魔法陣の正体

「悪魔を甘やかして良い試しがない。悪魔に甘えた人間の最期も、碌なもんじゃなかったな」


 未だ夜気が漂うなか、東の山を眺めると稜線が白み始めていた。程なくして思わず薄目になるほどの朝日が差し込み、街からは霧の一切が失せていた。


「おねぇちゃんは、悪魔なの?」


 エディスの口調は薄氷を踏むようだった。ただそれは恐怖からではなく、リアの大切な部分に触れるような、慮ってのもののようにクロには聞こえる。


「そうね。正確には半人半妖ハーフ・デーモンよ。さっきも言ったでしょ? 人間と悪魔の間に生まれたって。――かつて悪魔の王は、人の姿で人の女性に恋をして、その先に産まれたのがわたしってわけ」


 リアの翼は失せていたので、今の姿は人間とどこも変わらない。

 高位の悪魔のなかには人間の姿になれる者がいて、リアもそんな父のおかげで肉体的には人間とほぼ変わりがない。翼はというと、魔力の凝縮によって成形されたものだった。


 彼女を悪魔の係累と判断できるのはルビーのような赤い瞳と、制御が効かないほどの膨大な魔力だった。

 そして人間との間では結び得ない、クロとの間に交わされた魔法陣という契約だけだ。


「そうなんだ……」

「やっぱり、怖い?」


 エディスが勢いよく首を振る。子供らしい振る舞いにリアは破顔した。


「わたしはね、訳あってこの人に召喚されている状態なのよ。父の血のせいで本来は異界にいなければならないのだけれど……クロのおかげでこちらの世界で生きていけるのよ」


 それは偶然に偶然が重なった結果だった。

 当時のクロにはリアが必要で、リアのほうもクロを求めた。だからこそリアはそれを運命と信じてやまなかった。


「――ただ、何もこっちの世界にいたいからクロを頼っているわけじゃないのよ?」

「どういうこと?」


 リアがエディスの唇に指を当てる。


「いずれエディスにもわかるときが来るわ。悪魔を呼び寄せた人間は魂を取られるっていうけど、むしろ奪われたのはわたしのほうかもしれないわね」

「そう、なんだ……。そうだ、これ!」


 エディスが思い出したように腕を突き出す。リアにというよりは、さらに隣にいたクロに向けてだった。エディスが示したかったのは当然腕そのものでなく、その手の甲にある小さな魔法陣だ。


魔法陣それの話が途中だったな。俺は嘘を言ったわけではないし、前言撤回する気もないぞ。それは間違いなく、悪魔の魔法陣だ」

「でも……」


 エディスが俯く。払拭されない疑問が彼女の眉をわずかに曲げていた。


 クロは講釈のために肺に空気を詰め込み、一度大仰に吐き出した。


「第七十二位の悪魔。その名も『アンドロマリウス』。別名『審判の悪魔』……つまり、悪魔を裁く悪魔だ。伯爵ながらにして悪魔の誰からも恐れられている。――その魔法陣はその悪魔と繋がっている。異界の者が召喚されることはないが、他の悪魔の魔力を感知すると光る仕組みになっているのさ」


 エディスが弾けるように顔をあげた。ようやく理解が追いついたようで、だからこそその大きな瞳にはすでに涙の粒が盛り上がっていた。


「言っただろ? お前の親父さんの人間性がわかるって。悪魔が恐れるほどだから、その印があることで下手な悪魔はエディスに近づかないし、何より悪魔を感知して光るから警戒もできるわけだ。リアに反応しないのは……まぁたぶん、人間の血が濃くて邪魔しているからかな。さっきの翼には反応していたし」


 リアも気づいたようにぱんと両手を合わせた。


「あっ! だから霧の悪魔も、エディスには危害を加えなかったのね」

「……というより、人間に危害を加えることは本来契約に含まれない違反行為ヴァイオレーションだったんだろう。広場で人が死んだのは、無理やり神父が命じたものか、はたまた不慮の事故かまではわからないけど。ただ、エディスが霧の中を出歩いても悪魔に出くわさなかったのは、まさにこの魔法陣のおかげだろうな。つまり――」


 神父の魔力からして到底使役できる悪魔ではなく、おそらく霧の悪魔のほうも辟易としていたことだろう。

 それでも違反行為を咎めなかったのは、悪魔の堪忍袋の紐が想像以上に丈夫だったのか、それとも他の理由からか――。


 クロは腰を下ろす。エディスの視線に合わせるようにしてから、彼女の頭に手を置いた。


「お前の親父さんは、エディスを守るためにその魔法陣を体に刻んだのだろうな」


 エディスの頬が暁光に照らされ赤く染まる。それきり俯いてしまったので目元は伺えないが、口元の笑みと、その横を流れる涙の痕はクロにも見えた。


 クロは重かった腰を上げて朝日を眺める。


「……ねぇ、クロ」


 リアからは呼ばれ慣れた愛称だったが彼女からではなかった。クロのくいくいと裾を引っぱるエディスに視線を落とした。


「クロのお嫁さんになることを諦めたわけじゃないけど――」


 エディスが、ひとつ深呼吸をする。

 嫌な予感に身を引くクロに対し、エディスは離すまいとその裾を握り締めた。


「あたしをクロの弟子にして! あたし、召喚術師になる!」

「……な! お前っ、急に何を言い出すんだよ! 俺は召喚術師でも悪魔と関係が深いタイプの術師なんだぞ⁈」

「だから何?」

「悪魔が怖くないのか?」

「さっきも言ったでしょ? 全然!」


 「ねー?」っと言いながらエディスはリアを見て無垢そのものの笑みを浮かべた。


「悪魔ってこんなに美人で素敵なんだもの! 怖いわけないじゃない!」

「美人……」


 「美人」に反応したリアが恍惚として喜色を浮かべた。まず先にリアを籠絡するあたり、エディスは見た通りの子供である以上にその精神は強かなのかもしれない。


「肝が座っているというかなんというか……」

「それに、あたしの両親も召喚術師だったもの。やっぱり召喚術師になるしかないわっ!」


 昂然と言い放つエディスに、意識が飛んでいたリアが「あっ」と声をあげた。


「そういえば……クロはエディスのお兄さんに似ているんだっけ? クロ、もしかしたらあなたの遠い親戚なのかもよ?」

「そんなわけないだろ………………ん? いや、待てよ」


 クロは深いため息を吐いた後に、可能性の最後を捨てきれずに顎をさすった。


「遠い親戚どころか、もしかしたらあのクソ親父の隠し子とか……?」

「あり得るわね。漁色家で有名なわたしの父とマブダチだったらしいから」


 明らかな冗談を口にしたつもりだったが、妙な現実味が周回遅れながらにクロを襲う。


「否定してくれよ! いやでも、残念ながら奴はたぶん存命中だが……あぁ、ただそう考えると本当の妹のような親近感がふつふつと……」

「そうなの? よくわかんないけど、あたしのお兄ちゃんで、いずれはお婿さんになってよ! 師匠マスター!」

「ややこしいからやめてくれっ!」


 標的を見つけた喜びを、全身で表現するようにエディスが飛びついてくる。クロは引き剥がそうともがいてみるが、それそのまま意志の固さのようで、全く離れようとしない。


 リアも怪訝そうに眉を歪めながら同時に口元を緩めていたが、しばらくしてから「やれやれ」と長い息を吐いていた。

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