとかなるかもしれない」

 そうでなくても男は色々なことができている。文字まで読める。完全に忘れてしまっているわけでないのなら些細なきっかけで記憶を辿ることができるかもしれない。

忘れていることしか頭の中に無かった。

 思考の死角に追いやっていたことに陰光は苦虫を噛み潰したような顔をする。

 その様子に泰高が背中を軽く叩く。

「そんなこともある」

 昨晩と同じように二条大路を左に曲がり、南下していく。日々の変わらない道のりだ。その真っ直ぐに伸びた遥か先。そこにあの現場がある。

 一瞬だけ睨み据える。

 そこに一瞬、影が落ちた。次いで高く伸びる鳴き声。

 二人が空を仰ぐ。

 蒼天に一つの影がある。煩わしく羽ばたくこともなく、体躯より大きな褐色の翼を自由に伸ばし、大きく旋回している。鳶だ。

 鳶は数度旋回すると降下してきた。陰光目掛けて。

「へ?」

 思わず顔をひきつらせる。鷹や鷲でないにしろ猛禽の爪は危険だ。そんな爪を備えた鳶が真っ直ぐに滑空している。恐ろしいほどの速さに逃げ出そうと思った頃には遅かった。

 金の瞳とかち合う。

 と、陰光の頭上を掠めていった。風を切る音が真上で聞こえ、残された風が顔を叩く。思わず目を閉じると上空からまた鳴き声が響いた。

 なんなんだと頭を振ってからはたりと目を開ける。なんだか違和感がある。瞬かせていると泰高がついと空を指差した。つられて顔を上げる。

 蒼天に飛翔した鳶がいる。その足に何かがある。くたりと風のままに折れた黒いもの。

 察して陰光は頭部に手をやる。あるはずの烏帽子がない。

 つまりは、あれは陰光の烏帽子だ。

 数呼吸分呆然と固まり沈黙する。

 突然、猛然と走り出した。

 一切何も言わず。泰高を置き去りして。

 もはや砂埃を立てそうな勢いで遠退く背中を見送りながら、ぽつりと泰高は呟いた。

「忙しいな、あいつ」




 邸の上で数回。鳶は旋回すると烏帽子を落とした。

 多少風に流されるが敷地内の木の枝に着地する。それを確認してから鳶は再び旋回する。

 鳥影を猛然と追い掛けていた陰光は一切躊躇なく、流れるような動作で門扉を開き、帰邸を果たす。その足は勢いそのままに庭へと向かい、急停止。きっ、と空を見上げる。

「こらあぁぁ!」

 開口一番大音声。葉がざわついたような気さえ起こすほどだ。

 その先は旋回する鳶。

「なんのつもりだ!こんの盗人(ぬすっと)!」

「お前の帰りが遅いのが悪いんだよー!」

 鳶も負けずと大音声で返す。ちなみに旋回したままなのは結界がまだあるからだ。流石に三度も事故には合わない。

「ほぼ定刻だ!降りてこい!」

「結界があるんだろうが戯け!」

 怒鳴り合う二人。鳶の声は常人には聞こえないにしろ近所迷惑甚だしい。

 陰光は舌打ち一つに手を広げ、怒りのままに手を叩く。何時もより強い張りのある音が響くと結界は歪み、溶けるように壁は消え去った。それを確認すると鳶は降下し、高欄に舞い降りた。

 金の目がじとりと据わっている。

「全く、人に頼み事をしておきながらこの仕打ちとは嘆かわしい」

「人じゃなくて化生だろうが」

「揚げ足を取るな!または妖と書いて人と読む気持ちでいろ!」

「そんな地味に面倒な処理を頭でさせるな!」

 視線の高さが低くなっても行われる口喧嘩。そんな二人の間に緩やかに歩いてきたものがいた。

 剣の男だ。

 男は二人のちょうど真ん中辺りに立つと緩慢な動きで交互に見る。と、指先を唇に宛がった。静かに、と仕草が告げる。その動きがまた緩やかなものだから二人は沈黙した。

 なんというか、毒気を抜かれる。

 合わせるつもりもないのに溜め息が二つ落ちる。

 男は落ち着いたのを確認してから陰光に歩み寄り、袂を軽く引っ張る。

 陰光が視線を上げると、男の手には烏帽子があった。口喧嘩をしている間に拾ってきてくれたのだ。

「ありがとう。お前本当に気が利くなぁ」

 烏帽子を受け取り、被ろうかと悩んでからやめた。被るにしろ着替えを済ませてからの方がいい。

 男は嬉しそうに微笑みながら一礼する。

 男には自身に関する記憶はない。が、こういった動作は生前から染み付いたものなのだろうか。どれ程に自我を失っても生前の習慣を続ける霊もいる。そういった類のものか。そうであるなら、男は生前何者だったのだろうか。

 じっと男を見つめながら考え込んでいる。それには男も眉尻を下げて困り顔だ。

「おい、こっちを無視するな」

 甲高い鳶の声がどすをきかせる。元々が甲高いせいで凄みをきかせてもあまり怖くはない。鳶の眼光がなければ。

 仕方なしに陰光は鳶に視線を移して歩み寄る。男も従うように後ろからついていく。

「それで、なんでまた盗人なんかしたんだ」

「だからお前が遅いからだ。折角吉報を運んできてやろうと来たというのに」

およよと泣き真似までしそうな態度にまた声を荒げそうになるのを堪える。

「吉報?」

 怪訝に返すと大きく頷き、片翼を広げる。

「話していた変なやつ。あれ、殺されたぞ」

 陰光は瞠目した。

 今なんと言った?殺された?

 予想し得ない言葉に驚愕しながら詳細を求める。

「やはり異物だからな。それで、この都が出来て五十か六十程度。縄張り争いも最近落ち着いたところでもあったし。しかも話し合いもできないからと都の妖たちが袋叩きにしたそうだ」

 緊迫した気持ちとは裏腹に袋叩きと言うとんでもな単語が飛び出すが気にしてはいられなかった。

 あの異形は都の妖たちが殺した。

「最後に光を放ったがあれが最期だったとも。流石に普通の人間にも見えていたのか今朝から騒がしかったな」

 最期の光。やはり、星が爆ぜたという話は異形のものだったのだ。

 そうであるならば陰光の探す対象は失われた。これ以上は心配もないはずだ。

 だが、何か引っ掛かる。

 本当にこんなあっさりと終わっているのか。昨晩、わざわざ蛇が指摘したというのに、こんな形で終わるようなことなのか。

 心に引っ掛かる疑念が渦を巻く。それは直ぐに晴れるようなものではない。

 陰光は急ぎ足に室内に入ろうと玄関へと向かう。男も変わらずに後ろを追い掛けてきた。

 玄関に入り、沓を乱暴に脱ぎ捨てると廊を過ぎて、開かれたままの妻戸を抜けて自室に入る。換気をしていたのか半蔀(はじとみ)はあげられ、簀子への妻戸も解放されていた。

 そこを通ったのだろう。鳶は器用に几帳に留まっている。

 手にしていた烏帽子を文机に投げ、直衣を脱ぐ。唐櫃を開けて、狩衣を引っ張り出す。その後ろで男が脱ぎ捨てられた直衣を拾って畳んでいく。

 鳶がなんとも言えない顔をしながら陰光を見る。

「なぁ、何考えてるんだ」

「今からその場所に行く」

 合わせの紐を括り、乱れた髪を直そうと一度髷を解いた。腰まで届かないが長い髪だ。流石に邪魔だと前髪は目元にかかる程度をざっくりと手早くまとめ直す。正直髷まで作るのは面倒だが、やらないわけにはいかない。烏帽子がまた吹き飛ぶようなら置いていきたいが。

「俺が教えただろ」

 羽繕いをしながら見るともなしに鳶は続ける。

「気になる。それに居所を知りたかったんだ。お前に頼んだこと自体はもう十分すぎるくらいだ」

 居所どころか死亡報告だ。予想外なところだが、動きようのない目的地が生まれた。疑念も気になって仕方がない。そうとなればそこを当たらずして何処へ迎えというのか。

 着々と準備を進める陰光に鳶は上げられた半蔀から空を見上げる。天頂は遠に過ぎているが日が暮れるにはまだ時間はある。

「なぁ」

 鳶は一声掛ける。

 陰光は答えなかったが、先を促している気配はあった。

「検非違使とかいるのに行くのか?」

 途端、陰光の動きは止まった。

 その様に鳶はありもしない肩を竦めてみせる。

 陰光は陰陽師だ。だが肩書きは陰陽生。一介の陰陽生が都を騒がせた事件現場に突然押し掛けたとして入れて貰えるわけがない。いや、陰光ならば案外可能かもしれないが可能性は非常に低い。さらにこれが知られれば根も葉もない噂などたてられ面倒なことになるのは必至。今行くのは得策ではない。

 深々と溜め息を吐き出すと、陰光は手にしていた数珠を唐櫃に戻した。

「夜なら流石に人もいなくなるか」

 大内裏ではない都の外れだ。こんな状況だろうがまず人の入らない場所にわざわざ人を配置することはない。今いるだろう検非違使も昼間だけで、夕刻になれば撤収するはずだ。

 動くなら日が暮れてから。

 身の安全を優先するなら日のあるうちだが致し方無い。

 別に昼間でも何かしら起きる時は起きる。妖たちは皆が皆夜に動くわけではないのだから。

 色々諦めて、少々手隙になった時間を考える。これならば書庫室に籠ってもよかったな。と埒もないことを思う。

「さっき」

 鳶が嘴を開く。

「俺の情報を十分だと。十分過ぎると言ったな」

 唐櫃の蓋を閉めてからやおら振り返り、顔をしかめる。

「だからなんだ?」

 何が言いたいのかわからない。

 肯定を含む返しに鳶の金の瞳が煌めく。

「ならば、対価もそれに準じなくてはなぁ?」

 にやりと、まさにそう言った様子で笑う。

 言葉もなくぽかんと口を開ける陰光。それからゆっくりと額に手をやり、空を仰いだ。

 下手なことを言ってしまった。

 自身の不用意な発言を後悔する陰光。それをおかしそうに鳶は笑いながら翼を軽く打つ。

「口には気を付けることだな」

 全くその通りだ。反論の余地もない。

 妖にしろ人間にしろ、言葉というのは慎重にならなければならない。変な言葉で揚げ足を掬われては身の破滅にもなりかねない。

 正直、陰光はそういったものは嫌いな部類だ。だが真っ向勝負で許されるような世界でもない。人間を誑かす妖も、謀略を企てる人間も世の中にはたくさんいるのだから。今回はそこまで大事になるようなことではないよかったが、やはり気を付けなけ ればならない。

 息を吐きながら視線を鳶に向ける。

「んで、どうしろと?」

「話が早い。なに、果実の種類をちと増やしてくれる程度でいいぞ」

 満足そうに鳶は言う。

 構えていたものよりも些細な追加に拍子抜けだ。てっきりあるもの全てとか、魚とかもと増やされるかと思っていた。それをうっかり口にすればそうなりそうなので黙ってはおくが。

 こめかみを軽く掻く。

「それくらいなら」

「よしよし。なら今から買いに行くか」

「はぁ!」

 ばさりと両翼を広げて促す鳶に返したのは驚きの声だ。

「なんだ?問題でも?それとも反故するつもりか」

「いや、問題も何も」

 此処から近いのは西の市だ。片道半刻は掛からなくても四半刻はかかる。何より、ついた頃には終わりがけで店も畳みはじめている。物がない可能性もある。そんな無駄足にはなりたくない。

「飛べばいいだろ」

「飛べるか!」

 事も無げに言う鳶に思わず返す。

 飛べる人間がいたら見てみたいものだ。いや、やはり怖いか。

 一瞬考えた思考を即座に両断し、円座を引っ張り出して座り込む。よくよく考えれば途中から走って帰って来た。今更ながらに疲労がどっとやってきた。

「不便だなぁ。お前もそう思わないか?」

 大人しく片隅に座していた男に話を振る。

 陰光の死角にいたこともあり、その存在をすっかり忘れていた。

 男は数度ゆっくりと瞬くが、最後には小さく首を傾げるだけだった。その仕草に鳶はかくりと頭を落とす。

「なんか……ゆったりだな」

 半眼になりながら呟く。

 そういえば漢詩を出してやらないと、と陰光は思い出した。漢詩は全て塗籠にしまってある。

 まだ立ち上がるには億劫だ。もう少し休んでからにしようと直ぐ様行動を諦めた。

「そういえば、結局こいつは何なんだ?」

 ばさりと几帳から離れ、床に降りた鳶はついと男を指す。

 それに陰光は気だるそうにしながらも身体を向けた。

 鳶は男の記憶が無いことが判明してからやってきて、見た目で分かる程度の話しかしていないとようやく思い出す。面倒だが、隠す理由はない。しかも男は話せない。 ならば陰光しかいない。

 簡単にだが、異形と同じところにいたこと。記憶がないことを説明する。

 すると鳶の金の瞳が呆れの色を映した。

「お前、よくもそんな得体の知れないやつを拾ってきたな」

 似たようなことを泰高にも言われたなと頭を掻く。

「でも、これだぞ?何も問題ないどころか気が利いてとてもいい子だ」

 未だ片隅で座している男を目で示す。

 片付けが出来て、料理もできて、言わなくても率先して動き、静かに控える。静かなのは話せないだけかもしれないが、様子から見るとお喋りのようには見えないからやはり静かだろうと決めつける。改めて並べるとあまりに有能だ。有能過ぎる。

「それは結果論だろうに」

 やれやれと首を動かす鳶に、陰光は胡座をかいた膝に肘をついて頬杖までついた。

「瞬時に見抜いた陰陽師の目とは思わないのか?」

「お前じゃ思えない」

 不満そうに訴えればばっさり一刀される。

 深く嘆息してから一度膝を叩く。ようやく少しは回復したので漢詩を取りに行こうと気合いの一発だ。少々強すぎて痛いが立ち上がる。

 それに習うように男も腰を浮かせるのが見えて手で制した。

「ちょっと取ってくるだけだからそこにいろ」

 男は小さく頷き、腰を下ろした。聞き分けもいい。

 妻戸を開き、廊に向かう。塗籠は隣だ。しかも漢詩はほとんど触ることがないから変動がない。年明け前の掃除の記憶のままのはずだ。

 塗籠の戸を開く。埃臭いかと思えばそんなことはなかった。昨晩も入ったが気にならなかった。ここにも風を通したようだ。しかも、まとめて置いていただけの書物も棚に返されている。もはや舌を巻くほどだ。

「いい子だなぁ」

 ぼそりと呟きながら記憶の場所に視線を滑らせる。漢詩系列は代わりなくそこにあった。

 どうするか考えたがとりあえず一冊。手近にある詩経を取り出す。五経の一つ。教養としても用いられる基本的なものだ。これなら基礎的で、何かしら引っ掛かるかもしれない。

 それだけを持ち、自室へと戻れば鳶がなにやら男と話していた。

「だから、あんな男に甲斐甲斐しくしてやる必要はないぞ」

 間違いなくあらぬことを吹き込んでいる。

 じと目になり、早足に近付くと軽く蹴る。鳶がばたりと倒れて呻くが気にすることなく男に書物を差し出した。

「ほら、これ読んでみてくれ」

 目の前のやり取りからの書物に男はぱちくりと瞬きを繰り返す。

「大陸の書物だ。もしかしたら何か思い出せるかもしれないだろ」

 またも男は瞬いてから差し出された書物を受け取り、頭を下げる。まだ何処か戸惑ったような様子をみせる。その視線がちらりと鳶に向かっているのでそれが原因らしい。

「大丈夫だ。これくらいでどうにかなる奴じゃない」

「どうにかならなくてもやるな」

 じとりとねめつけてくるがそんなものは痛くも痒くもない。

 鳶を無視して膝を折り、視線を合わせる。夜闇の瞳はまだ困惑の色を残していた。

「それにないなら他のも読んでみてくれ。うちには漢詩は結構あるから、どこかしらにお前の記憶に繋がるものがあるかもしれない」

 安心させるように陰光は笑う。

「ゆっくり探して行こうな。お前のこと」

 男の目が見開かれる。ひどく驚いたような様子だったがそれは緩やかに変わり、花が香るような嬉しそうな笑みに変わった。

 陰光もさらに笑みを深めて、その頭を撫でる。柔らかな黒髪は気持ちがいい。男も嫌ではないのかにこにこと笑っている。

「……親睦を深めたでいいのか?」

 ほったらかしにされた鳶はぽつりと呟いた。


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