第5話
泰高と別れ、陰光は一人自邸に帰って来た。
貴族の中では敷地は小さい方だ。遣り水や井戸はあるが、池などもなく、本殿が一つだけだ。それでも一人で住むには広い。
門を潜り、玄関へと進む。
戸を開き、中に入ればまだ小綺麗な土間が広がる。流石にここは汚くできない。
沓を脱いで、自室に向かう。
小さく床の軋む音がする。廊の中は暗いが夜目のきく方であるから気になるようなことはない。
妻戸を開ける。
そして、閉めた。
一度首を傾げる。なんだか見慣れない。
もう一度開ける。
床が見える。当たり前だ。当たり前のはずなのだが、残念ながら陰光の中ではそうではない。
記憶にある限り、書物やら料紙やらがそこらに広がっていた。先日ちょっと引っ掻けて袖がとれかけた狩り衣なんかも確か隅っこに放っていたし、なんなら筆や硯なども机に出したままだ。
つらつらと思い返して改めて自室の惨状があれだったのだと突きつけられる。
が、それが何故か今は綺麗になっていた。書物は片隅に綺麗に鎮座し、料紙も整えられて山を作り、机で幅をきかせていた筆と硯もない。
気のせいなければ長らくそのままにしていた几帳も綺麗な気がする上に風通しもよく、空気の籠った感じもしない。
見違えた部屋。そこに風が通る。
簀子に続く妻戸に人影があった。
片膝をついて頭を垂れる男が一人。中ではなく簀子側にいる。
「お前が、やったのか?」
問えば小さく首肯する。
男は片手に何かを持って立ち上がり陰光に差し出した。見ればとれかけていた狩り衣だ。だが、その部位は縫われている。
目を見開き、衣を広げる。少しほつれかけていたところもしっかり縫い直されていた。
ふるふると手が震える。
男は不安そうに身を一歩退く。
と、陰光はがしりと男の肩を掴んだ。
「お前すごいな!ありがとう!」
きらきらと目を輝かせ、大きい声で礼を述べた。その瞳は尊敬と感謝が色濃く映っている。
声に驚き、何度も瞬く男。そうしてからふわりと柔らかに、嬉しそうに微笑んでみせた。
「朝まであんなに酷かったのに、本当に綺麗に……しかも衣まで繕えるとか。お前すごすぎるだろ」
改めて室内を見回せば茵も整えられている。ここまで綺麗なのは年前の掃除以来だ。
感動していると袖を引かれた。
何かと振り返ると男はある箇所を指差す。書物のところだ。
「なんだ?」
聞いてみるが、男はやはり口を開かない。
ただ袖を引っ張り、書物の前に連れていこうとする。大人しく従い、鎮座する書物の前に立つ。
書物はやはり綺麗に巻事に並べて纏められている。
それを指差し、男は小さく首を傾げる。
何が言いたいのか。なんとか意を汲もうと試みる。が、その動作だけではなんとも分からない。
男も困った顔をしてから、ふっと、視線を巡らせるとある場所を指差す。それを追うと部屋の隅に並ぶ二階厨子がある。そこには文台と巻物がいくつか置かれている。 長らく広げていなかったものだ。そこでふと思う。
「もしかして、ここに置いてよかったかってことか?」
男は数度頷いた。
巻物は動かした形跡がなかったからあそこが置き場なのだと予想したのだろう。だが、その付近に書物を置ける場所なかった。だから戻すところが分からなかったのだ。そこで仮置き場としてここに積んだ。
書物は塗籠から引っ張り出してきたもので、本来しまう場所が部屋にはない。
悩ませてしまった。申し訳ない気持ちになる。
昔は唯一の同居人だった乳母が片付けてくれていた。だが、書物などの在処は乳母の方がよく知っていたので迷うことなどなかった。
誰かにさせてしまうというのはこうも罪悪感が生まれるものなのか。染々と感じる。
それを男はじっと見ていた。何かするでもなく、訴えるような様子もなく。ただ大人しく見ている。
陰光も気付いて見返す。
視線が合う。互いに反らすことなく数拍。
「そういえば、結局お前はなんなんだ?」
今一度その疑問に返った。
しかし、男は瞬くが首を傾げるだけで答えようとはしない。そもそも口を開いてもくれないのだ。
陰光は一度腕を組み、しばし考える。
ぐぅ。と低い気の抜ける音がした。
男の視線がゆっくりと音の出所を見る。陰光の腹だ。
陰光は一切動くことなく思った。
まだ夕餉を食べていない。
先ほど帰って来たばかりだから当然ではある。
くすり、と小さく笑う声が聞こえる。男のものだ。
男は可笑しそうに小さく笑ってから陰光の手を引いた。
何処に行くか察してから陰光はまさかと、思った。
いや、まさか。そこまではなぁ。
と内心で呟きながら男の好きなようにさせた。
まさか。そこまではなぁ。
が、あった。
男は料理までできた。いつ用意したのか、汁物と強飯が作られていた。冷めてしまっていたが、陰光が作るよりも幾分も美味しくなんだかほろりと泣きそうになってしまった。
昨年年老いた乳母が儚くなり、一人暮らしを初めてもう一年に近くなる。何をやるにも一人だ。一応乳母(めのと)が何かあってはと多少なりとも色々手解きはしてくれたが、やはり得手不得手がある。強飯など蒸しの時間が未だに分からなくて固かったり柔らかすぎたりと苦戦の日々だ。
片付いた部屋に美味しい夕餉。なんと贅沢なことか。
噛み締めながら夕餉を喰らい、今は自室で落ち着いている。直衣も脱いで烏帽子を取り、一応狩り衣を纏っている。
男は食器など片付けているところで今はいない。
本当に綺麗になった部屋を見回し、広げていた書物を片付けようと手に取る。
書物は呪術書や記紀だ。呪術書は直丁時代にこっそり写したもので、記紀は邸に元からあったものだ。
この邸は母方のもので、祖父母は陰光が生まれる前に亡くなっていると聞いた。実はそれなりにちゃんとした血筋ではあったらしく、遡れば宮家にも辿り着くとも。ただそれを記したものは遷都の折りに無くしてしまったらしい。
だが、それは正しいのか、自身の身分に対してまずないような蔵書がある。残念ながらそれは歌や漢詩に関するもので呪術に関するものはない。それでも書の習いには十分で、陰光の性格に対して書だけは上手かった。そちらの道に行けばよかったのでは、とは数度言われたこともある。
まだ読み直していない呪術書だけを残し、塗籠へと書物に片付けるとちょうど男も戻ってきた。
「ありがとうな」
再度礼を述べると男は一礼する。
所作は綺麗だ。昨晩ぼんやりと頼りなげなところはやはり寝惚けていたのかもしれない。それくらいに男は佇まいや所作は美しくきっちりとしているところがある。本当に何者なのだろうか。
ちょいちょいと指で男を招く。それに疑うことなく従う。そのまま部屋に伴い、隅っこに重なっていた円座を二つ用意して座るように促す。
しかし、男は戸惑った様子を見せた。
「いいから、ちょっと話があるから、な?」
それには眉を下げて渋々といった体で座った。何がそんなに戸惑わせることだったのか。分からないが一度横に置いておくことにする。
陰光ももう一つの円座に座り、向かい合わせになる。
男は小さく首を傾げる。美しい所作を見せるのだが、こういったところは幼子のようにも思えた。
「えーっと、まず。ちょっと確認するから素直に答えてくれ」
男はこくりと頷いた。
「俺が言ってることは分かるんだよな?」
再び頷いた。
「話せないのか?」
それには少し悩んだ様子を見せて頷いた。
「……話せない理由は分かるか?」
今度は横に振られた。
話せない理由が分からない。病ではないのかもしれない。ともすれば、眠っていた間に話すことができなくなってしまった可能性もある。まだ分からないが。
「名前は……って話せないから無理か」
頷いて分かるようなものではない。だが、男の表情が曇った。夜闇の瞳揺れる。
それは何を意味しているのか。名乗れない事情があるのか。だが、そうとは思えない。
何かを伝えたそうに小さく唇が開く。だが、音にはならない。微かに息が漏れていくだけで。その事実と何かで悲しげに寄せられた眉根が痛ましい。
なんとか察してやれないかと思考する。口で伝えられないなら何か。
はたり、と思いつき文台を指差す。
「字は書けるか?」
言葉が通じるならば文字でもやりとりができるのではないか。そう思い付いたが、男は数拍の後に否定を示した。
文字が書けない。
しかし、男は書物を分けて並べていた。読めないわけではない。そこに思い当たり、急いで書物を一冊持ち出し、男の前の床に広げた。
「文字は読めるな?」
また数拍の間があったか今度は頷いた。
「それなら書物の中から文字を選んでくれ。それならなんとかなる」
ようやく意志疎通の手段を見つけて嬉々とする陰光。それに反して男の表情は暗かった。それには怪訝に眉をしかめる。
男は前のめりになりながら広げられた書物に目を通す。さらさらと視線が文字を追う。その中の一つを指差した。“不”だった。次に指が示したのは“明”。そこで指は止まり、紙が捲られる。探している文字が無かったらしい。もう一度捲られる。そこにはあったらしく指がある文字を指した。“白”。そこで男は顔を上げた。それで終わりらしい。
“不明白”。
「分からない?」
漢文ではあったがその意味が分かりすぐに聞き返した。
男は力なく頷いて、また書物を見つめて文字を指し示した。
“不”。“能”。“想”。“起”。
“不能想起”。
「思い、出せない?」
嫌な予感に言葉が詰まった。
男は尚も指し示す。だが、今度はたった一つの文字だけ。
“忘”。
それ以外を指し示すことはなかった。
「忘れた……」
呆然とした声で呟き、男を見る。
男は申し訳なさそうにしながらゆっくりと頷いた。
「料理だって、片付けも……文字だって分かるのにか?」
あれだけのことができるのに、覚えていない。信じられなかったが、男は本当に申し訳なさそうにしながら頷くだけ。
「……名前もか?」
肩を揺れる。柔らかそうな髪もまた揺れた。
そうして動き出した指先が先ほどと同じ一文字を示した。
“忘”。
陰光は急に力が抜けたような感覚に襲われた。
自身に関するほとんどを男は忘れてしまっているという。
手掛かりが云々の話ではない。
見る限り男は人間だ。死んだ人間の魂。それが何か理由があってこの剣に宿ってしまった。その魂に記憶がない。見立てが間違ってなければ男の霊力は特段強くなどない。霊力の強くもない人間の魂。それが長く存在を保つことは難しい。まして自分たらしめる記憶を失っている。今までは眠っていたから大丈夫だったのかもしれない。 しかし、このまま記憶を失ったまま放置すればやがては自我を失い、在処を失い、魂が消滅する可能性がある。または妖に喰われてしまう。それは阻止しなければならない。
こうして出会った存在を放っておくことなど陰光にはできなかった。
がしがしと頭を掻く。髷が崩れるが別に構いはしない。
そもそも、何故男は剣に宿っているのか。人間は死後冥府に向かうはずだ。強い未練があればそこへの道行きを見出だせずに彷徨うことはあるが。そうとなれば男は剣に纏わる未練を抱いていた。だが、それもきっと覚えてはいない。
「冥府……」
小さく呟く。と、陰光は立ち上がった。
そうして二階厨子に移動された文台を引っ張り出した。
「悪い、水汲んできてもらっていいか?」
小さな水差しを男に向ける。それを受け取ると男は足音もなく部屋を出ていった。
その間に筆と硯。料紙を用意する。
一つ宛がある。しかし、あまり頼りにしたくはなかった。相手は昨年まで病に臥せ、今も臥せっており参内していない。老人と呼ぶには少し早いが、お年もそれなりに召されている。何より、そこまで深い関係にあるわけではない。だが、専門家である以上そこに問うのが一番なのではないだろうか。
腕を組み、しばし胸中で問答を繰り返す。
そこに男が戻ってきた。水差しを差し出すと陰光も礼を一言伝えて硯に注ぐ。そうして墨を摺る。
墨を摺る音が部屋に響く。
男はその背後に静かに控えている。ともするとそこにいることすら分からない。
死者だからという言い訳は通じない。陰光はそれらを見る力を有しているのだから極端に弱っていたり、または隠し通せるほどに強くなければ存在を認知できる。
男はどちらでもない。霊力は弱い人並みの魂。だが、気配を殺すことが格段に得意なのだろう。剣を扱えるのは昨晩で分かっている。彼は生前、武の人なのかもしれない。それにしては屈強といった様子はない。むしろ、小柄な印象を持たせる。
あらゆる方面において男は謎しかなかった。
墨を摺り終わり、一度息をつく。
そうして綺麗になった筆に墨を浸し、整える。墨を含んだ筆を真っ直ぐに持ち上げ、まっさらな料紙に置いた。後はさらさらと流れるように筆を動かしていく。内容は大体決めてあるから筆に迷いはない。
短く簡潔に。ただ、急ぐものでないことと―実際はちょっと急ぎたいがそこは伏せる―早い回復を祈る旨を添えて……筆を置いた。乾くまでしばらく待たなけれ ばならない。
料紙に綴られた筆跡は優雅で流麗な非常に美しいものだった。
振り返れば、少し身を乗り出した男が目を丸くして文字を凝視していた。やはり意外だったのだろう。あの部屋を片付けた側からしたらさらにと言ったところか。未だにぱちくりと瞬かせている。その仕草が子どものようにも思えた。
「これでも評判はよくてな。ああ、そうだ。名前が分かったらお前の字も書いてやろうか?」
思いつきのままに口にすると、夜闇の瞳が陰光の朽葉色の瞳を見つめる。その瞳は一度大きく開かれ、きらきらと輝きだした。
まさかの反応に思わず吹き出した。
陰光よりは下かもしれないが、いくらなんでも幼子の反応そのものだ。加えて、その反応が不服なのか男は頬を膨らませた。
もう声をあげて笑うしかなかった。
幼くかつ整った顔立ちでなければ許されないだろう反応。奇しくもよく似合っているものだからさらに笑えてしまう。
幼い弟がいたらこんな感じなのかもしれないなと思いながら、宥めるように頭を撫でてやる。まだまだ不機嫌だとばかりに頬は膨れたままだ。さきほどまでの美しい所作の姿などない。ずいぶんとちぐはぐな男だ。
「そう怒らないでくれよ」
未だに殺しきれない笑いのままに宥めようとする。
そこに音がした。
べちり。といった感じの、何かが壁に当たったような。
それは二人の耳にも届いていた。思わず二人の視線が同じように動く。
なんだろうか。
互いに首を小さく傾げて、音のした外へと向かう。
簀子に出て、庭の周りを見渡す。半分ほどの月はだいぶ高い。もう戌の刻に入る頃だからか。
欠けた月明かりがあろうと暗い。暗いのだが、何かの影があった。
空に。
高い位置で月明かりに形が浮かび上がる。そこに影があった。羽を広げた鳥だ。それが空で静止している。静止というよりは、何かにぶつかってそのままといったような、少々間抜けな姿だ。
無言で二人はそれを見ていたが、陰光はぽん、と手を叩いた。
「結界張ってたわ」
昨晩、あの異形がやってくるのではと念のために結界を張っていたのを思い出す。
結界にはいくつか種類が存在する。災いやらを回避させる呪いのような弱いもの。あらゆることからも守る強固なもの。力の強弱の他。虫除けのようなもの。悪しきを弾き飛ばす攻撃性のもの。文字通りの壁となるもの。術者はこれらを適切に使い分ける。
昨晩の異形と対峙した時は弾き飛ばす攻撃性が高いものだが、今邸の周りに張られた結界は壁だけのものになる。
あの鳥は不可視の壁に突っ込んだようだ。
だが、普通の鳥にはこの壁は役には立たない。あくまでも妖力やらを持ち得たものにしか通用しない。つまりは、あの鳥もまた妖怪変化の類いなのだ。
陰光はあの鳥の正体がなんとなく予想がついていた。
仕方ないから助けてやろうとするが、近場に階がない。仕方ないから高欄を跨ごうと手をかける。と、衣を引っ張られた。
首だけ巡らせれば夜闇の瞳とかちあう。
数瞬だけ見つめ合うと男は身軽に高欄から飛び降りた。まるで体重がないかのようにすらりと着地し、そのまま鳥の真下だろう場所に歩いていく。受け止めてくれるらしい。
「なら落とすぞー」
声を掛けてから柏手を一つ打つ。
乾いた音が響くと鳥はそのまま落下してきた。何の抵抗もなく真っ直ぐに落下してきたその身体を男は一歩も動くことなく見事に受け止めた。しばし手元を見下ろしてから踵を返し、陰光の下へと駆け寄ってきた。簀子まで四尺ほどに迫ってきた時に跳躍し、右手で高欄を掴むとそのまま力だけで飛び越え、ひらりと横に帰って来た。
降りた時もそうだが、身軽だ。感嘆の声を上げて拍手する。
それには男もはにかんでみせる。
やはりちぐはぐだなぁ。と思いながら腕に抱かれた物体を見た。
思うよりも大きい鳥なのだが、暗くて何かまでは判然としない。仕方ないので部屋へと戻ることにした。
室内は燭台の橙色の灯りで明るい。ようやく鳥の姿が詳細に分かった。
鴉よりも一回り大きく、褐色と白のまだら模様で目の周りだけが黒っぽい。鳶(とび)だ。驚くほどに普通の鳶だ。壁にへばりついていたのだから化生のはずなのだが、目が三つだとか、足が多いとか。そういったものはない普通の鳶だ。
陰光はそんな鳶を知っている。過去に相当疑いまくった末に化生認定をしている。
そんな鳶だが、先ほどの衝突で気絶している。
「おーい、起きろー」
ちょいちょいと嘴の横をつついてやる。
数回そうしてやると羽毛に覆われた身体が小さく震えた。次いで瞼が開き、金の瞳がゆっくりと陰光を映す。至って化生なのにあまりに普通な鳶の唯一らしくないのはこの瞳の色だけだ。
「…………ん?」
甲高い声が一音。
「おはようさん」
夜だが、と胸中でのみ呟く。
途端ばさりと翼が大きく広がった。
「なぁあんで結界が張ってあるんだあぁ!!」
大音声が室内に響き渡る。甲高いからなお耳に痛い。
「お前!そんなもん使ってないだろ!意気揚々と突っ込んだんだぞ!いつもの勢いでドンっ!だぞ!痛いからな?滅茶苦茶痛かったからな!嘴折れたらどうするつもりだぁ!」
鳶は変わらずに全力で訴える。叫びに叫びまくるものだから耳を塞ぐがそれでなお入り込む高音。もはや武器である。
「ちょっと事情があってな!悪かったって!」
負けじと大声で返す。多分そこまでする必要はないのだが、気持ち的には必要だ。
「事情?なんかやらかしたのか?陰陽師ってのは面倒なもんに狙われるからなー」
若干馬鹿にしたような態度で鼻を鳴らす。
その面倒筆頭の化生が何をと思うがこらえた。更には実際にやらかしているところもあるので下手に言えたものではない。
「てか、お前こそ何しにきたんだ?」
「遊びにきた」
すっぱり。鳶は返した。
一応曲がりなりにも陰陽師の端くれだ。位的には陰陽生だが。それでも術者の家に遊びにくる化生。何かがおかしい。
だが、元服前からこの化生は度々陰光にちょっかいを出していた顔馴染み。おかしい話なのだが、その言葉は此処では普通に通ってしまうのだ。
「月の終わりは忙しいって避けてやってたんだからな」
もう一度翼を広げ、仕舞う。心無し胸を張ってるように見える。
確かに。忙しいから構ってやれないと言った。だがそれはもう数年前の話で、今それを実行して胸が張れるものなのか。それともやっただけ良しとするべきなのか。なんとも複雑な心境の中、ふと視線をあげる。
男が目を回していた。
鳶を持つ為に両手は鬱がれ、対処することも許されず、あの高音大音声を目の前で聞き続けた。しかも初めてのことだから心構えもない。仕方ないことだ。しかし、それでも鳶を放さず立ち続けているのは称賛できる。
「はぁ……。結界衝突事故は謝るが、お前は後ろのやつに謝れよ?目を回してるぞ」
「後ろ?」
鳶はぐるりと首を回す。腕の中なので真後ろを見ても顔の高さが合わない。すぅっと上に向けると身体が跳ねた。
「何奴!」
「失礼だなお前」
威嚇を露にする鳶に今度は素直に思った事を口にする。ついでに身体を両手で挟み鳶を回収する。
すると居心地悪そうに身動ぎされた。
仕方無しにひょいっと投げ飛ばせばバサバサと音を立てて羽ばたき、そのまま床に降りた。それから首を伸ばして見上げてくる。怪訝そうに男を見る顔は鳥ながらにしかめている。
「…………なんだこいつ?」
何度か首をしきりに動かした末にそう放つ。
「色々あって昨晩からうちにいる」
詳細を省きに省いた説明だったが鳶は追及することはなかった。が、やはり首を傾げている。
「なんつーか……中途半端だな。人間っぽいのに妖みたいな」
「剣に宿ってるからじゃないか?」
「んー……」
何故かまだ納得していない風情に唸る。
そこでようやく男も復活したのか両耳を指でぐしぐしと動かしている。
「大丈夫か?」
問えば少々顔はしかめられたままだが小さく頷いた。まだ頭に響いているのかもしれない。可哀想にと軽く頭を撫でてから、そろそろ墨が乾いたのではと文台を見る。
濡れたような黒ではない。これなら大丈夫だろう。そう当たりをつけて、料紙を一度持ち上げてから置き直し、折り畳み始めた。普通の文とは違う畳み方だ。
鳶は跳ねながら、男は歩み寄ってその手元を見る。
「文か?」
「正面からは憚られるからな」
何せ相手が相手。と、思いながら織り上げたのは紙の鳥だった。少し出来はよくないが。
完成したそれに鳶は半眼で一言。
「雑」
「うっせぇ」
そんなことは分かっていると即座に切り返す。
指先を揃えて口元に持っていく。その唇から何かしらの言葉が微かに紡がれると料紙の色そのままの鳥へと見る間に変じた。
小さな翼を羽ばたかせ飛翔し、二人と一羽の上を旋回して外へと繋がる妻戸へ向かい飛び去っていく。
夜半には文は届くだろう。
一仕事終え、ついでと真横に並んでいる鳶を見下ろす。
「お前、昨晩から変な異形を見てたりしてないか?」
「変な?異形ってのは大体どっかしら色々あるから変なも何もないだろ。というか、何が変なんだ?」
「いやそうじゃなくてだな……」
真っ当な返しをされて手を横に振る。
確かに、人間が見る変と妖たちからみる変には差異があるはずだ。人間の常識一辺倒で説明しても案外通じないのかもしれない。
「それで、牛っぽい身体に角と牙がある人間みたいな顔したやつなんだが」
「それは変だな」
陰光はがっくりと身体を傾がせる。
前言撤回が早い。いや、撤回はしてないのかもしれない。単純に化生目線でも変なだけなのだろう。が、なんだか解せない。
なんとも言えない気持ちを抱えながら身体を正して続ける。
「そいつがとある邸から飛んで逃げ出したはずなんだが」
「牛って空飛ぶのか?」
たっぷり数呼吸の間が生まれた。
陰光は何も言わず、箱を持つように手を出すとそれを横に退ける動作をする。一回それには触れるな。このままでは全く進まない。と無言で訴える。鳶も察して沈黙し、嘴で翼を掻いた。
某か思考して目を細める。
「んー……」
上を向き、そのまま首を伸ばして唸る。大人しく回答を待つ。
「分からないな。別に都監視してるわけでもないし。自由気ままな生活だし」
「そうか」
少し期待はしてみたのだが、やはりそう簡単には情報は得られないらしい。
肩を落とす陰光に鳶は提案する。
「他の奴等にも聞いてやろうか?」
陰光は目を丸くする。
「逃げられたんだろ?それなら誰かしら見てて、今夜中には噂が広がりきってるだろうし」
鳶の寝床は実は都の外にある。だから都事情は実は少し疎いのだ。ならば都内に住み奴等に聞くのが一番いい。別に陰光が聞きに行ってもいいかもしれないが、仮にも陰陽師だ。答えてくれるとも限らない。
まさかの申し出に見る間に陰光の表情が明るくなり、ずいっと身体を乗り出す。
「本当か!」
「ただし!」
褐色の片翼が眼前に突き出される。
「ただでやってくれるのはどうかと思わないか?」
にやりと鳶は笑う。そんな表情などできるはずもないのだがそんな様子だ。
ぐっと陰光は言葉を詰まらせる。鳶の言うことには一理ある。何も対価なしに情報を得るというのは、楽ではあるが指摘されればそうにもいかない。対価には同等のものを。人間社会もそうである。
ぐぬぬと唸りたくなるが堪える。
「……何が欲しいと?」
今度はにんまりと笑う。表情豊かだ。
「干した果実を所望するぞ!」
ばさりと翼を広げて元気よく答える。ちなみに両翼を広げきると五尺ほどにもなるので結構邪魔だ。
「干した、果実?」
「ああ。普通の果実は啄めるが、干したものは木に成っているわけがないだろう?食べたことがないんだ」
至極当然なそれに少し肩透かしをもらう。何かとんでもなく面倒な話をされるかと思えば、市で買ってくるだけですんでしまう。と、そこでふと思った。
「くすねたことないのか」
作り方などは知らないが、干すということは外に吊るしているはずだ。鳥ならば容易く盗んでこられるのではないだろうか。
すると今度は目を吊り上げた。
「馬鹿か!人様が端正こめたものを盗むなんて非道な真似なんかしない!」
きっぱりはっきり。怒気すら含めて断言する鳶。
化生なのにとても正道を述べる。良いことではある。
どうどうといきり立ちそうな鳶を両手で宥める。
「悪い。なら今度買ってくるよ」
それには鳶は翼を終い、うんうんと頷いた。
「交渉成立だな。そうと決まれば」
鳶はひょこひょこと跳ねながら簀子へと向かう。それを追い掛けて立ち上がると、廊側の妻戸から男が現れた。何故そこから?と思ったが、手には硯がある。文台を見れば書き物一式が無くなっていた。どうやら鳶と話している間に片付けてくれていたようだ。
有能だな。としみじみ感じる。
そんなことなど知らない男は硯を文台に返してから、視線で鳶を示す。そうだったと陰光も追い掛けて簀子に出れば、鳶は高欄に跳び乗ったところだった。
「よし、交渉の対価。忘れるなよ!」
一言掛ければばさりと両翼を広げて宙を叩き、羽ばたいた。それなりの力に陰光の顔にも風を感じる。
飛翔し、一度旋回すると真っ直ぐに南へと向かう。
はたと陰光はある事に気付いて目を見開いた。
「あ!待った!」
制止を叫ぶ。しかし、それは遅かった。
勢いよく空を駆けようとした矢先に、鳶はまたしても不可視の壁に激突した。
それを見て陰光は顔を覆い、男は目を丸くした。
夜空に張り付く鳶。それがずるりと結界から剥がれ、そのまま虚しく墜落する。
「あの時通れるようにしただけで、結界解いてなかった」
重々しく陰光は呟いた。
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