アスモデウスと娘

 リアが見るまいとしていた方角からの声は、隣で会話する程度の声量に反して明瞭に聞き取れた。

 おそらく魔力の補助を受けているからだろう。


「近くで堂々と喋ればいいのに。無駄に雰囲気ぶっちゃって」

『……何か言ったか?』

「別にっ!」


 最初の言葉は呟くに留め、短い返事には魔力を込めた。

 机の向こう側の人物はわずかに気圧されたようで、気配から読み取れた。


 リアはグラスを手に取り、豪快に煽る。顎をあげたので後頭部が背もたれに当たり、身長以上の豪奢な背もたれはひどく窮屈に感じられた。


『……話が途中であっただろう? たしか、そう、グレムリンがいた街から戻った後からだ』

「……わたしが買い出しに行ったら、悪魔憑きのトカゲ男に襲われたわ。たしか、ヴァルファーレの眷属だったかしら。剣を持っていて、悪魔殺しの剣ってクロが呼んでいたわね」


 リアは極力話をまとめる。会話を楽しむつもりはなく、言葉を飾るのは億劫なだけだ。代わりに切った肉を口へと放り込み咀嚼する。異界に住む悪魔の多くが肉を噛めば「硬い」と文句を垂れるが、どういった経緯で入手したのか不思議なほどにこの肉は柔らかい。

 とはいえ、リアはそんなことで相手に礼を言う気持ちには到底なれなかった。


 卓の向こう、ワインで喉を潤す気配。

 わずかに間があり「ふむ」と息が漏れ聞こえた。


『シャムシール・エ・ゾモロドネガル、か。そんなものが人間の国にあったのだな』

「そうそうそれそれ。そのシャムなんとかね。体は動かなくなるし傷は癒えないし、おまけに魔力を持っていかれそうにもなって散々な目に遭ったわ。殺されそうにもなったし」


 がたん、と椅子を蹴る音。


『なんだと……。そうか、だからか。お前が戻ってきたとき、その傷跡を城の者に見せたが……道理で。それで、その男――取り憑いた悪魔はどうなったのだ?』

「さぁ? わたしが気を失っている間にヴァンの部下が連れて行ったらしいけど、その後のことは知らないわ。ただ、いつの間にか悪魔の憑依は解かれていたみたい」

『ということは、その悪魔はこちらの世界に戻ってきているのだな?』

「そう、ね? そうかもね。正確には悪魔の精神だけを喚び出していたみたいだから、肉体はもともとこっちの異界にあったのでしょうけど」

「よし。軍を動かして身柄を捉える。一個師団で十分であろう。いずれヴァルファーレの奴との全面戦争も辞さぬ。一族諸共皆殺し――」

「やめて」

『はい……』


 憤懣やるかたなしと声を荒げた主は、リアからの一言でしおしおと萎れていく。

 向こうに座する相手に物怖じすることなくリアは淡々と語る。他人が見れば恐々として死さえ覚悟するような会話を、リアは平然と続けていた。


 その相手は、大罪色欲を司る悪魔にして魔導原書ゴエティエに記された七十二の悪魔のうち、三十二に列記された大王。


 その名も、アスモデウス。


 今は状況からして人間の姿を借りているのだろう。好んで闇に溶け込んでおり、その手元と時折見える口元は一見血色の悪そうな紫ながら、艶やかな光沢を宿している。


「確かに気持ち悪かったけど、召喚に応じて使役されていただけよ。悪魔に罪はないわ」


 何故こうも自身を傷つけた輩を庇わなければならないのか、そう思わないリアでもなかったが、アスモデウスが軍隊を動かすと言えばそれは現実になってしまう。


 そもそも、このテーブルも軍団長が一堂に会するためのものだ。だからこそ、こんな長いだけの卓を親子の聖餐の場にするなど娘のリアからすれば甚だ理解に苦しむ。


「それよりも、その後の方が大変だったわ。シャムシール……えー……さっきの魔剣で集められた魔力で、新たな召喚獣が喚び出されたの。ただ喚び出した召喚術師――ローブの男のほうは魔力が足りなくて、結局死を選んだみたい。わたしから奪うはずの魔力が頼りにできなくて、代わりに自分の魔力と命をチップにして召喚をしたそうよ。クロの推測だけど、召喚された者と必要な魔力が釣り合っていないって言ってたわ」


 リアは、残りの料理には手をつけずにいた。冷めた肉にはどうにも手をつけづらい。


「だけど、だからこそ厄介だったわ。召喚主が死んだあとの召喚獣は手綱のない暴れ馬と同じね。もちろん馬なんて可愛いものじゃ全然なかったけど。――でもね! クロはすごいのよ! ううん、クロはいつでもすごいんだけど、彼が召喚したあの悪魔も褒めてあげたいわ。たしか、名前は――」

『エリゴスだ』

「そう、エリゴス! すごかったわ!」

『……あいつとは旧知でな。よく知っておる。確かに並々ならぬ騎士だ。人間に比べれば随分と巨体であったろう』


 アスモデウスが苦笑に鼻を鳴らす。どうやらころころと変わるリアの表情に対する一笑だったよう。

 リアは幼子扱いされたような羞恥を覚え、身体を椅子に戻しては咳払いをした。


「そうね。黒馬と一緒に召喚されていたし、駆け出すと大地が揺れたわ。そばにいたゴアが誰かにかしずく姿なんて初めて見たもの。しかもクロの魔力がもう残り少なくて、敵の暴竜を『一分で倒して欲しい』ってお願いしたら『十秒だ』ですって。やっぱり戦争の王よね、六十もの軍団を率いる大公爵は伊達じゃないわ」

「な、なぁリア? パパはもっと多くて七十二もの軍団を従えているのだぞ? すごくはないか? かっこよくはないか?」

「知らないわよそんなこと」


 そのとき雷鳴が轟いた。刹那に照らされた部屋に、奥には父たるアスモデウスの姿。一瞬ながら、瞠目して固まった表情がなんとも笑えた。


 本来の姿は人間から大いにかけ離れている。頭部は三つに分かれており、互いに顔を寄せ合っているそう。それぞれ雄牛、雄羊と、それに文字通り鬼の形相をしており、蛇の尾とがちょうの足に、体躯はイフリートをゆうに超えるとリアは聞いている。

 そう、聞いているだけで、実のところリアは父の正体を見たことがないし、見たいとも思わなかった。


 つくづくそんな状態の血を受け継がなくてよかったと、リアはため息を零す。たとえ人間時のアスモデウスの血を継いでいようと、この身体には悪魔の血が流れている。だからこそ過去からの盟約に縛られ、リアはどちらの世界からもつまはじきにされながら生きてきた。


「でも、そう……。クロはエリゴスの召喚で限界だったのよね。彼の魔力は底をついてしまって、そこに来て西からの侵攻に備えなければならなくなった」


 西国からの侵攻時点で、クロの魔力は払底していた。むしろローブの男始め、クロという存在を知る人間からの策略だったとさえ今は考えられる。

 いまはそう冷静に理解することができた。


「わたしは、ある意味必要だった。必要とされていた。でも、その結果がこれ……」


 目前に迫る敵軍に備え、リアの中に蓄えられた魔力が求められる。クロの本意は別にして、頼らざるを得なくなったのは事実だった。


 召喚術師と被召喚者。互いを結ぶ魔法陣に加え、かつての始祖王が定めた盟約が存在する。国で定められた法律のようなもので、しかも術法による強制力が働くものだった。

 人間から悪魔への魔力は本来不可逆。その逆を行うことは明文化された盟約違反ヴァイオレーションのひとつだ。


 ――結果、リアは異界へと強制送還され、クロと離れ離れになってしまった。


「わたしが知っているのは、そこまでね。そこで、物語は終わり……」


 リアはぽつりとつぶやき俯きながら、クロとの最後の瞬間を思い出していた。



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