遅効性タイムトラベラー
宮葉
第1話
誰の脳にも呪いは存在する。忘れたくても忘れられない、酷く苦い記憶たちがいる。
私にとってのそれは、土管に住む美少女。もっと具体的に言えば、
過去はどこまでも追いかけてくる。蛇のように、影のように、雨のように。
それでも私は願ってしまう。ポール・マッカートニーがかつて歌ったように。
「それでも私は、昨日という日を願ってしまう」
――西暦二〇二一年八月三十一日、午前五時。
有給を取得しているにも関わらず、私は出勤日よりも早く目覚めてしまった。
コーヒーを飲んで、この頭痛を消し去りたかった。けれど脳は悲鳴を上げ続ける。寄生虫が脳漿を食い荒らしているのかと思うほど、それは長く続く。
なぜなら今日はとても大切な一日だからだ。私とカノンとで交わした約束の日。
だからこんなにも目覚めが悪いのだろう。ベランダに出て
消えろ。消えろ。小さな声で呟きながら。
全ての始まりは西暦二〇一五年四月二十日。この時、私は彼女と出会った。あるいは、出会ってしまった。
――西暦二〇一五年四月二十日。高校三年生の春。
学生にありがちな思考の一つとして、昼食は誰かと一緒に食べるものという強迫観念がある。私達は独りであることを病的に嫌う。それは校舎、あるいは教室こそが世界の全てであると錯覚してしまう事に起因するのだろう。
しかし三年生で初めて同じクラスになったカノンは、チャイムと同時にお弁当箱を取り出して、いつもどこかへと消えていた。私は日によって弁当だったり食堂だったりしたので、昼食に使われる場所は大体把握している。にも関わらず、彼女はそのいずれにもいなかった。
これまでまるで面識は無かったが、彼女の行方を私は気にしていた。もしもトイレで食べているのだとしたら、流石にそれは止めてほしい。良心によるものでなく、一度その可能性に気付いたせいで、昼食の度に脳裏をちらつくようになったからだ。
だから私は彼女を尾行する事にした。
こそこそと後ろを付けていくのは存外楽しい。スパイ映画にやって来た気分だ。
カノンはすたすたと階段を降り、真っ直ぐグラウンドへ向かった。上靴のまま。そういえば玄関周りに異常なほど砂の溜まる事が多い。こいつのせいか。
グラウンドの隅の隅には、何故か横倒しにした土管が置いてある。理由は分からない。工事には不必要だろうし、置いてあって得をする事もない。けれど一本だけそこにあり続けた。
その中へと彼女は潜り込んだ。トイレじゃなかった、という安堵と何故そんなところへ、という疑問とが同時に湧き上がり、私は引き返すか中を覗くか迷った。
誰もいないグラウンドの片隅で立ち尽くすこと数秒。春風に髪がなびき、肩にかかるようそれを落ち着かせる。こんなところを誰かに見られたら恥ずかしい。そう我に返り、もういいやと中を覗いた。
彼女は土管のカーブにぴったり背中を預け、脚を組んで対角線上に乗せていた。そしてお腹にお弁当箱を広げ、卵焼きを一つ頬張った。
「あの……」
何と声をかけたらいいか分からなくて、特に意味もない二文字だけが零れた。
彼女はくりんと丸い瞳をきゅるっとこちらに向け、卵焼きを飲み込んだ。
「何してんの?」
と尋ねたのは私ではなくカノンだ。
「いや……私が訊きたいんだけど」
そういえば昼食を買っていないとここで気が付いた。手ぶらで来たし、何なら私も上靴のままだ。最悪、今日は完全完璧にカレーの気分だったのに。今から食堂に戻ったって相当待たされる。
「もしかして、ここ使う?」
そう聞いて彼女はもう一つの卵焼きを口に含んだ。左利きなのか。卵焼きはあと六つある。どれだけ食うつもりなんだ。
「使わないけど」
「じゃあ何」
「あー、特に理由は無いんだけど……好奇心というか、自分のためというか」
ペットボトルを取り出し、彼女はそれをぐいっと傾けた。ごく、ごく、ごく、なかなか止めない。もしかして一気飲みか。その期待に応えるように、べこんとプラスティックが凹んで中身は空になった。
「よく分かんないけどさ、私の後ろを歩いてたってこと?」
「まあ、そう……ごめん」
「別にいいよ。でもなー、そっかあ」
でもの後に続く言葉が知りたくて、私はクエスチョンマークを浮かべた。
「同じ思考回路の人と出会えたのかなって思ったから。それかノーヒントで探し当てたか。どっちかが良かったな」
私の乏しい頭では、読み取らなければならない行間が多すぎる。何を言いたいのかピンと来ないのだが、隠れんぼをしているつもりだったのだろうか? 誰かが鬼になってくれることを期待して? 全然分からない。
るーるるー、とよく分からない歌を口ずさみながら、彼女はお弁当箱をぱこんと力強く閉じ、土管に置いた。
そして私がいる方と反対側の穴に手をかけ、
「おいしょー」
という掛け声と共に、逆上がりのような格好でくるりと身体を浮かせた。驚いて土管の上を見ると、彼女は体操選手のように両手を広げてポーズを決めていた。
「残り全部食べていいよ」
「は?」
「お昼持ってきてないんでしょ。良ければ食べて」
「でも、お弁当箱は――」
「お弁当箱って! あんた見た目の割に言葉遣いはしっかりしてんだね」
見た目に関しては仕方ない。高校生はおしゃれに現を抜かしてナンボだ。たとえ受験を控える三年生とはいえ、いや三年生だからこそ、髪の毛を巻いたりシュシュを集めたりしてストレスを発散しているのだ。
「う、うるさいな。仮に貰うとして、いつ返せばいいの」
土管からびよんとジャンプし、空中で一回転して着地する。彼女は運動できる子なのか。体育の時には一度もそんな素振りを見せなかったはずだ。
「返したかったらさ、私を探して。またどっかの隅っこでご飯食べるから」
「本当に隠れんぼするの……」
「当たり前でしょ、退屈したくないもん。それじゃよろしく……えーと、名前なんだっけ。ごめんねちょい待ち」
「別に面識無いんだし、覚えてなくても仕方ないよ」
「いやいや、あんたのは覚えたんだよ。私カノンでしょ。カノン……パッヘルベル……遠い日の歌……」
カノンはパッヘルベル作曲の有名な楽曲だ。遠い日の歌はそれをモチーフとした合唱曲。音楽の教科書に載っていたのを思い出した。
しかしそこからどう私の名前に繋がると言うのか。
「遠い日の歌……遠い……悠久……あ!
「……どんな覚え方してるの」
呆れた私の顔を見て、彼女はにかっと笑った。
その時の彼女の笑い声を、私はずっと忘れなかった。
だって余りにも特徴的な笑い方だったから。
文字で表現できないのが悔しいところだ。
彼女はいつだって枠組を逸脱していた。
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