矜持と契約違反

「――おねぇ、ちゃん?」


 エディスは重たい瞼を擦る。いまだ冷めぬ意識が張り付いているようで、だがリアの唇から漏れるひと筋の血を見ると弾けるように目を丸くした。


「おねぇちゃん‼︎」


 リアが咽せては「ごぼっ」と血が溢れ、胸に開いた小さな穴からも血潮が散った。


 クロは思わず一歩を踏み出したが、そこで黒い影に遮られる。ゴアの左手で、ガーゴイルの存在を忘れそうになったクロを黙って押し留めようとしていた。


「ははっ、ふはははっ! よくやった! 悪魔の仲間のひとりを、始末したぞ!」


 高揚で赤ら顔をした神父の手元が赤く光り、霧と瘴気が色濃くなる。


 リアはよろめき崩れるように膝を折った。子供ひとりの体重を支えることもできないようで、むしろエディスのほうがリアに肩を貸す。


 霧が夜陰と混ざるように視界を奪っていった。暗闇で、憎悪にも似た黒い魔力がクロの中で渦巻いた。


「げほっ」


 憎い、憎い――。


 誰ともなしの感情と相まった黒い魔力がクロの体を蝕む感覚。以前、自らの命さえごと危機的状況に陥れた魔力の残滓――。


 だが病的な咳に襲われながらも。クロはどこかにふとした温かみを感じる。

 何からもたらされた熱かわからないまま、やがてそれが己の魔導書からのものであることに気づき、同時にそれの意味するところも悟る。


 一陣の風がクロの皮膚を撫でた。

 広場をまるごと吹き抜け、烈風に顔を覆う者がいる一方で、クロは春風のような心地でそれを一身に受けた。


 風は、執拗な悪魔の霧を退けていた。

 そして自らの黒い魔力さえも、いつの間にか祓われて《・・・・》いるようだった。


 晴れた世界に、雲間の紅い月が煌々と輝いている。それはとある・・・悪魔の魔力が大気を満たしている証拠で、月の見下ろす先にはその源泉たる存在が佇んでいた。


 人間の姿からは想像だにしないような漆黒の片翼。それが月に届きそうなほどに天に向かってまっすぐ、剣のように伸びていた。


「な、なんだお前はっ! ……いや、まさかそんなっ!」


 投げかけた誰何を神父自らが否定する。


 先ほどまで膝をついていた彼女は、翼と魔槍こそ仰々しいが、赤いドレスから覗く白磁の肌は美しい女性のそれでしかなかった。


『我が名は――』


 陰っていた表情がゆっくりと持ち上がる。リアが立ち上がる姿を、傍らで見上げるエディスが愁眉で見つめていた


『リリモア・エス・ブレーメル。第三十二位の悪魔王、色欲のアスモデウスの子にして、人間との間に生まれし者』


 闊達な口調、そして悠然とした佇まい。

 クロは大気を満たす彼女の魔力を確かめるように肺にいっぱいの空気を取り込んだ。


「リア嬢のお出ましだな」


 風で霧は晴れ、吹き消された松明の中にもまだいくらか生き残っていたあかりがある。

 大方の村人はたちこめた霧に恐怖してかその場を逃げ去り、後に残っていたのはわずかな住民と、戦闘を繰り広げていたゴアとガーゴイル。それとエディスに、壇上で片翼を掲げるリアだった。

 そして恐怖に顔を引き攣らせた聖職者がひとり。


 ガーゴイルも呆然とリアを見上げる。格の違いに月でも眺めるような心境かもしれないとクロは思った。 戦闘意欲を失った敵前で、ゴアまでもが剣先を地面に向け仲間のリアを泰然と眺めている。


「……」


 リアを目すエディスの瞳には、明らかに怯えが滲んでいた。

 片翼の――本来は一対の翼を彼女は嫌忌して片方しか出さないことがある――リアはエディスへと手を伸ばした。


 象牙細工のような美しい手が、エディスの頭に優しく触れた。


「大丈夫よ。そう言ったでしょ?」


 優しい双眸。

 リアは微笑を浮かべてはおどけたように片目を閉じてみせると、エディスの肩の震えが収まっていく。リアはもう一度短く笑うと、今度は打って変わったようなきつい角度の眦を神父へと向けた。


「ひっ‼︎」


 腰から崩れ落ちる神父。恐怖で陸にあげられた魚のように無様にもがいていた。リアから距離を取ろうとするが体は言うことを聞かないようで、顔は蒼白になっていた。


 ゆっくりと詰めるリアとの対峙は、獅子と瀕死の草食動物にも見えいっそ憐れなものだった。


「く、来るな! くそ、こんな、こんなはずじゃ……! いや、こ、こうなったらいっそ……こ、来い! 早く、早く来てくれ、霧の悪魔!」


 神父が傍らの魔導書へすがり、上滑りのままに短く詠唱しては地面には魔法陣が現れる。

 赤と白の中間色から、黒い稲妻のような光束が走り、木乃伊のような細長い黒影が生まれた。


 ゴアと同様の召喚術式ながら、その上背はゴアをはるかに凌いでいる。一見紡錘型の風貌は折りたたまれた翼が織りなすものだった。

 緩慢に開かれた両翼の中に、奇怪なほどに細長い輪郭が現れる。悪魔然としていて、両手は地面に届くほどに長く、爪は刃のように鋭い。


 表情の無い悪魔の顔が状況を伺うようにあたりを見回す。赤眼は、内包する魔力量を誇示するかの如く爛熟したものだった。


 『霧の悪魔』を目の当たりにしたクロは不覚にも言葉を失ってしまう。

 こんな雑魚ほどの魔力しか持ち合わせない神父では持て余すほどの階級で、なぜこれほどの者が側に付いているのか。神父自身で契りを交わせる相手とは到底考えられない。


「よしっ! よしよしよしよしよしっ! よく来た!」


 光明を得たように声をあげたのは他でもないその神父だった。悲鳴にも似た情けない声色に、無表情と思われた悪魔の赤眼がわずかに揺れる。


『……今度は、何用だ』


 悠然。そんな言葉が適当な悪魔は、不機嫌を隠そうともせずに吐き捨てた。


 もっともそんな悪魔の機微に気づくのはいくらか悪魔と交流のあるクロぐらいなもので、神父の方は意に介さないどころか気づきもせずに言い放った。


「霧の悪魔よ、命令だ! そいつらを……ここにいるもの全員を殺せ!」


 クロは、霧の悪魔――たしか大公爵に相当する――と視線を交錯させる。瞳に含まれる無味乾燥さに、むしろ剥き出しの殺意のほうがはるかにマシと思える類の恐怖を感じた。


『ここにいる、全員申すか?』


 奈落の底を覗くような、本能的な恐怖を感じさせる声色。一方クロはわずかに溜飲を下げる。予想外にも悪魔は命令に躊躇っているようで、もしくはそれを。諦念とか幻滅とかいうのかもしれない。何にしても殺意に乏しいのだ。


「そうだ! そこのローブの男と鎧の悪魔。それに壇上の女二人! それと、見られたからには仕方がない! まだ広場に残っている村人も、全員を殺せ!」

『――それは、契約に含まれてはいない。お前との契りは霧の発生と、せいぜいが家屋の破壊や家畜の殺害だったはず。人間を殺すことは契約に含まれていないうえ本意でもない。特に同族殺しは禁忌だ。違反も甚だしいと、理解しているか?』


 悪魔が瞑目して首を振る。それだけが妙に人間味を帯びていて、クロは違和感を覚えた。

 だが説明は整然としていて、それは悪魔らしからぬ流暢さだった。

 つまりは最後通告。そう理解した瞬間にクロは背筋が粟立ちのを覚える。

 血管が額に浮き出るほどの神父の激昂ぶりと相まって、数秒後の未来を予見したクロは神父と争っていたことなどすっかり忘れ、真逆のことを口にしていた。


「それ以上はやめろっ‼︎」


 クロは喉が裂けんばかりの声を張り上げたが、虚しくも神父の耳には届かなかった。


「いいからやれ! 悪魔を含めて、ここにいる全員を殺せ! 契約が何だと言うのだ!」

『ここにいる者を、だな』

「そうだ! はやくれ!」

『――承知した』


 リアが俊敏な動きで翼を翻し、エディス諸共に防御姿勢を取る。ただそれは悪魔からの攻撃を防ぐためのものではなく、ある種の暴力的な光景をエディスに見せないための目隠しとなった。


 次の瞬間。神父の首が飛んだ。


「へっ?」


 空中で弧を描く神父の表情は、ひっくり返る世界への無理解そのままものだった。


『契約に背きし者よ。血の契は破棄される。元来の取り決め、定めに従おう。お主の血と命を、この場で貰い受ける』


 夜空を舞った頭部が、霧の悪魔の掌にすとんと収まる。瞠目し、胴体に半分を置いてきた声帯で叫ぼうとした神父だったが、明瞭な声にはならなかった。


 その後、悪魔が神父の首をどういう扱いにしたのか、悪魔の評判を下げたくないクロとしては請われても他人に語る気にはなれなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る