三章:悪魔殺しの剣

魔力の匂い

 冬の冷たい雨が、クロの家の窓を叩く。


 夜が明け直後だというのに部屋はいやに暗い。それも当然といえば当然でランプを点けずにいるからだ。

 曇天ながらに仄かに窓から注がれる光は、おそらくクロと、傍にいるリアの輪郭だけを残し側から見れば影絵のようになっている。


「もう少しだけ待ってね……」


 リアが暗がりでそう呟く。そもそも明かりを灯さなかったのはクロのものぐさからではなく、リアが「別にいらないわ」といったからだ。

 悪魔の血が流れると暗闇を好むのか、それとも暗がりでも目が利くからなのか、リアは進んでは明かりをつけようとしない。

 ただそのどちらにしても、ルビーを溶かしたような瞳と髪は暗がりでもなお鮮明に映え、その美貌は髪一筋も損なわれることなくむしろ際立つようにクロには思われた。


「寒いから早くしてくれ」


 上半身を脱いでいたクロが、非難の滲まない程度の不平を口にする。ただそれは心にもないことで、どちらかといえば心の落ち着きを失っていたからだ。

 何せ目の前のリアは普段通りのドレス姿ではあるものの、この寒さに今は丈の短いケープを羽織っている。その肌の露出面積は減らしているはずなのに、ケープのせいで扇状に開いた胸元が強調されていたため、クロは内心を乱されていた。


「仕方ないじゃない。胸の紋もだいぶ濃くなっていたし、魔力を溜め込み過ぎよ。それだけの量だと、わたしが預かるのにも時間が掛かるもの」


 クロの左胸に、リアの細指が触れる。そこには、リアやエディスの身体に刻まれたものとは明らかに異なる、邪気の孕んだ黒色の魔法陣が刻まれていた。


 一年前にクロの身を犠牲にしようとした際に刻まれた魔法陣であり、呪いの契約。


 それがリアのおかげで徐々に薄く、小さくなっていく。本来魔法陣はただの契約表記のため大小の変化は生じない。

 ただクロの身体に刻まれた魔法陣は、クロの中で蓄積され続ける魔力量に反応しており、大きさも濃さもそれに比例していた。


「溜め込みすぎると、俺も悪魔に片足突っ込むかもな。そのうち瞳が赤くなったりして」

「冗談にもならないわ」


 リアはクロの胸に顔を近づけ、唇が触れるか触れないかの距離で口づてに魔力を吸い続けている。そちらに集中しているためか返事ははっきりとしたものだった。


 所在をなくしてクロは天井を見上げる。血脈に悪魔の血が流れるリアと、魔王の魔力がわずかばかりでも供給され続けるクロ。そのどちらがより悪魔に近いかと考え、無意味だと首を振る。少なくとも本当に自身の瞳が赤へ変色したところで、リアのように綺麗なものにはなり得ないなとクロは思った。


 伏し目がちな彼女の瞳と柳眉を眺める。綺麗だなと思い――、


「はい、おしまい!」


 クロは見惚れていた自分が恥ずかしくなり、慌てて顔を背ける。運良くリアは顔をあげずに、患部の処置が終わった医師のように黒の紋様をぺしぺしと叩いていた。


「いつも助かる。……」


 「ありがとう」という言葉がどうにも気恥ずかしくなり、そこで切ってしまうクロ。シャツに袖を通して背中を向けていたためか、そんなことには気づかないようにリアが継ぐ。


「ううん、クロが唯一わたしを頼ってくれることだもの。そのためにわたしはここにいれる・・・わけだし。それに魔力は魔力。頂いた身としてはそうね――ご馳走様ってところかしら」


 リアの「唯一」という単語が妙にクロの心に残り思わず否定したくもなった。たしかにリアは、膨れ上がるクロの魔力を預かるために側に居る。

 そばに、いてもらっている。


 通常の召喚でも魔力は消費し得るが、それはあくまで消費なのだ。リアは父から受け継ぐ膨大な魔力許容量を誇り、クロの魔力を預かる形で一時的な蓄積の任を担っている。


 当然、消費するでも構わないは構わないのだが――。


「『ご馳走様』ねぇ。魔力って、味があるのか?」


 クロは苦笑しながら疑問を口にする。

 それが意外だったのか、リアは一度目を丸くすると、「うーん」と案外真面目な様子で指を顎に当てた。


「味……っていうのはないけど、魔力も個性と同じで千差万別なのよね。漠然とした好みはあるかしら? 相性、って言ってもいいのかもしれない」


 魔力はただの魔力に過ぎない、と考えていたクロには無い発想だった。


「そういう意味では……あれね、あれに似てる。――匂い!」


 思わず吹き出すクロ。

 「なによー」と半眼のリアに「なんでもない」と手を振る。


「――味なら美味しいとかまずいとか言えるけど、匂いってあくまで主観というか好みみたいなものじゃない。あ、でも匂いにもすっぱいとか甘いとかあるか。うーん、そうじゃなくて体臭みたいな感じ?」

「なんかそれ嫌だな」

「それはクロが男だからよ。女の人のほうが匂いには敏感よ? 良い匂いとかくさいとかじゃなくて、人の匂いにも好き嫌いがあるもの。――説明は、ちょっと難しいなぁ」


 てっきり魔力の話かと思えば、いつの間にか女性の話にすり替わっていた。魔力に引き続きなんだか新鮮な話題で、クロも思わず聞き入ってしまう。


「とにかく! わたしはクロのは好きよ」

「どっちが?」

「匂いも、魔力も。……。でもこの魔王の魔力はダメね。なんか黒く濁っているし。それとも同族嫌悪かしら? 苦いだけのコーヒーみたいで。クロの魔力がミルクみたいにわずかばかり混ざっているから、まだ吸収できるけど」


 途中妙な間がありながら、わざとらしく小さな舌を出すリア。無意識に流してしまいながら、「なるほど」とクロも笑みを零す。リアにしてはわかりやすい例えだった。


「――とそんな話している場合じゃなかったわね。サンクトラークの件、報告に行かなきゃいけないんでしょ? ぐずぐずしているとエディスが起きてくるわよ。それと、クロが出かけている間、わたしはわたしで買い物にでも行ってくる。昼食は無理でも夕飯ぐらいは用意しておくわ」

「頼むから――」

「何よ」

「いや、頼りにしてしてますって言おうとしました」


 険しく睨めつけられ、クロは慌てて口先で募る。先日のサンクトラークで生み出された可哀想な料理が舌のうえで思い出されるが、落ち着いてなら甘んじて失敗を受け入れるリアではない。――と信じたい。


 「はい」と渡されたローブを手に取る。着込む間、リアが雨脚を確認するように扉を開けた。太陽は望むべくもないが天候はいくらか小雨になってきていた。


「じゃあ行ってくる」


 ――と、歩き出そうとしてピタリと足を止め、振り返った。「いってらっしゃい」と手を振りかけたリアもそんなクロに向け首を傾げる。


「ん? なぁに?」


 クロは一度口を開いて、うまく言葉が紡げずに、結局は首を振った。


「なんでもない。あんまり、遅くなるなよ」


 言うのと言われるのとが逆なような気もする。そんな風に首を傾けたリアはおずおずと頷いた。クロは軽く手をあげ、思い出したように足早に城へと向かい独語する。


「――こんなにどんよりとした天気だと、考えたくないことまで思い出すな」

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