第11話
夜から朝方にかけて降っていた雨は止み、昼を過ぎた頃からは雲は何処かへと流れていった。
傾きだした陽が夕方の匂いを漂わせ始める。
与えられた一間を囲む簀子に座り、高覧の合間から出した足は揺らすわけでもなく力なく垂らしていた。
手には書物。男の夜闇の瞳はそこに並ぶ文字を追っていた。その表情は険しい。
文字は読める。読めるには読める。だが、それが大量に並ぶとよく分からなくなるのだ。文章が読めない。それに気付いたのは一冊目の半ばになった頃だった。
記憶というものがないための弊害なのかもしれないが、なんとなく自身は元から苦手だったのでないかと思っている。
できることは記憶がなくてもできる。料理や縫い物、片付け。生活に関するものは不思議とできた。今身を寄せさせてもらっている橘陰光曰く、それはすごいことだと言われたがよく分かっていない。だが、褒められることはとても嬉しかった。
できることでもう一つ。剣だった。
目覚めた瞬間から剣を振るった。それはあまりに当然のことだと思っている。
何故か。
分からない。分からないけれど、恐怖などはなく。目の前の敵意を持つ相手を排除する。それを選んだ。それが当然で、役目で、誇りだ。
そう、思っている。理由もなく。
視線をあげると、青みが減った空が広がっていた。
記憶はない。
それが辛いとは思っていない。
何か違和感があれば違ったのかもしれない。男の中では自身を示すものは最初からなかったようなものなのだ。穴が空いたような喪失感はない。穴があることを知らなければ、穴というのは存在しないのかもしれない。男の記憶はそれだった。
それでも、思い出せない。忘れた。という言葉が出てきた以上は確かに何かあったのだろうとは思う。その程度。自身が人間であり死人であることも、言われなければ分からなかった。
それが問題だとは感じなかった。
問われて答えられないこと。問題というべきものはそれだけで、男自身はさして記憶があろうがなかろうが構わなかった。死人である男だが、それこそ生活するに必要な知識だけはある。それで陰光の役にたてる。それだけで十分だった。
ただ、陰光はそれを是としなかった。ゆっくりと記憶を取り戻すのを待ち、助力してくれる。それにはどうしても応えたかった。
正体も分からない存在を拾い、笑い、待つことを選んでくれた。そんな存在に応えなくてどうするというのか。
なにより、あの流麗な筆跡で名前を書いてくれると言ってくれたのだ。せめて名前だけでも思い出さなければ。
小さく頷き男は今一度書物に視線を落とそうとした。
しかし、ふと感じた。
白く、鮮やかなものだ。それが邸に向かって駆けている。
それが何かを知っている。
唇に笑みを灯し、開いた書物を閉じる。投げ出した足を上げ、立ち上がると足早に室内に入り、書物を片隅にある机に置いた。そのまま玄関へと足を向ける。
どうしたのだろうか。
小さく首を傾げてふと先程までを思い出す。
今日は鳶の声を聞いていないはずだ。
鳶が来る時は鳴き声を一度聞く。挨拶代わりなのだそうだ。それを聞いていない。ならば鳶に追い立てられたわけではない。
では、何かあるのだろうか。
早足に玄関に向かうと、無造作に沓を脱ごうとしている姿を見つけた。
「おかえりなさいませ」
声掛けると陰光は顔を上げた。
一見するに精悍さのある顔立ちだ。だが、性格なのかなんなのか。少し間が抜けたような雰囲気がある。そのせいか、“精悍”の言葉にあるべき鋭さが丸みを帯びたように感じられた。
今もそう。走ってきたせいで整えられていたはずの髪は乱れ、前髪が幾筋か降りてしまっている。
その表情は明るい。何事かあるわけではないようだと安心して男は微笑む。
「何か、ございま」
「分かったぞ!」
男の言葉を遮り、陰光は張りのある声で被せた。
それには目をぱちくりと瞬かせた。
何が?
それしか出てこない。
だが、陰光はようやく沓を脱ぎ捨て、まろぶようにしながら男の前にやってきてがしり、と肩を掴んだ。
「あの異形の正体がだよ!」
男は目を白黒させた。
異形とは目覚めた際に対峙し、数日前にその首に刃を突き立てたもののことだとは分かる。だが、その名は饕餮と呼ばれるものに酷似している、と陰光自身から話をされていた。曰く、四凶と呼ばれる悪神ともなる妖なのだと。
その際に名に聞き覚えがあるかと問われたが、やはり覚えなかった。
異形の正体とはそれではなかったのか。
そう思い悩ませているが陰光の瞳は煌めいている。
「あいつは翡翠に封じられていた。そう思っていたんだが違ったんだ!あいつは翡翠そのものだったんだ!」
話ながら勢いのままにがくがく肩を揺らされる。頭もそれにつられて揺らされてまともに話を聞ける状況ではない。
申し訳ないが手首を握り、なんとか引き剥がす。
「どういう、ことですか?」
「翡翠は何かを象っていたんだ。暗がりだったしよく覚えてないが、きっとあれは饕餮だったんだ。だからあいつは俺たちでも倒せたんだ!」
今度は両手を握り混み、作られた拳を上下に振り熱く語る。
しかし男には今一のその内容は分からなかった。言っている内容が繋ぎあわない。
眉間にしわを寄せてなんとか飲み込もうとする。が、やはりうまく繋がらない。
「あの……ごめんなさい」
理解できないことに謝罪するが、陰光はきょとんとした。
「なんで謝るんだ?」
「言っていることが、よく……分からなくて」
素直にそう言えば、目を見開いた。
陰光の周りには陰陽師しかいない。もちろん関わる人間には普通の人間もいるのだが、普段から会話するのは泰高や同僚たち。術に関する基礎知識を持った存在ばかりで気にするようなことがなかった。
「あ、そうだよな。お前陰陽師じゃないし余計分からないよな。すまなかった」
「いえ……俺こそ」
「謝るな。普段陰陽師ばかりだからうっかりしてた。すまないすまない」
そうして陰光は男の頭を撫でた。
謝ってはいけないが、果たしてこれはどうするべきか。対処を考えあぐねてただ撫でられる形になる。
そんなことなど構いもしないで陰光は続ける。
「俺達陰陽師は式を扱える。それで式っていうのにはいくつか種類があるんだが、今回は省くぞ」
撫でていた手を離し、陰光は懐から懐紙を一枚取り出した。
「例えば、この紙。この紙をだなぁ……」
床に紙を置き、何か折り始めた。急いでいるのか綺麗に合わせることもなく折り目が歪む。粗雑なままに折り畳んでいくと一枚の歪な鳥が出来上がった。それはいつかの文で作った鳥に近い。以前よりさらに雑な出来ではあったが。
「こうして鳥にする。紙が鳥の形になったわけだ。それでさらにだな」
揃えた二本の指を唇に宛がうと微かに何かを紡ぎ出した。それが終わると紙の鳥は瞬く間に懐紙の色のままの鳥へと姿を変える。文の鳥の時と同じだ。
「術を加えればこんな風になる。こういうのを式というんだが、あいつはこれと同じようなものだった。つまり、本物の饕餮じゃなかったんだ」
話終えれば式ははらりと元の姿へと還る。
「別にこういうのは紙じゃなくてもいいんだ。木だったり石だったり……そうしたい物に象ったり彫ったりできればいい。代わりの形だから形代とも呼ぶこともある」
説明する陰光はまだ喜色を含ませている。
神にも及ぶはずの力を持った存在に何故打ち勝てたのか。
陰光は異形の正体を知ってからその理由を考えていた。それがようやく解決したから喜び勇んで帰って来たのだ。そして今も喜びを露にしている。
陰光の悩みが一つ減ったことは喜ばしい。だが、男は新たに疑問ができた。
「あの」
「なんだ?」
「なんで……妖、なんですか?」
翡翠が封じとしての役割を持っていたことは確定的と思われている。
ならばその封じをさせるのに何故、饕餮という妖をわざわざ使ったのか。
陰陽師というものが男にはまだよくわからない。それでもお守りのような役割になるなら、こうしたものは神やそれに仕える動物とかになるのではないだろうか。
そう疑問を投げ掛ける。
陰光は目を丸くしぽっかりと口を開けて、しばし沈黙した。
たっぷり十数呼吸分。
「分からない」
そう答えた。
陽は沈み、月が浮かんでいた。戌の刻も半ばという頃合いだろうか。
暗くなった室内には橙の灯りが揺れている。
文机の前で陰光は胡座をかいて腕を組み唸っていた。その後ろで男は座して控えている。
暫定饕餮の正体が封じとして力を籠められた饕餮を象った翡翠なのだとようやく分かった。
ただの石でもよかったのかもしれないが、何かを象ればさらに意味合いを強くさせる。封じをしかけた者は翡翠を彫り、饕餮という形と名を与え、さらに力を加えたのだ。
昼間、川人が手にしていた木彫りの猿。それでようやくそこに至れた。
だが、男に指摘されるまで何故饕餮であったのかは気付かなかった。
確かにわざわざこんな危ない存在を使う必要などない。それならば陰陽師が使う五芒星や籠目などの印。霊符。あるいは神使などの動物を象ればよかったはずだ。
それを選ばないで何故四凶を冠する妖を選んだのか。
封じを行った者が元よりそこまでの知識がなかった?
それはない。術者に力がなければ、どれほど時間が経過していようと翡翠はただの翡翠でしかない。力を持つなら必然、知識も持つことになる。
饕餮でなければならなかった?
では、その理由とは何か。
目の前にはいつぞや写した料紙が一枚置かれている。
内容はとても簡潔だ。名前。身体的特徴。そして追加した名。それだけだ。料紙半分にも満たない情報量だった。実は書き忘れがあるとかだったら話は変わるが、そうではなかったはずだ。と思いたい。
最初に見つけた正体狍鴞(ほうきょう)。その特徴から饕餮という存在を思い出し、そうであると直感が告げた。
四凶の饕餮。とある書物では食を貪り、財産を冒し、崇められる事を欲し、困窮した者を哀れまない非道な人の子だと記されていた。我欲と貪欲を極めてついには異形に成り果てたのだろう。
しかし、その内容を見たところで間違っても封じを勤めさせるようなものはない。 悪神と冠されるのも道理くらいのことしか分からない。
では何故なのか。と、思考の堂々巡りになる。
「分からん」
四半刻まではいかないが、それでも長い間唸っていた末に陰光はそう呟いた。
分からないものは分からない。こういう時はどう頑張っても何も出てこない。ならば一回すっぱりと考えるのを止めてしまおう。
気持ちの切り替えを選び、料紙を畳む。
見落としがあるかもしれない。近いうちに山海経を再度確認してもいいかもしれない。そう考えながら小箱に料紙をしまう。
では今日はどうしようかと考える。
寝るには些か早い。夕餉は唸る前に終えた。着替えも終わり、髷も解いた。
男に記憶の話を振るか。だが、あまりに聞いても急かすだけになるかもしれない。読みたい書物はない。
つらつらと何かやることを並べて見る。
それから腕を床についてぐるりと身体事振り返った。
そこには座した男がいる。座したというが、両膝を折ってこそいるだけで爪先は立っている。何かあればすぐに行動できるような体勢だ。
橙の灯りに照らされた面は整っている。その双眸は少し眠たそうに見えた。しっかりしているように見えておっとりしたところもあるらしい。首を傾げる動作などにそれは顕著だ。陰光が見ていないところではもっとおっとりしているのかもしれない。
今も振り返った陰光に男は小さく首を傾げている。
「そういえば、お前は夢を見るのか?」
眠たそうにしているのを見て思い出す。
問われ、小さく口の中で夢と呟きながら男は視線を天井へと向けた。何かあるわけではない。思考しているだけだ。
数拍してからゆるりと首を横に振られる。
やはり、死者は夢を見ないのかと改めて思う。
「何故、ですか?」
夜闇の瞳が不思議そうな色を映す。突然聞かれては疑問に思うのも当然だ。
「この前から赤い花を気にしてただろ?俺は赤い花の夢を見たからお前もかなと思って」
あぁ、と声を漏らした。
陰光はあれから赤い花の夢を見ていない。当時の印象が時間差で夢に現れただけなのかもしれないと思っている。
そもそもとても曖昧な夢だ。赤いというだけの花。それが咲いて、落ちた。それだけの夢。しかし、なんだか気にかかる。
顎に手を置き、しばし考える。
一応陰陽師だ。自邸にも占の道具は置いてある。あるが、滅多に使わない。使いたくない。苦手分野には目を向けたくない。
だが、できないわけでもない。直近は高階の物忌みの日数だろうか。その程度ならば差し支えなくできる。
髷を解いた頭を掻いて黙り、唸る。
それを見ていた男は不意に視線を上げた。眠たそうな瞳が瞬時に鋭くなり、纏う雰囲気もまたがらりと変わった。
流石に陰光も気付き、肩越しに振り返る。
蔀の前に女がいた。
白い髪だ。だがその顔は二十程度か下にも見え、若く凛々しいもの。腰程の髪は結われ、前に落ちている。出で立ちは袖のない水干のようなもので真っ直ぐと竚立している。その額には人間にはあるはずのない二つの角が生えていた。
女の鉄のような瞳が陰光と男を見る。
「補佐官より実物を見てくるよう命じられた」
感情の乏しい声が告げる。
気配はなかった。妻戸から入ってきた様子はない。突然現れた不審な女。だが、発された言葉に目を瞠った。
補佐官。角を持った人外らしき女はそう言った。自身が思い付く人外と関わりある補佐官は一人しかいない。
「小野殿から?」
「正確には違うが、補佐官の担当項目だ」
腕を組み、見下すような冷たい視線が陰光を一瞥する。次いで、奥にいる纏うものを一変させた男を見た。
鉄と夜闇がぶつかりあう。数拍ほどの時間だ。
見定めていた女の柳眉が潜まった。
「……見つかるはずもない」
苦く呟くと女は目を伏せて、身を翻そうとした。
その剥き出しの細腕を掴んだのは瞬時に間合いを詰めた男だった。女の目が一瞬だ け見開かれ、直ぐ様鋭くなる。
「名乗れ。突然現れ説明も無しとは。礼儀を欠くか」
聞いたこともない鋭く低い声で男が詰問する。
瞬く間もなく起きたことに陰光は声もなく茫然とし、女が男と変わらぬほどの背丈だとどうでもいい情報を何故かぼんやりと理解した。
掴まれた女は不快そうに男を睨み付ける。
「人間なぞに名乗る理由はない」
「ならば事を話せ。お前の目的は俺に関わりあるのだろう?知る権利がある」
引く気もないと掴んだ腕を離さず、さらに詰め寄る。
忌々しいといった視線を女が放てど男には全く効く様子はない。
一触即発。そんな雰囲気に陰光も流石に不味いと気付き、そろそろと手をあげる。
「あのさぁ」
ちょっと間の抜けた声になった。
女の視線が陰光に移る。苛立たしそうなそれが怖い。
「大元は俺が依頼したことだから、俺が一番知らなきゃだと思うんですがー」
橘邸に来た以上、話していなくとも陰光が依頼主であることは察しているはずだ。そうであればやはり一番知るべきであり、およそ様々な仲介の末に陰光に連絡を入れるという面倒がなくなる。
女は舌打ちをすると男を射殺さんばかりに睨む。
「仕方がないから答えてやる。放せ」
その言葉に男は手を離し、数歩身を退いたが陰光よりも前だ。得たいが知れないと警戒しているのが分かる。
女の腕にくっきりと痕が残っていた。今一度女は舌打ちをすると二人を睥睨する。
「それの正体をこちらで捜せとの話だが、我等が捜せるは鬼籍に載るものだけ。今のこれは鬼籍に載るはずもない」
女は顎で男を示しながら冷たく言い放つ。
鬼籍。死者の名が刻まれた名簿だ。それを元に冥府の者は人間の魂を管理し、あるべき輪廻を回していくのだと言われている。また死者以外にも現在の人間の寿命まで記載されているとも聞く。
だからこそ一人の魂を捜索するのは難儀だろうと陰光も思っていた。
だが、陰光は胡乱げに眉根を寄せた。
鬼籍に載るはずもない。女はそう言った。
人間である男だ。普通に考えれば何処かにあるはず。それともあまりに古いと記録を処分してしまうのか。神代の頃から記録が残されていたならば確かに膨大な量だ。今更に探すのもそうだが保管もまた相当に難儀なはずだ。
「どういうことだ?」
問い返すと女は短く嘆息する。
「それはもう人間の域から外れ、鬼籍から名が抹消されている。こちらの道に来る権利などない」
言葉が出てこなかった。
陰光も男も瞠目し、言葉の意味を瞬時に飲み下せなかった。
人間の域から外れている。
嫌に鼓動が駆け出し始める。
「それは、どういう……」
渇いているはずもないのに、掠れた声しか出ない。
「そのままだ。人間ではない。限りなく人間に近い、依る辺のない霊(たましい)。力ない妖とも神霊ともつかない中途半端ものだ」
面倒そうに目をすがめながら女は残酷な事実を述べた。
喉が凍り付いたような錯覚を起こす。
人ではない。還るべき道もない。男の道行が閉ざされているのだ。
愕然とし、陰光は女をただ見ていた。
「そうか」
短く低い声が返る。男だった。
一度目を伏せ、そしてまた開くと女を真っ直ぐに見つめる。
「その鬼籍とやらには一切存在しないと?」
「当然だ。載せる必要がない。お前のように成り果てた存在は今代で力尽きて消滅する以外に道はない」
「つまり、名も、正体も、追う手立てはないと」
「ない」
すっぱりと無情な一言が部屋に響く。皐月なのに事実が部屋を冷やしていくような異様な空気が流れていく。
男の瞳は真っ直ぐに女を見つめ、ふいに相好を崩した。
「手を煩わせて、申し訳ない」
眉を下げて、ふわりと申し訳なさそうに微笑みを見せる。そこには先程までの鋭利な雰囲気は微塵もなかった。
さしもの女も虚をつかれる。
「ないものは、見つからない。当然だ」
伏し目がちに視線を落とすとそのまま膝を折り、頭を下げた。
「此度のこと、誠にありがとうございます」
平伏するかのように深々と下げられた頭。皮肉も何もない真っ直ぐな礼の言葉に女は一歩足を退いた。その表情は信じられないといった驚愕のもの。
「分からなかったのだぞ?」
傲慢そうな態度だった女の声が明らかに戸惑っている。
「無駄足を踏ませたのは私の事です故に。そちらにて無いことが分かるだけでも重畳です」
男は穏やかに淀みなく言葉を紡ぎ、やおら顔を上げた。そこにはやはり優しげな微笑みがある。
「どうぞ、小野様?とそちらの皆様方に手を煩わせてしまった謝罪と礼の言葉をお伝えいただけますか?」
僅かに傾いた首でそっと願いを伝える。
女は得たいの知れないものを見るような目で男を見下ろしていたが、ぎこちなく頷いた。
それに男は柔らかに笑って見せる。
「ま、待て!待て待て!」
陰光が声をあげる。漸くまともに思考できるようになってから慌てて立ち上がり、女に詰め寄った
「人間ではないって、どうにかならないのか!こいつは記憶がないだけで正気はあるんだぞ!我を失った死霊とは違う!」
自身の懸念していたことがある。男が道行きを完全に失い、我を失い、消滅すること。女が突きつけたのはその懸念に近しかった。
女は煩そうに眉間に皺を寄せる。
「一度抹消されたものが再び返ることはない」
「抹消されたなんて分からないだろ」
「だから実物を見て手掛かりにと私は足を運んだのだ。そしてこれを見て確信した。鬼籍にないと」
「もう一回書き付ければいいだろう」
「そういうものではない」
「じゃあ、なんだよ!こいつは人間だったのは確かなんだろ!」
「だが既に人間ではない」
「どこが人間じゃないんだよ!」
語気を荒げ、掴みかからんばかりの陰光に対して女は苛立たしそうに冷たく返す。その態度がさらに陰光の癇に触り、顔に熱を帯びさせる。
その袂を引くものがあった。
苛立ちのままに視線を落とすと男が心配そうな顔をしていた。
「陰光様……ありがとうございます」
困ったような心配そうな。二つを合わせた顔で仄かに笑い、男は礼を口にした。
陰光は驚き、動けなくなる。
「俺の事で、そこまで言っていただいて……ありがとうございます。でも、これ以上ご迷惑をかけては、いけません」
口の端に笑みを湛えたまま、男は陰光を宥め引き下がらせる。
何を言っているのか分からなかった。
男は本来の道が閉じているのだと。もはや人間ではないと告げられた。それは残酷な答えのはずだ。全てを理解していなくとも分かることだ。そうであるはずなのに男は今こうして、微笑みを浮かべながら礼を述べている。
陰光には理解できなかった。
「お前はそれで、いいのかよ」
声が震えそうになるのを堪える。
男は数度瞬き、立ち上がる。柔らかな眼差しがそこにはあった。
「無力でないのならば、如何様にもなります」
思考する意識がある。立ち、駆けることができる足がある。雑事をこなせる手がある。拘束などされていない。できないことがあるわけではない。
「何より……貴方をお守りする、刃があります」
目を細める。手を伸ばし、結われた一方向に流れた髪を撫でる。
「道行きなど、本来知り得ません。通った道しか分かりません。例え一寸先も見えぬ 闇でも。通った道が見えなくても……今、進める力があるならば」
例え暗闇の先が底のない崖であろうとも。立ち竦むことしかできないよりどれほど良いか。
男は幼子にやるように陰光の頭を何度も撫でる。その手の優しさがあまりに心地よく、あたたかくて。いっそ苦しくなる。
泣きたくもないのに。泣いていいのは男のはずなのに。どうにもできない悔しさと悲しさと苦しさで目頭が熱くなる。袂で目元を覆い、そうならないようにと隠す。
困ったような苦笑が耳に入る。
「お優しい方に……拾っていただけました」
男はそう深みのある声で呟き、人外をみやった。
複雑そうな顔をした女に男は笑ってみせる。それがまた反応に困るとばかりに眉間に深い皺を作り、やがては所在なさげに身を退いて霞のように姿を消した。
◇ ◇ ◇
通った道は分からない。
行き先も見えない。
それでも怖くはない。
だって……貴方がそうしてくれるから。
我が身の事のように激して、泣いてくれるから。
それが笑顔になるようにしよう。
貴方は冥闇を照らす光だから。
◇ ◇ ◇
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます