挿話 Ⅰ

過去の夢

 とある西の街――。

 夜の帳は朱色に染められていた。

 ゆらゆらと揺れる姿は遠目に儚い洋燈らんぷのようで、傘の下では多くの生命が失われ続けている。


 街は、大火に覆われていた。

 立ち並ぶ家屋、広場の木々、家畜――この街に存在した全てが焼かれ、人々は叫喚し、逃げ惑う。

 炎が行く手を阻み、人間を焼いた。


 炎を物ともしない者たちの影が軍靴を鳴らす。

 火光で伸びた影が壁に妖しく揺れている、漆黒の存在。

 黒鎧の軍団が炎と競うように殺戮を繰り返していた。

 人型が携える剣が、女子供にも容赦無く向けられる。


 悪魔の王サタンが呼び寄せた配下。冥府の軍勢。

 人々を逃げ惑い、声にならない声で愛する者の名を叫んでいた。


 ひとりの少年は思う。地獄があるのなら、この光景を置いて他はないと。


『お、れの…………俺の、せいだ……』


 膝を折る少年。焼けた声帯を震わせると喉が割れた。

 膝の皮膚も焼けるように痛い。


 俯けば地面には人の血と肉で埋め尽くされている。

 天を仰げば、上空には街全体を覆うほどの巨大な紅の魔法陣が描かれていた。


『俺が、異界と繋がっていたから……』


 傍で倒れているのは人だったモノ。

 助けを求めるように手を伸ばし、そのままに絶命している。


『……お前のせいではない。お前の魔力と、異界との繋がり、そしてお前自身の命数を贄にしようとした輩の罪悪だ。責めを負うべきは他にいる。だからお前が背負うでないぞ』

『だけど……』

 

 少年の背後にはひとりの老人。

 地面に擦れそうな丈のローブに身を包み、地獄絵図のなかでただひとり凛然と佇んでいる。

 右手には長柄の魔術杖ワンドで、木の質感が老人の皺と同化するようだった。


 その老人の枯れ木のよう穏やかな手が少年の肩に置かれる。

 壊れた吹子のような呼吸が少年の口から繰り返される。頬からの雫が地面で瞬く間に蒸気となった。


『……少し、下がっておれ。命が戻ったとはいえ、まだ万全ではなかろうに』


 肩に置かれていた手に力が込められる。

 何かを決意するようでいて、酷く脆いものを感じ、気づくと少年は前のめりに倒れていた。

 抗おうにも、力が入らない。老人の言葉通り、少年の命は燃え尽きる直前の蝋燭より儚かった。


 角度の変わった視界に佇む老人の姿――。左手には大判の書物が握られている。

 それは数多ある複製魔導書の中で、一族に代々伝わる唯一の魔導原書ゴエティエだった。

 本来脇抱えにするほどのそれを老人は右手の握力だけで支えている。

 

 老人はそれを上向きに持ち替え、おもむろに開いた。


『――異界に存在せし煉獄の悪魔よ。我が名は……』


 沢を流れる水のよう。そんな場違いな印象を老人の詠唱に少年は覚える。

 重力から解放されたように宙に浮く魔導原書ゴエティエは、青光を発し、風に吹かれるようにぱらぱらと紙が捲られ、やがてぴたりと止まる。


『だめだ、じいちゃん……それ以上悪魔を召喚したら…………』


 肺が熱い。嗚咽した。


 老人が肩越しにわずか振り返る。皺のよった口角がわずかに持ち上がった。

 安心させようとしたのか、それとも別れを告げたかったのか。


 そのどちらでも少年には悲しく、涙は頬を伝うことなくまなじりから横に、地面へと落ちた。


『来たれ、我が命に答えよ。第十五の位、大公爵にして戦を司る悪魔『エリゴス』よ――』


 魔法陣が現れる。赤い光がゆらめき、緩慢な回転運動を見せはじめた。

 街路を覆い尽くし、それでも足りず家屋の壁までに映り込み、あたり一帯が炎とは違う光に照らされた。


 程なくして、盟約を形にした巨影が現れる。

 漆黒の鎧で黒馬に跨り、腰には大剣を帯びていた。体躯は人間の倍でも到底収まらない。


 粛然とした構えで、唯一剣の柄に力なく掛けられた手が、これから起こることに対する悪魔の消極性を示すようだった。


『……エドワードよ。本当に良いのだな?』


 はるか高みから、悪魔の低い声での問い。風貌に似合わない躊躇いが含まれている。


 ――やっぱり、そうだ。


 霞がかる意識のなか、少年はかろうじて顎をあげた。

 落ちかける目蓋に抗い、老人の最後を見届けようとしたからだ。


『構わん。元々はこの子の命を救うとき、儂の命と引き換えだったのだ。この老体の残り火で街が救えるなら本望。……まったく。悪魔のくせにブエルの奴は最後までお人好しじゃのう。……不足した儂の魔力に応じてくれたお前さんも、それは同じことか』


『……』


『礼を言う。あとのことは、頼んだぞ』


 黒き騎士は小さく頷くと剣を抜いた。


 薄れゆく少年の意識は限界を迎える。

 閉じてゆく瞼には、騎士の抜いた大剣が老人の首を横薙ぎにした瞬間を捉えていた。

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