リア

 今朝クロを見送ったあと、リアは雨を厭って遅めに家を出てしまった。

 少々お腹も空いているところで、リアはおまけしてもらったりんごへと手を伸ばしては齧り付く。

 しゃくり、と心地よい音を奏でた。


(それにしても、いいなぁ……)


 小さな口を動かしながら、そんなことを考える。


 お互い本音で語り合う男女の姿。本音というには店主のほうは軟派だし、語り合うというには奥さんのほうが一方的かつ強権だが、それでもリアからすれば羨ましい姿だ。


 リアの両親――父は悪魔の王のひとりで、母は生粋の人間だった。

 母の名は、サラ・エス・ブレーメル。気丈で美しい女性だったが、身分としては貴族でもないただの平民だった。

 異種族とはいえ身分差のある二人。おまけに、文字通り住む世界が違う。

 それだけが原因かはわからないが――というより十中八九、父親のせいで二人は別れてしまった。


 そんな二人の間に生まれたリアは、十三歳までを母の元で過ごす。ある日のリアに訪れた環境の変化は突然で、その日を境に異界へと身を移すことを余儀なくされてしまったのだ。


 きっかけは、おそらく母の死――。


 彼女の死を看取ったリアは、気づけば異界へと召喚されてしまっていた。

 血の縛り、約定による拘束、盟約の定め――。


 いずれにしても悪魔の血のせいで異界に閉じ込められてしまったリアは、気づいたとき見知らぬ城でひとり異界の者たちに囲まれていた。

 恐怖のあまりに昏倒してしまうリア。次に目を覚ましたときはベッドのうえで、眼前には悲しそうな困ったような表情をした父がいた。

 悪魔アスモデウスとしての本来の姿ではなく、以前から知る人間としての父の姿だった。


 それからリアは、異界で三年の月日を過ごす。異界へと引っ張られてしまったリアは、それからずっとひとりだった。

 父は良くしてくれたが、それでも周りの態度は冷淡だ。


 いくら悪魔の血が流れていようと彼女の見た目は人間であったし、一方で悪魔のような強靭な肉体を持ち合わせてはいない。白眼視されるまでに至らなかったのはまがりなりにも王の娘だからで、だからといって奇異な目が変わることはなかった。しかも悪くすれば人間としてのリアは悪魔からみればご馳走も同然だ。一度は魔力に飢えた父の部下に襲われたこともある。


 危ういところを助けられたが、その後の襲ってきた悪魔の処分をリアは聞かされてはいない。


 そんな日々であったため、リアは母と故郷を思ってひとり泣き暮れる日々を送った。

 槍術は、見るに見かねた父が元気付けるために近衛に命令して教えさせたものだ。当時のリアはただの少女に過ぎず、気を紛らわせるためとはいえもう少しマシなものを選べなかったのかと、今でも父に恨み言を言うことがある。


 人間の世界に戻りたい。リアの心は、望郷の念で締め付けられる。ずっと自身の身を置くべき場所から隔絶された感覚が、常にリアの心に付きまとっていた。


 そして、リアが十六になった年だった。


「あっ」


 思考の海に漂いながら、リアはふと足を止め、りんごを仕舞う。そこは服屋の前で、店先にはガラス越しに白いドレスが飾られていた。リアが普段好んで着るものとは異なり、最近の流行なのか裾が長く、なんだか女性らしいな、とリアは思った。


「こういう格好のほうが、クロの好みなのかな?」


 男の趣味はそれぞれと聞く。父からのドレスがクロへの有効打になり得ないなら他も試してみるべきかもしれない。リアはスカートの裾を掴みながらひらひらと振ってみた。


(べっぴんさんかぁ……)


 ガラスの前で、くるりと一回転する。

 リアの母は、それは綺麗な人だった。父の血よりも母の血を色濃く受けたことが純粋に喜ばしい。だから全く自覚がないかと言われれば嘘になるが、クロの反応を見ていると他人に誇るほどの自信が湧いてこないのも事実だ。


「クロは……もうちょっとわたしになびいてくれてもいいのになぁ」


 ガラスの前でひとときの社交場を終え、映る自分にべっと舌を出した。クロがあまり靡かないようなら、遠回しな方法でなくもっと直裁な手段に出たほうがいいのかもしれない。


 ホルンの村でのクロの動揺っぷりは、かなり楽しいものだった。女としての自分を曝け出すのも、そこまで悪い気はしない。

 ――と、父が色欲を司るアスモデウスであることを思い出す。もしかしたら血は争えないのかもしれない思うと、憂鬱な気分になった。


「――雨?」


 小康状態だった雨が再び降り出す。溢れかけた紙袋を持ちおなし、リアは近道のために裏通りへと入った。幸いにも弱雨で羽織っていたケープを頭にかける。

 雨音を布越しに耳にしながら、そういえばあの日も雨だったなと思い出す。


 十六歳になった年。――クロとの出会いの年だ。


 異界へと連れてこられたリアを人間界へと呼び戻すこと自体は決して難しいことではなかった。誰かと契約を結び、その者が魔力を支払ってくれればいいだけの話だからだ。

 ただ、問題はその魔力量――。彼女は悪魔の王の血族で、対価となる働きがなくとも生半可な魔力では足らず、熟練の召喚術師でも数日を止めるのがせいぜいだ。


 アスモデウスは数々の権能を有しており――なかには色欲として碌でもないものも含まれるが――リアはどれも引き継いでおらず、術師からすればリアはただの役立たずだ。

 召喚に必要な魔力とリアは全く釣り合わない。リアの美貌を手に入れんとする男からの誘いでもあれば別だが、リアも人間界に戻りたい一心でその身を差し出す気にはなれなかった。


 ただ、クロは違った。


『――そばに、いてほしい』


 その言葉に、リアは救われた。


 ――わかっている。わかってはいるつもり。

 それはリア個人に対してクロが口にした言葉ではない。そばに居て欲しいとのクロは当時憔悴しきっていたのだ。クロは異界の魔王を召喚するために他人にその命を浪費させられそうになった。

 彼の祖父たるエドワードが『ブエル』を召喚し行使しなければ、今頃彼の命はなかったのだ。


 その代償として――それは全くクロの責任に帰するところではないが――クロの身体には呪いの契約によって垂れ流すように注がれ続ける魔王の魔力だけが残っている。


 閾値を超えた時――もしくはそうでなくとも、呪いで汚染された魔力はクロの身体と精神を蝕む。それを吸収し続けるのがリアの役目で、クロがリアと契約し召喚することの最大の理由がそれだ。

 それだけだと、リアも頭では理解している。

 

 ――だけど、それだけ――?


(それでも……)


 リアの心は、あの瞬間からクロのそばにあって、かたときも離れていない。

 そばにいたいし、そばにいてあげたい。それだけは彼女にとっての真実だ。

仮にクロにとってそのつもりがなくとも、他人から見ればささやかな願いで、ともすれば出会いからすれ違いだったかもしれないが、それがリアにとっての本心だった。


 願わくば――。


「お風呂にする、ご飯にする……なんてね。クロはもう帰ってきているかしら」


 ホルンでの言葉。それはリアが羨望する男女の姿、冗談が言い合えるようなささやかな願いの一片だった。


 リアは、大きく息を吸う。

 石が雨に濡れる匂いが鼻を通った。アップルパイの手順を思い出しながら紙袋を持ち直し、早く帰ろうと足を急いだ、その時だった。

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