第2話 

 塗籠の中に灯火が一つ。

 黄昏まではもうすぐだが、それでも本来ならばまだ灯火はいらない時刻。しかし、壁に覆われたそこは暗い。

 人の出入りもほとんどないのだろう。塗籠の中は舞った埃のせいで埃臭さが鼻をつき、空気は淀んでいた。

 男、橘陰光(たちばなのかげみつ)は溜め息を一つ吐く。

 折角の来た依頼なのだから文句は言えないが、せめて埃を払ってはくれないだろうか。または妻戸を開けて風を通しておくとか。いや、怖くてできないから呼ばれたのだろうけれど。

 そう胸中で愚痴と諦めを並べる。

 陰光は所謂陰陽師と呼ばれる術者だ。正確な位としては陰陽師ではないが、それでも腕前としては足りているのでこうして個人的に依頼を受けることがある。

 ――塗籠から異様な声がする。

 貴族高科清政(たかしなきよまさ)からそう依頼を持ちかけられたのは昨晩のことだった。

 声にしては不明瞭で、しかして音と呼ぶには無機質でもない。不気味で恐ろしいから見て欲しい。そんな内容だ。

 よくある話だ。

 大体は気のせいか、または害意のない妖怪変化たちが遊んでいるのを運悪く聞いてしまった。そんなのが常だ。

 依頼内容としては楽でありがたい。ちょっと様子を見て、妖怪変化なら話し合って遊び場を変えろ、で済む。

 今日もそうだろうと燭台で揺れる炎を一瞥する。

 棚には何かの書簡が並んでおり、唐櫃や葛籠が数個置かれている。塗籠とは本来、寝所にしたり、宝物を保存したりするものだ。ここでは後者なのだろう。

 視線を上げて天井を見る。剥き出しの梁なども見るが姿はない。

 何の?と問えば妖の類だ。気配もないから運悪く説は否定された。陰光の気配で逃げた可能性を考えたが、そういう奴等は好奇心が勝って逃げない。さらには微々たるにしろ妖気が残るものだがそれもない。

 ならば隙間風か。高科の家は下級貴族だが細く長い。前の都の頃から続いている家柄だ。遷都がなされてはや六十にはなろうか。そろそろ家屋もどこかしら傷みだしてもおかしくはない。壁の四隅の何処かだろう。

 天井から視線を落とす。と、唐櫃の一つが目に止まった。正確にはその上だ。

 箱がある。装飾のない簡素な木の箱だ。

 何故だろうか。やたらと目が離せない。

 息を飲んだ。

 これは、不味いやつかもしれない。

 直感がそう告げる。

 だが、調べないわけにはいかない。調べなくてもこれは持ち帰り案件になる。ならば今開けてしまおう。下手に持ち歩くのも恐ろしい。

 意を決して箱に手を伸ばした。

 装飾のない箱は随分昔の物なのか年季が入って見える。大きさは横に三尺より少し大きいくらい。細くはないが比率的には細長い四角だ。

 蓋に手をかけ、そっと持ち上げた。

 中には古びた布と紐があった。いや、何かを巻いた布と紐だ。形状は少々見慣れない。しかも布のせいでさらによくわからない。

 それを括る紐は太くしっかりしている。その紐には何かがついている。暗いが目を凝らす。橙の灯りの下ではあるが、僅かな翠(みどり)の光沢が伺える。翡翠のように見えた。それが何か異様なものを象っている。

「なんだ、これ」

 全く見慣れない。何かの顔だろうか。

 思わず手を伸ばし、指先が触れた瞬間。指先が急速に冷えた。

 反射的に背後に倒れ込んだ。勢いで烏帽子が吹き飛び、力の加減などしてやれないから強か後頭部を床に打ち付ける。

 痛い。痛いがそれどころではない。

 倒れ込んだ瞬間、鼻先を何かが掠めたのだ。

 胸の奥が冷える。血の気が引いて、どくどく、と脈打つ速さが上がる。

 倒れたまま目があるものを捉えた。

 体は牛のような巨体。頭部には曲がった角。口元からは牙が生えている。牛に似た体躯だがその蹄の先には長く延びた上に鋭い爪らしきもの。足の付け根に眼があり、橙の灯火に照らされた顔面は醜いひきつれた人のそれだ。

 その身体から禍々しい力が発せられている。

「うっ、そだろ」

 掠れた声で驚愕を口にする。

 こんな異形を知らない。先程までこんな力を発現させていない。むしろ何処から出てきた。

 疑問が駆け巡るが、直ぐ様体勢を立て直し起き上がった。異形の爛々と輝く赤い人面の瞳は明らかに陰光を狙っている。

 ここには陰光一人しかいない。

 高科本人は勿論、家人も来ないように人払いさせたのは正解だった。

 直衣特有の無駄に広い袖を払って刀印を組む。

「……意思の疎通できるか?」

 問いとも独り言もとれる中途半端な呟きが落ちる。

 もしかしたら意思の疎通ができたりしないだろうか。淡い期待と、いや無理だろ、という複雑な思いがそうさせた。

 だが、期待は期待でしかない。

 異形は空中にいながらに足を掻いた。突進するつもりだ。

 目を瞠り、直ぐに気を高める。

「禁!」

 刀印を横に凪ぎ不可視の壁を作り上げる。次いで異形が突進してきたが、壁はそれを許さない。もんどりうつように弾き返された。しかし、倒れることはなく、憎々しげに異形は陰光を睨み付ける。

『――』

 不可思議な高い声が何か口にした。異形のものだ。

『――!』

 絶叫と共に異形は再び突進してきた。

 壁がたわみ、皹が入る。

「勘弁してくれよ」

 声がひきつる。

 壁を二発でこうする異形など対峙したことなどない。 そもそも場数がまだ数年しかないのだ。陰光は顔もひきつらせた。

 三発目は持たない。

 新しい壁を作るか、攻撃するか。逡巡している時間はなかった。

 異形は大きく立ち上がり、今度は鋭い爪を振り上げてきた。突進前提で考えていたせいでそれには対処が間に合わない。

 身体を退かせようとしても背後には唐櫃と箱があり、これ以上は退くこともできない。

 鋭利な爪が壁に下ろされた。耐えられなかった壁は高い破壊音を立て砕けた。爪は その先にいる陰光にも襲い掛かる。

 眼前に迫り来る刃にも似た爪から目が離せない。

 殺される。

 そう思った刹那、視界を橙の煌めきが染めた。

 突然の光に目を閉じる。

 瞼の向こうから鈍い音と咆哮があがる。次いで重くたわむ床の軋む音。

 何かが起きている。自身にとってはいい方向で。

 そう感じてなんとか目を開ける。

 そこには人がいた。

 陰光より数歩前に立つのは、肩にかかる程度の髪に、見慣れない衣服。背は陰光より少し低いだろうか。両手には古びた布に巻かれた剣が握られている。

 刀ではない。刀にしては幅が広い。こちらも見慣れないものだ。

 その姿に唖然とする。その先で異形が横倒しになっているのが目に入った。視線を向ければ陰光を引き裂こうとした爪が根本近くで絶たれている。

 察するに眼前の人物が切り落としたのだろう。

 灯火が反射して刃が煌めく。先程の光はそれだった。

 異形がなんとか立ち上がる。男もそれに合わせるように剣を構えた。

 禍々しい力がうねるのがわかった。

 陰光は瞠目し、叫んだ。

「伏せろ!」

 眼前の人物を抱き付くようにして倒れ込む。

 同時に高い嬰児のような歪な咆哮があがり、妖力が衝撃波となり叩き付けられた。凄まじい力が轟音を伴って壁を穿つ。

 木や壁だったものがばらばらと落ちていく。開放的となったそこには暗く紅い光が射し込む。いつの間にか逢魔が刻を迎えていた。

 唸り声をあげ、異形は穿った壁へと駆け出した。頭上を禍々しい妖気と共に風が走る。

 走り去った直後、隣にいる存在が跳ね起きた。続いて陰光も起き上がる。

 穿った壁の先にはもう異形の姿はない。

「逃げられたな……」

 自身としては幸か不幸かと言えば、あの状況下だ。幸に近い。

 だが、逃げられた以上は周りに被害がおよぶのは明白。面倒事になったのは確か。目先の安全が確保できたからとりあえずはと幸に戻る。

 死ぬよりは余程いい。

 それから視線を手前に移動させる。

 剣を持つ存在は異形の逃げた先を見つめていた。

 追い掛ける様子はない。空を駆けられれば流石に無理だと判断したのだろう。

 深い緑の衣はやはり見慣れない出で立ちだ。唐の衣に近いように見える。袖は広いが直衣のように邪魔な程ではない。腰帯の少し下辺りから切れ込みがあり、丈の長い衣の割には動きやすく見える。下履きもすっきりしている。剣を持つ以上は戦闘を意 識しているのかもしれない。

「助けてくれてありがとう」

 立ち上がり、まず告げたのは感謝だった。

 目の前の存在がいなければ真っ二つにされていたかもしれない。今更に、恐ろしい事が起きていたのだと実感しふるりと身体を震わせた。

 声に反応してゆっくりとそれは振り返る。柔らかそうな髪がふわりと揺れた。その顔は思うよりも幼く、整った男のものだ。陰光と同じか下くらいだろうか。黒い瞳が陰光を映し、数度瞬いた。

 かち合った瞳は何処か朧気ているような気がした。

 そこにどたどたと足音が響く。

「橘殿!今の音は!」

 清政が血相を変えて走ってきた。次いで部屋の惨状に顔色を真っ青にさせた。

「あー……ちょっと、伺いたいことがあるのですが」

 陰光は苦笑いしながら清政を部屋から押し出した。



 一室には清政と陰光が向かいあって座っていた。陰光の後ろには剣の男が控えるように佇立している。

 辺りは日も暮れて暗くなり、部屋には火が灯されていた。

 陰光は清政を見る。

 まさかの塗籠破壊となり、顔はまだ青い。年はまだ三十前の働き盛りだが、痩せ気味のせいでより一層顔色が悪く見える。

「塗籠に保管していたものは把握していますか?」

 そう切り出すと、清政は小さく首を横に振った。

「全ては流石に……。特に唐櫃の一つは全く」

「それは何故?」

「触るなと……数代前より言われてからは」

「本当に一切?」

 矢継ぎ早に質問されて清政は僅かに額に汗をかいている。

 小さく開かれた口を数度開閉させてからまた答えた。

「確か、唐渡のものと」

「唐渡?そんな貴重なものをお持ちで?」

「先祖に、陰陽師として遣唐使に携わったものがいまして」

 それには陰光は目を丸くした。

 陰陽師の家柄だとは知らなかったのだ。

 清政はその反応にさらに首を横に振った。

「それはもう百年以上前でして、私も含め今の高科の者にはそんな力は誰も持ち合わせてはいません」

 きっぱり否定する。確かに今の高科は誰一人陰陽寮に属していない。実際力があれば陰陽生の陰光を呼ぶこともなかっただろう。

 時代の流れか。才能か。

 今そこはいい。

 陰光は顎に指を置いた。

 そのご先祖様が何かの因果で持ち帰ったものに何かが宿っていて、それが極最近になって活動した。

 そういうことなのだろう。

 だが、問題はそのご先祖様は何を考えてどんなものを保管したのだろうか。

「あの」

 清政が恐る恐るという体で呼ぶ。

「はい」

「何が、いたのでしょうか」

 正体不明となればやはり怖いだろう。だが、知ったところで何もできないだろうに。

 どちらにしろ、陰光も全て分かっているわけではない。

「今はなんとも。ただ、多分ご先祖様が保管していたのは剣です」

「剣?」

 反芻されれば首肯し、振り返った。その先に剣の男がいる。

「二振りの対となる剣ですね」

「そこにあるものですか?」

 清政も陰光の背後に視線を投じる。が、視線の先は陰光より遥かに低い位置だ。

「箱の中に納められていました。その箱に翡翠の何かもありましたが、それに異形が宿っていたかと」

「異形が!」

 さぁっと血の気を引かせる。

 陰光はまぁまぁ、と向き直り両手で制するようにする。

「祓いと結界も行いますので安心してください。それと一緒に入っていた剣は私に譲って頂いても?その方が安心ではないですか?」

「はい!是非ともお願いします!」

 力強くお願いされ、苦笑いを浮かべる。

 確かに不安要素ではあるがそこまで力強くしなくとも。とは流石に言葉にはせずに立ち上がる。

「それではまた塗籠の方に失礼します。物忌みの日にちは追ってご連絡します」

「分かりました」

 清政が深く礼を取るのを見てなんとも言えない気持ちになる。

 肝心の異形には逃げられている。だが、深く交戦するわけでもなく逃げた以上は居座る理由もないはずだ。この邸にこれ以上の異変はないと考えていい。ならば、わざわざ余計な心労も作る必要はないだろう。

 塗籠に足を進めると剣の男も後ろからついてきた。

 その手には何もない。何処かに隠しているのか。そういうものなのか。

 考えながら塗籠に入っていく。

 穿たれた壁から風が入ってくる。壁に関しては既に仕方ないと詳細を伝える前に言われているので修理に関しての不安は持たなくていい。

 室内にはまだ異形の妖気が残っている。

 手を広げ、二回柏手を打つ。乾いた張りのある音が短く響く。

「響くは神の音。音は霊。澄み渡りて響き、祓い浄める」

 再び柏手を打つ。

 陰光を中心に清らかな力が波紋となり、妖気を浄めていく。

 男は瞬いて陰光を見た。

「仮にも陰陽師だからな。まぁ、肩書きは陰陽生だが」

 肩を竦めてみせる。

 橘陰光はまだ陰陽生だ。未だ習熟する必要にある身分である。だが、その内に宿す力は群を抜いており、陰陽寮に属する陰陽師たちより優れていると思われている。

それに加えて、ある話が今回のような個人的な依頼となって舞い込むことになった。

 視線を塗籠内に走らせる。軋み、破損した床。棚にあった書簡は辛うじて落ちてはいない。唐櫃や葛籠も無事だ。どうやら一点集中の衝撃波だったらしい。当たっていたらどうなっていたか。軽く身震いしてから床を見渡す。

 探しているのは翡翠だが、何処にもない。宿っていたのなら器の翡翠は落ちているのではと考えたのだが、宛が外れてしまった。

 それを元に異形を探すこともできただろうに。

 しかし、ないものはないと割り切る。

 次に入っていた箱と唐櫃を見る。箱は被害を受けてしまい蓋はどこにもなかった。入れ物自体は残っているが、中身がないただの空箱でしかない。

 ふと、陰光は気付いた。

 清政は唐櫃に触っていないと言っていた。しかも数代前から。清政がそう命じられているなら家人も触りはしないだろう。

 なら、この箱は何故唐櫃の上あったのだ?

 疑問に額に皺が寄る。

 箱を退かし、触れてはならないと言われた唐櫃を開ける。

 中身は幾つかの衣と花器らしきものがあるだけで、箱があっただろう場所がぽっかり空いていた。一応集中して他のものを見るが何かしらの力は感じられない。

 箱は確かに唐櫃に納められていた。

 何者かが箱を出した。

 だが、誰が?

 振り返る。

 男と目が合うが小さく首を傾げられた。

 高科の誰かでなければ普通に考えて一番可能性が高いのはこの男だ。だが、そうではないだろう。

「お前、自分から動けたか?」

 一応問うてみる。

 男はゆっくり瞬いてから首を同様にゆっくりと横に振った。

 否定を示すそれに陰光もやはりと思う。

 剣は布に巻かれていた。更には紐で括られ、その紐に翡翠があった。

 動きようがないのだ。何故ならこの男は剣なのだから。

 陰光には見えていた。剣に同化した魂が。付喪神(つくもがみ)ではない。この男は双剣に宿った人間の魂なのだ。

 どういう経緯があるかは知る由もないが、依り代の双剣は布に巻かれ、さらに紐で括られて封じられていたのだから動くことは叶わなかった。

 ただ、そうなると箱の動きよりも気になるのは翡翠との関係だ。

 翡翠は紐に付属していた。つまり翡翠は双剣の封じの一つだったのではとも考えられる。翡翠がなくなったことで男も活動できるようになったと思えば現れたことにも納得がいく。

 だが、その翡翠が異形になってしまった。封じが異形になるなど考えられない。双剣も、男がいる以外に変なものは感じられない。

 そもそも、あんな納め方をされていたがこの二つが実は全く無関係だったとは言い切れない。

 結局のところ、わからない。

 当事者たる男に聞くのが手っ取り早いのは分かっている。

 だが、少し疑念が陰光にはあった。

「なぁ、お前は一体なんなんだ?」

 男はしばし陰光を見つめ、それからまたゆるりと首を傾げた。

 男は現れてから一度も口を開かないのだ。しかもなんだか先程から挙動が遅く、色々不安になってくる。もしかしたら言葉すら通じていないのではないだろうか。そうなると色々困る。主に意志疎通面で。

 陰光はしばし沈黙し塾考する。

 その間も男は陰光を見つめる。

 沈黙が続く中、一度手を叩いた。

「分からん」

 真面目な顔でそう呟く。

 分からないことが分かった。というところで一度決着をつけた。

 塗籠内を見ても他に特筆するようなものはない。書簡の中に何かあるかもしれないが、双剣や翡翠についてなら唐櫃の中に納めている可能性が高い。棚に並べられたも のからの情報は薄いだろう。

 となれば、もはや此所には用事はない。

 邸の周りに軽く結界を張ってやればここでの仕事は終わりだ。

 息を一つ吐き、男を見返す。

 ぼんやりとした様子の男が立っている。所在無さげというよりもただそこにいるだけだ。

 持ち帰ると話した以上はこの男も引き取ることになる。

「とりあえず、ついてきてくれ」

 男は陰光を見つめ返し、小さく頷いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る