その人物は頭だけを隠す
「ふぅっ……」
潰乱状態の敵を眺めながらクロは額の汗を拭った。どうやら勝敗は決したらしい。
とはいっても敵を壊滅させたわけではないし、討ち取った数もほとんど見込めない。
前方のゴアとヴァン、そして率いられる軍団が手綱を緩めるように突撃の姿勢を解き、やがては停止する。誰もが森へと逃げ果せる敵の姿を眺めていた。
クロはその様子を確認するように馬を進める。気づけば、体内の魔力は大半が失われていた。首元にまで延びた魔法陣は自身で確認しようもないが、研がれたような八重歯は舌先で触れると普段のそれに戻りつつある。
もう少し長引けば、軍団の維持も限界を迎え黒色の軍団十万が煙のように姿を消してしまっただろう。そのあとにはわずか一万のアストリア兵しか残されないことになる。
血を見るのは明らかで、その瞬間アストリアの敗北と後日まで続く城下での生殺与奪は敵の欲しいままにされていた。
戦うだけなら今より少ない兵数で可能だったものの、クロは数で圧倒することを選んだ。
アストリアの召喚術師としてクロは役目を全うした。数での勝敗に拘らなければ、クロはこの戦いに勝ったのだ。
一介の兵士でもない、自分が。
(俺には、ヴァンみたいに剣を扱う術はないからな)
今はお飾り程度の剣は履いているが、結局抜くことはなかったし、抜いたところで役には立たない。誰かのように槍を巧みに振り回す技量もなければ、体力にも乏しい。
自らにあったのはこの魔導書だけだ。
正確には、魔導書に描かれた絆だけ。
そして何より、膨大な魔力を預かってくれたリアがいてくれたからこそ。
そう、クロにはリアがいた。彼女の存在無しに、クロと、この国は守られなかった。
「リア……」
呟いてみても今クロの傍らには誰もいない。彼女の喜怒哀楽の表情までもが見えるようで、先ほど見た幻のようにありありと思い出される。
「また、会いたいな」
ぽつりと滑り出る。次に会えるのが何年後になるかはわからないが、クロはリアの求める答えを再定義しなければならない。
――いや、もうできているのか。
森手前で見張るようにたむろする第三軍団を眺める。広々とした草原をひとり闊歩すると達成感から心がすくようで、同時にぽっかりと穴が空いたような空虚さも胸に去来していた。
とはいえ、そろそろ魔力のほうが限界に近い。眼前の第三軍団は置いておくとして、そろそろ後背の第四から第七までの軍団を戻そうかと考えた、その時だった。
「覚悟っ!」
クロの死角からの叫び声、突如として現れた兵士――。
敵の伏兵だった。草原の丈の長い草を頼りに身を潜め、クロの命だけを狙うために迂回してきたよう。
敵は幸いにもひとりだったが、すでにその刃は鞘に収まってはいなかった。
抜き身の刃がクロへと差し迫る。クロは慌てて魔導書へと手をかけたが、略式召喚する間もなく敵兵の剣がクロへと襲いかかり、かろうじてクロはその剣先を躱す。
だが馬のほうに当たったようで棹立ちになった。その反動で、クロは馬の背から放り出される。ぎらぎらと殺意を目に滾らせた敵が迫るなか、慌てて地面から背を剥がし魔導書を求めるも、手の届かない距離にある。遠くで、ヴァンがこちらの異変に気づいて駆け戻ってくるのが見えた。
敵兵の動きは戦いに慣れている。顔つきからして若輩とはいえず、歴戦ぶりが伺える。クロはせめて応じようと右手を剣の柄に手を掛けた。
――力を込めるが抜けない。転んだ拍子に魔導書のベルトが引っかかってしまっていた。
敵兵の間合いは残りわずか。
相手は剣を高々と掲げている。
ヴァンが迫るが、間に合わない。
万事休す――。
クロは覚悟して、目を閉じた。
ざくっ!
何かが風を切る音と、刃を立てた音が鼓膜を震わせる。
それと――、
「ひぇっ!」
短い男の悲鳴。恐る恐る目を開けると、襲いかかってきた敵が足をまごつかせ背中から豪快に転んだ。何かを避けて、一歩も二歩も引き下がった格好だ。
気づけば、クロの視界に棒状のシルエットが入り込んでいる。それは今しがた転んだ敵兵との間に割り込み、どうやらそれを避けての敵兵の動きだったよう。
「これは……」
クロにはその長い棒状の物に見覚えがあった。いや、物扱いしてはその棒状の物体に怒られるかもしれない。
槍先からは、一つ目がクロを睨みあげていた。
魔槍マイムール――。
「でも、なんで……」
クロは呟くと、戦端が開かれる前の幻影を思い出した。
振り返ると、遠くの城壁では成り行きを見守っていたような兵士たち。その顔ぶれがやや高い一点に注がれている。
防壁として一段高く積まれた石垣の上に佇む赤いドレスの存在が、今まさに投擲後の様子から、安心したのかぺたんと座り込み、やがて慌てたようにそこから下りては隠れる姿が見て取れた。
クロの知る限り、あんなに綺麗な赤い瞳と髪をした女性は、ひとりしかいなかった。
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