変質者は踊る
「――悪魔の匂い」
ここは大通りから遠い裏道で人影はない。街の小路は女性が歩くには危険だが、いざとなれば対処できるリアだからこその抜け道で、だが人以外の気配があるとなれば話は違う。
「人の匂いも混ざってる。……でも、人と一緒にいるのとは違う」
悪魔の匂いに、人間の匂いが綯い交ぜになっている。先日、サンクトラークで追いかけた白衣の男と似たような配合で、すなわち取り憑かれた人間の臭気なのだろう。
だからこそ慎重に進む。悪魔が悪辣だなんて他でもない自身が言うつもりはないが、目的がわからない以上捨て置くこともできない。人気のない道で呑気に座っているだけのはずもないのだから。
小路は左右が壁に囲まれたなだらかな下りで、突き当りは右に曲がっている。その手前に、左への脇道が見えた。おそらく、匂いの源流はあそこだろう。
すんすんと鼻を鳴らし嗅覚を尖らせる。悪魔の匂いが色濃くなっていくので、たぶん近づいてきている。リアの嗅覚は特殊だが、相手もこちらのことがわかって距離を詰めているようにも感じられた。
――と、妙な音とともに曲がり角の壁へ手が掛けられた。常人離れした長い爪で、そのあとに出てきたのはひとりの男。奇妙な音の原因はぺたぺたと鳴る裸足からだったよう。
三日月型の口からは、悪魔に憑依された人間の特徴で不自然なほど鋭利な犬歯が見える。おまけに爛熟した三白眼が見開き、頭髪はいっさいがなかった。
土気色の肌が際立ち、目や口の白さが嫌に目立つ痩身の男。ボロ切れのような草色の布を全身に巻き、服も着ているようだが擦り切れた袖は冬空には寒々しい。
「――あなた、誰?」
人間とは別の嫌な気配がする。臭いでは計り知れない嫌忌を直感的に感じとるリア。無意識に一歩を引き、そしてその場を去ろうと、もう一歩を引いたときだった。
「――っ!」
瞬間、リアの目の前を細い何かが横切る。
横薙ぎの一閃で、手元にあった紙袋が切られた。男が消えたように感じられたのは一気に距離を詰められたからで、そのまま隠されていた剣で襲いかかってきた。
「なんなのよ、もうっ!」
真っ二つに裂かれた紙袋を放り投げ、リアは後退をしながら魔槍を呼び寄せた。主のピンチを悟ったわけでもなかろうが、槍先根元の瞳は状況の把握に努めるようにぎょろぎょろと動かされている。
男が常人離れした脚力で地面を蹴り、リアの後背へと回った。今度は縦に振り下ろされた敵の剣を、リアはマイムールを背に回し器用に防ぐ。小路は槍を振るうだけの幅はなんとか確保されているものの、近距離だと明らかに敵の得物のほうが有利だ。それにも関わらず、男は一度間合いを図るように離れる。
幸いと、リアは槍を男に向けて突き出した。予想に反せず、男はするりと溶けるように槍先を躱すと、柄にまとわりつくようにリアとの距離を詰めては再度剣を振り上げる。
リアは魔力を糧として常人を凌ぐ身体能力を発揮できるが、それでも男の俊敏さを目で追うのがやっとで、攻撃を躱したつもりがドレスの裾が裂帛の悲鳴をあげる。
「くっ……せっかくのお気に入りなのに!」
リア自身も苦悶の声を漏らした。ドレスとともに脚にも血の線がうっすらと浮かんでいる。体勢を立て直しながら、再び槍の間合いを意識した距離を保つ。
一方の男は、顔面を伏せながら口からぬるりとした長い舌を出した。
「悪魔のくせに、血は赤いんだなぁ」
ねっとりとした男の声。その口元へ手元の剣が寄せられた。刃先には、今しがた切られたリアの血が付着しており、男はそれを舐めあげる。
生理的な不快感にリアは鳥肌が立った。それは男の態度に対するものであり、またその剣自体に抱く嫌悪感でもあった。加えて、直感が告げた嫌忌の理由を悟る。
切られた足の傷。浅いはずなのに、治りが遅い。それに、なんだか――。
「たしかに私は
「ご名答。それにしても、お前の血の味は悪くないな。悪魔の血は青くて不味いが、お前の血は癖になりそうな気高い香りがするぜ」
目の前の悪魔憑きは、自ら悪魔の権能を行使するものか、それとも他人に憑依させられ操られているだけ人間か。
情けを掛けていられるほどの余裕はないが、後者なら憑依された人間は被害者なだけかもしれない。
逃げるべきか――。そう逡巡していると、男が湾曲した剣を弄び、突如として刃先を自身の前腕へと突き刺した。
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