功労者
わずかにフードから出る手先――。稜線の皮膚からは男女の区別はつかなかった。嫌に線が細い、という印象を持つ。
クロは、油断を禁じながらも示された方向に目を配る。横目にだけ見たその光景を、今度は警戒も忘れて首ごと向けた。
広場に、男の子がひとり――。
何かを叫ぶように泣きじゃくりながら当て所なくふらふらと歩いている。
それはいいのだが、端的にその場所だけが悪かった。
イフリートの背に近いところで、どうやらアデレードとの間にある路地裏から出てきてしまったようだ。
「アデレード!」
「わかってるわよ! でも、もう、限界――」
アデレードが膝をつく。ゴーレムに押されたイフリートの足元、岩盤がめくりあがる。人間のような獣のような身体からは汗を燃やしたような蒸気が立ち上り、無数の青筋が立ちながら、徐々に後退させられていた。
「ゴア、あの子を頼む!」
呼応したように、ゴアが敵の剣を弾く。クロの指示に従った結果ではなく、剣戟を繰り広げてようやくたどり着いた結実のようだった。
逆をいえば、異界でも屈指の騎士団長とこれまで互角に渡り合ってきたことの証でもある。
ゴアはそれ以上敵に剣を向けず、ただ収めるでもなかった。抜き身のままに男児へと駆け寄るゴア。
生身のイフリートは限界のようで、じりじりと、着実に押され始めている。追い討ちのように、無機質なゴーレムがダクトから煙を吐き出した。
ゴアが、男の子に覆いかぶさる。イフリートは耐えるも、その巨身は彼らへと迫っていく――。
「……っ⁉︎」
瞬間、ゴーレムの全身から不自然なほどの水蒸気が溢れ出る。
クロには何事が起こったかわからなかった。
事態をいち早く察知したのはおそらくイフリート自身と、それに次ぐのが彼を使役するアデレード。みるみるうちに聖獣の膨れ上がった筋肉が弛緩していくのを見て、クロも遠目ながらに事の顛末だけは理解する。
「止まった……?」
イフリートと取っ組み合いをしていたゴーレムの腕が、だらりと垂れ下がり、身体が傾く。どうやら本当に停止したらしい。
まさか? ゴーレムへと指示を出していた白衣の男と、それを追いかけたリアの姿を探し求め屋根の上から広場をぐるりと見回す。
――どちらの姿も見当たらなかった。
装置の有効範囲は不明ながら、ゴーレムへの命令が上書きされたようにも見えなかった。であればイフリートの膂力がゴーレムを故障足らしめたか……。
――と、状況を伺っているクロの視界にとあるものが映り込み、クロは思わず「あっ」と声をあげた。
目に留まったのは、ゴーレムの頭上。額とも頭頂部とも知れないなだらかな曲面に、点のように小さい緑色の姿が見えた。
「きゅいぃっ!」
「グレムリン! ……そっか、あいつがゴーレムの配線を切ってくれたんだな。――でも、どうして?」
疑問が拭えず、クロは目端に映った見覚えのある姿に、わずか視界を左へとずらした。
そこにいたのは、事態の収拾を悟りながらも一応の警戒を見せている少女。小道から顔だけを出しきょろきょろしているその姿は、エディスだった。
おそらく、エディスがグレムリンに指示を出してくれたみたいだ。いつの間にか姿を隠していた仮の弟子は、クロたちが眼前の相手と戦うなかひとりでも暗闘してくれていたようだ。
「まったく、危ないことしやがって……。っていうか主人の指は噛み切るくせ、エディスの言うことは聞くのかよ……」
クロも皮肉を口にしながら肩の荷が下りた。膝を崩すようにその場に腰を下ろす。
アデレードも、状況を理解してか辛うじて持ち上げていた腰を、気位の高い彼女には珍しく崩れるようにぺたんと座り込んだ。汗を浮かべ、魔力が底をついたのかどこか恍惚とした表情浮かべながらも、その艶やかな唇を動かしている。クロからして何を呟いたか聞こえないが、どうやらイフリートへのお礼だったらしい。
聖獣の纏う炎が身体の各所で残り火のようにくすぶりながら、アデレードの言葉に頷くと、光の粒となって魔法陣へと吸い込まれ、異界へと戻っていった。
次いで静寂を埋めたのは、周囲からの歓声だった。
距離を置いて固唾を飲んでいた民衆が、終息を見て喝采をあげながら広場に殺到する。
クロはひとり屋根の上から人々に囲まれるアデレードやゴアを見遣る。そこではっと我に返り身体を跳ねさせた。
「――いない」
先ほどのローブの存在は、その気配と黒色鎧の騎士とひとまとめに忽然と消えていた。
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