第3話

「ということが昨晩あった」

 陰陽寮の渡殿。手刷りに身体を軽く預けて陰光は軽く言ってのけた。

 それを聞いていたのは二つ上の先輩であり友人の穂積泰高(ほづみのやすたか)だ。

 皐月の心地よい微風が香るのに、友人のとんでもない暴露に額に手を当てて唸っている。

 色々と情報量が多い。しかも明らかに問題だらけだ。陰陽寮所属の者としては放っておけない問題なわけだが、果たして宿直から何かしら不吉な兆しがという噂もあったかと記憶を辿るがなかったように思う。

 それもそれで問題ではないか。

 凶事から都の守護を任されているのに、誰も気付いていない。いや、単体の存在ならば観測されないことが多い。個人の依頼で、長らく封じられていただろう何かだからきっとそこまでではない。その程度なのだろう。そうだろう。そうであってくれ。

泰高は渋面の下で強く願っていた。

「それで、ちょっと聞きたいことがあってだな」

 そんな胸中など知らない陰光は続ける。

「牛の身体に牙と角の生えた人面の妖って知ってるか?」

 声色は何気無しという体でこそあるが、その瞳は鋭いものがある。

 泰高もそれに気付いてか、額にやっていた手を放し、宙を見る。記憶の海からその情報を元に手繰り寄せてみるが、その先は見つからない。

「いや、分からないが……唐渡の品でいいのか?」

「多分な。剣も唐のものみたいでな、片刃の刀みたいなやつなんだが、どうにも幅広で鞘もない。この国のではなさそうだった。そうなると翡翠も向こうのだと考えていいだろう」

 何代かの間に翡翠だけが新たに追加されたになると話は変わってしまうが、前提としてそうでないとする。

 それよりも今はあの異形が何であるかだ。

「そうなると大陸の異形か……書庫室に何か資料があると思うが」

「うげ、あの中か」

 明らかに嫌そうに顔をしかめる。

 書庫室には数多の資料が保管されている。それは大量に。直丁たちが整理整頓しているとはいえ、今の情報だけで目当てのものを探し出すのは骨が折れる。

 陰陽寮の資料とは国家機密であり残念ながら基本的に持ち出しなど許されない。宿直して探すしかないのだ。

「……ちょっと拝借」

「やめなさい」

 真面目な顔で不穏な言葉を吐くものだから即座に被せる。

 分かっている、と陰光は返すがその顔は不服そうだ。

 やらかしかねないなと泰高は不安に思いながら一つ話題を振った。

「ところで、剣の男というはどうしたんだ?」

 話にあった剣に宿っていた人間の男。聞く限り敵意などはないようだが、封じられた対象であるならば安心はできないはずだ。

「今は家にいる」

 けろりと答えられる。

 いっそ頭痛がしてきた。

「お前な……危険だと思わないのか?」

「考えなくはないけど、どうにもそんな感じがしないんだよ。むしろ頼りない」

「頼りない?」

 泰高が反芻する。陰光は溜め息一つに後ろ頭を掻いた。

「なんかぼんやりしてるんだよ。寝起きなのかもしれないが、帰り道もふらふらでな」

 昨晩のことを思い起こせば、陰光の後ろを歩く男はゆったりとした足取りで、ちゃんとついてきているか確認する度に右に片寄ったり左に行ったりと真っ直ぐ歩いていなかった。覚束無い、とまでは言わないがそのうち転んだりしないかと不安になり、仕方なしにその手をひいて家に帰ったのだ。

「朝もまだ眠そうにしながら見送りしてたしな」

「ん?そういえば、会話はできるのか?」

 それにはすぐに首を横に振った。

「いや。結局一度も口は開いてない。でも、頷いたりしてるからこっちの言葉自体は分かってるはずだ」

 適当に頷いていなければ。と口の中でそう呟く。

 泰高が何か考える様子を見せるが直ぐにやめて陰光の烏帽子に手を伸ばす。先ほど頭を掻いたせいで崩れてしまっていた。

「もう二十だろうに。しっかりなさい」

「悪い悪い。でもこれ邪魔なんだよ」

 片目をすがめて烏帽子の端に触れる。

 烏帽子は成人男子ならば必需の品だ。元服し、こうして大内裏に出仕するならばちゃんとしていなければならない。最低限の身嗜みだ。

 だが、やはり邪魔なのだ。髷を納める先であるが、そもそも髪を短くしては駄目だろうか。襟足くらいばっさりと。と、かつて泰高に話したら手刀を貰ったことがある。

「少し気になるし、そちらに行ってもいいか?」

「ああ、でも一応書庫室覗くから遅くなるが」

「仕方ないから一緒に探すよ」

「お!ありがとうな!助かる!」

 陰光はそう屈託なく笑顔を見せる。

 泰高は彼の笑顔が好ましかった。もう二十を数えた陰陽生。ここまで晴れやかに笑っていられることなどそうもないはずなのだが、陰光は陰りも裏表もなくそうしている。その陽の光のような性情が眩しくも思えた。

「橘殿!何時まで話しておられるのですか!」

 渡殿の向こうから陰陽生の怒声にも似た声が響き、陰光の肩が跳ねる。

「まずい、話しすぎた……。じゃあ、書庫室でな!」

 そう言い残して走って去っていく。それでまた走ったものだから叱責を受けるだろうにと泰高も苦笑を禁じ得ない。

「穂積殿」

 背後からの声に泰高が振り返る。

 自身と十は歳嵩の先輩が立っていた。名は弓削(ゆげ)。陰陽の家柄だ。

「弓削殿。どうかしましたか?」

泰高は愛想よく微笑んで見せる。

「いえ、騒がしい声が聞こえたものでしたので見に行きましたら貴殿方がおられましたので」

 線の細い男ではあるがその声は僅かに圧を含む。

 泰高も分かっているが気付かないふりをする。

「そうでしたか。それは申し訳ありません。橘殿には私からも言っておきます。それでは私も講義がありますので」

 泰高もまだ修学の身だったが配属されたのは天文だ。それ故に陰光とは部署が異なっている。ついでに今いる場所から行き先は泰高の方が圧倒的に近い。だから陰光だけがあの慌てようだったのだ。

 さらに泰高は優秀で博士からの覚えのいい優等生でもあり、天文生より一つ上の天文得業生(てんもんとくごうせい)でもある。

 修学の身ではありまだまだ未熟ではあるものの、後々には博士への道を目された陰陽寮内では若き出世頭だ。

 泰高は軽く頭を下げて横を通り抜けようとする。

「星堕ち(ほしおち)の者など……」

 ぼそりと弓削が呟いたのを泰高は聞いていた。だが、やはり気付かなかったふりをした。

 早足に渡殿を歩いていく。

 星堕ち。

 今から二十年前。都に星が流れた。普通であればさして気になるようなことではない。

 それはあまりに大きく、眩い光を放つ星だ。白い光は夜闇を裂いて何処ぞかに消え去った。都に落ちるような実害はなかったが、当時は大騒ぎとなり天変地異の妖星か、空を祓う掃星(ははきぼし)かと論争が起きた。

 結局は不安に思うようなことは起きることはなく、天の気まぐれとも言われ、風化していく。

 だが、その日に生まれたのが橘陰光だった。

 勿論、生まれた時に何かあったかというと何もなく、その後もすくすく成長した。

ただ、彼は見えざるものを見る力を有していた。物心つく前から何処かを見ては笑っていたり、話すようになれば何もないところに話し掛けたりと、稀な姿を見せていたという。ついには妖のものの師事を受けているとも噂をされた。

 力を有する故の噂など当然ではあった。それで終わらなかったのだ。

 彼の父は先の政争に巻き込まれ亡くなったのだ。さらには母もまた病で亡くなった。奇しくも陰光元服の年でだ。

 そこから根も葉もない噂が呼び、彼があの星が落ちた日の生まれと分かると誰とも知れずに“星堕ち”と呼ばれるようになった。

 それに反して入寮後に陰光は一度人目のある場所で術を使ったことがある。人助けだった。それがきっかけで実力を認めて今回のような依頼するものが現れた。

 過ぎた力は他者から畏怖される。そしてそれが得体の知れないものとなれば忌みするものとなる。

 若き術者として認められながら忌まれる。

 陰光の立場とはとても不安定だった。それ故に弓削のようなものも少なくはない。

 泰高はそれを良しとしなかった。むしろその性情は真っ直ぐで好ましくあった。加えて、泰高は陰光に助けられたこともある。

 何かあってはならない。

 泰高はそう思い、彼の友として在ることを選んだ。



「うわぁ……」

 書簡の棚を前に陰光は声を漏らした。

 ここに入る前にちょうど直丁に出会し、大陸の書物はどのあたりかと訪ねていた。大体の見当はついたのだが、まぁ、数がある。

 遣唐使が廃されてもう十年ほどが経つが、それでも長い歴史の中で貯蔵されたものは棚を埋め尽くしている。

 見るだけでやる気が失われる。

 だが、直丁時代は自分がこれを整理整頓やらなんやらをやっていたのだ。仕事とは言え、よくやったものだと今さらに思う。

 見慣れないものなど興味があればちらちらと見て、読みふけり、そして怒られた。知的好奇心はいいものだと思うが、それとこれでは話は別だと言われてしまうのだろうな。

 昔を懐かしみながら棚を眺める。

 そういえば、文字だけなく絵図があるものもあったな。字ばかりの中でそれは真新しくてよく見ていた。確か、異形の姿の絵図などは面白かった。

と、陰光は止まった。

 異形の絵図。記憶を手繰る。確か、それは、異国のものだったような。 ついでに、なんか似たような……色々ごっちゃにしたようなものもあった気がする。

 もしかして、自身は一度見ているのでは?

 そう考えてさらに記憶を手繰る。主に題目だ。あれは一体どの書簡だ。いや、綴じていたから巻いてはない。書物だ。書物の形をしていた。

 多少絞れたがそれでも数がある。題目。題目が分かれば楽ではないか。

 陰光は唸る。必死に記憶を手繰る。右手の指でコツコツと額を叩く。

 出てこい。頑張れ、俺の記憶力。

 自身で応援しながら更に記憶の海を潜る。

 しかして浮かび上がるのは不明瞭な何かの絵とか、動物の身体の部位とか。書物の題目などは全く記憶にかからない。

 中身だけ見ていた可能性が高い。

 ちらりと棚を確認する。

 直丁時代から数年経過している。その間に蔵書も増えている。それにともなって配置も多少変動している。

 それらしき場所ではきっと見つからない。

「うあぁ……いや、頑張れ俺。きっと思い出せるぞ俺。やれるぞ俺。やるんだ俺!」

「何をそんなに言っているんだ」

 背後からの声に目をしばたたかせる。

 それからぐいっと上半身を捻れば、妻戸に呆れた顔をした泰高が立っていた。

「あ、泰高」

「あ、じゃない。端から見たら不審者だからな」

「今俺はすごい頑張ってたのに!」

 今度はちゃんと向き直り、つい先ほどまでの忘却の苦悩を切々と訴える。

 それを聞き流すように泰高も棚の前に立ち、書物を一冊捲る。

「つまり、それらしきものはここにはあると?」

「題目が分からないが、多分似たようなものはあるはずだ。だてに読み更けて叱られてない!」

 声高に陰光は言うが、叱られているところは決して誉められない。

 それでも、記憶にあるならばおよそあるのだろう。記憶違いでさえなければ。

 泰高も記憶を掘り起こす。陰陽寮に入寮した者は須くこの書庫室の整理整頓は通っている。勿論それは泰高もだ。だが、陰光のようなことは流石にしていない。多少時間の合間を縫って読んではいたが……生憎と、読んでいたのは星読みなど天文関連ばかりだ。大陸の妖怪変化にはさして興味を引かれなかった。

 視る力は確かに泰高も持っている。だが、それだけだ。他者に比べて秀でた霊力でもないし、正直悪鬼退散などは祈祷程度にしたい。間違っても陰光のように眼前で対峙など到底できる気はしなかった。

 手にした書物をさらさらと捲るが絵図は一切見当たらない。適当に開くが文字ばかりで、これではなさそうだと泰高は閉じた。

「巻の何処かで絵図のあるものを探すぞ」

 その声に陰光はきょとんとしたがすぐに頷いた。

 そして捜索が始まる。

 大陸の書物は実は一冊だけで終わるものはあまりない。多くは数巻。多ければ三十を越えるものもある。そして完全に字しか連ねていないものもある。絵図があるものは全巻通して何処かにあるはずだ。ならばまず、絵図があるものを見つけるしかない。そうすれば思うよりも探す範囲は狭まる。

 陰光と泰高はそうして当たりをつけていく。似通った絵図があれば前後を読む。内容が何か分かればまた除外もしやすい。

 刻々と時間が過ぎていく。

 次第に暗くなっていく室内はそろそろ字を読むには酷な頃合いだろうか。泰高が灯りを持ってこようと立ち上がる。

「開いていると思えば、穂積殿か」

 突然の声に二人が勢いよく妻戸を見る。

 男が立っていた。年の頃は四十近くだろう。落ち着いた色の衣を纏ったその相貌は目元に浅くしわ刻んだ穏やかなもの。名は刀岐川人(ときのかわひと)。陰陽師だ。

「刀岐殿。申し訳ありません」

「いやいや。橘殿も残ってまでどうしたんだい?」

 柔らかに微笑む。川人は陰光に対して何か言う者ではなかった。むしろ、強い霊力を認めている。

「探し物を。あ、刀岐殿は大陸の異形が載った書物知りませんか?」

 折角そこにいるのならばと陰光は問う。

 実際、川人は陰陽師として悪鬼退散など妖退治も請負い、その実力から数年とせずに博士か何か昇進するだろうと噂されている。

「大陸の……山海経(せんがいきょう)のことかな」

「山海経?」

 二人が口を揃えて繰り返す。

「大陸の地理書だよ。各地の動植物や鉱物に関することが記されている。確か、あれなら神仙や妖怪なども書いてあったと思ったが」

 そう言いながら川人は二人の前の棚に立つ。指先が少し迷うが、すぐに一冊を取り出した。

「これがその一冊だね」

 それに陰光は立ち上がり、泰高も近寄って覗き込む。互いにちらりと見てから陰光が受け取り、適当に開く。

 説明の通り、植物と絵が一枚とそれに関する説明書きがある。

「それは地域事だから少し進めたら書いてはないかな」

 従い、次を捲り、さらに捲り。三枚を捲ると新たな絵図があらわれた。

 九つの頭を持つ蛇だ。口から何かを吐いているようにも見える。見るからに異形だ。

 つまり、この山海経の中に陰光が遭遇した異形が載っている可能性が高い。

「刀岐殿、ありがとうございます!」

 ようやく見つけた書物に陰光は笑顔で礼を言う。

 年に似合わぬ素直な反応に川人も相好を崩した。

「手助けになれたならよかったよ。ただ、もう日が暮れる。宿直でないなら帰りなさい」

 言われて見れば、妻戸から射し込む光は弱い。だからこそ泰高は灯りを用意しようとした。

 山海経という手掛かりは見つけた。だが、肝心の異形の正体には辿り着けてはいない。可能ならばそこまで行きたい。

 しかし、あまりに遅くなるのも他の宿直に迷惑にはなる。川人がそっと促しているのもそれが理由だろう。

 また、時間は逢魔が刻を迎える。妖たちが動き出す時間だ。また昼と夜の境とあり、別の境に迷い混む時刻だ。陰陽寮に所属する二人ではあるが、何かあっては事である。

 陰光は構わない。陰光自身は退魔の術に自信がある。泰高はそうではないからなおさら心配だ。

 陰光は少し唸ってから川人を見る。

「持って帰ったりは」

「駄目だな」

 爽やかに、かつ即座に返された。

 がっくりと肩を落とす。が、仕方ないので今日はここで退散しよう。

 潔く諦めて、陰光は広げた書物たちを片付け始めた。泰高も習うように片付ける。

川人をそれに数度頷いた。

「それで、なんでまたそんなものを探していたんだ?」

ぴしりと陰光の身体が硬直する。

「わざわざそれを探していたのだから、何か理由があるわけだろう?まさか、興味だけで居残りをしてまで探すものかな」

 声色は至って穏やかだ。穏やかだが、どことなく正直に話せ。という圧を感じる。

 陰光の背中に冷や汗が流れる。さらさらと答えてくれるからこのまま何も言わないでいてくれるのではと少し期待していた。が、やはり駄目だった。

 首だけを向けると口端を震わせてなんとか笑顔を作る。明らかにぎこちない。

「ちょーっと、気になることがありましたので」

「ほぅ。気になるか」

「はい、あ、でも、個人的なことでして」

「ふむ。個人的な、か」

「はーい」

 互いに笑顔ではあるが奇妙な空気が流れる。

 泰高も冷や汗をかく。いや、泰高は書物探しを手伝っているだけだから何も悪くはないのだが。

「……一人でどうにかなるのか?」

 声色が固い。

 陰光は息を飲んだ。

 できるか否か。まだ判然としない。

 あの時は突然で、逃がしてしまった。

 織り成した障壁は容易く破壊され、男がいなければ死んでいたかもしれない。

 だが、まだ。何もできないわけではない。

 誰かに頼るつもりはない。しでかしてしまったのは間違いなく陰光自身で、対峙するべきもまた陰光でなければならない。

 責任は取らなければならない。

 陰光は力ある陰陽師なのだから。

「……して、みせます」

 顔をあげ、真っ直ぐに歳嵩の先輩を見つめる。まだ声が震えそうになったがなんとか言い切れた。

 しばし沈黙が流れる。

 数度瞬いた川人の目許が和んだ。

「ならば、そうしてみせなさい」

「!分かりました!」

 瞳を煌めかせて強く頷く。

「ただ、大事になるようならすぐに私に報告を。都人に被害があってはならない」

 はい、と陰光は頷き、片付けの手を早めた。

 その様子に泰高もそっと息を吐き出し、思わず止めていた手を動かした。

 川人も手伝おうとしたが二人から煩わせるわけにはとは阻まれ大人しく妻戸で二人の様を眺める。

 そう時間をおかずに綺麗に片付いた書庫室を確認し、三人は部屋を出る。

「それでは失礼します」

「ああ、気をつけて」

 陰光と泰高の背中を川人は手を振って見送った。

「……何もなければいいが」

 そう呟いた顔は何処か心配そうなものだった。

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