小さな魔法陣

 クロは冗談を吐きながら指を擦っていたが、それをぴたりと止めた。気恥ずかしさから思わず頬を掻く。

 はなから金銭など要求するつもりもないが、無視されるよりも下手な冗談が上滑りしたことのほうがよほど悪い。


(だけど、こちらが意識しておしゃべりになった甲斐があったな。特に魔法陣について言及したのが良かったみたいだ)


 おそらくエディスは霧の悪魔と関係がある。

 ともすれば悪魔に関わる魔法陣の所在も知っているかもしれないし、今の彼女の様子からして聞いても問題ないだろう。


「それは、もしかして魔法陣か?」


 頷くエディス。クロは「わかった」と応じると、魔法陣が描かれているだろう場所へ赴くためにローブへと手を伸ばした。


 ――ただ、その当ては早々にエディスによって裏切られた。


「これは……」


 クロは思わず息を呑む。エディスの隣に寄り添っていたリアも呆然とした。 魔法陣は地面や壁に描かれることも多く、だからこそクロは村のどこかに存在するのだろうと踏んでいた。

 だがエディスが示したのは村の一角でもないどころか、彼女はそこから一歩も動かず円陣を見せた。


 表情のないエディスの顔が、それ・・から発せられる亡霊のような淡い光に照らされている。


「これ……やっぱり霧の悪魔の魔法陣なのかな? 霧が出るときは必ずこれが光るの……」


 小さな赤光の魔法陣が、白い手袋が剥ぎ取られたエディスの右手の甲に描かれていた。


 エディスの訥々した口調には、畏怖と混乱と諦観とが綯い交ぜに滲んでいる。訳がわからぬまま自身がこの村に悪魔を呼び寄せているという自覚があるようだった。


 エディスが、自分が悪魔と関係があると考えているなら、先ほどまでの何かを覚悟するような気迫にも納得ができる。


 何かの偶然か、今日まさに死人が出てしまったからだ。

 まさか自分の責任せいかもしえれないと思えば、居ても立っても居られなくなるのは当然。

 おまけに報いを受けさせるべきとでも言いたげな衆目を思い出せば、それは子供にとって死の覚悟をさせるに等しい。


「エディス、この魔法陣はいったい?」

「あ、あたしのお父さんとお母さんは、召喚術師だったの……」


 涙声になりつつエディスの回答は一見ちぐはぐだが、魔法陣に描かれた文字と併せてクロにはおおよそが理解できていた。


(なるほど、これは確かに――)


 彼女が「術師」と「様」に不可解な一拍があったのは、それだけ「召喚術師」が過去に身近な存在だったからだ。


「ちょうど一年前ぐらい、お父さんもお母さんも戦争に……。でも家を出る前にお父さんが、魔法陣これを。急いでいたみたいで、何か説明しようとしてくれたんだけど『おまじないだよ』とだけ言って。二人ともどこかに行っちゃうのが嫌で、あたし、泣いてばかりで……」

「お兄さんは?」

「お兄ちゃんは召喚術師じゃなかったけど、あたしを逃がそうと戦いに巻き込まれて……」

「エディスの出身は西の街だったんだな」


 エディスの瞼の裏側には当時の記憶が蘇っているようで、頷く瞳には涙が浮かんでいた。


「手袋は、神父様がくれたものなの。しばらくは人に見せてはダメだって。でも少し前、友達と遊んでいたらいたずらで取られちゃって……。ちょうど悪魔が出始めたときだったから、だんだんと大人たちもあたしのことを見る目が変わっていったの……。ねぇ、やっぱりあたしが霧の悪魔を呼んでるのかな……?」


 息を呑むように嗚咽が漏れ、言葉は打ち止めになった。エディスは声を殺そうとするあまり背中が痙攣するように震えていて、ひとりでは耐えきれないようにリアの手を握り締める。


「神父がくれた手袋に、しばらくは見せてはダメ、か……」


 まだ確証はないものの、嫌な予感がする。

 思考をまとめながら、とりあえずクロは膝をつくことにした。


 エディスの右手を取り、魔法陣をひと撫でしてみる。子供らしく張りのある肌は内側からの生命力を物語っているようで、茫洋とした光はその木漏れ日のようにさえ思われた。


 身体に魔法陣が刻まれていること自体は珍しくなく、例外を除けば身体に害はない。むしろ利便性や個々の事情で自ら刻む術師もいるほどだ。


 そしてクロにはその魔法陣に見覚えがあった。猫の額のような円の内側に、精緻な文字が刻まれている。その意味するところも、それを授けた側の意図も、クロには正確に読み取ることができた。


「エディスの親父さんの人間性がわかるってもんだな」 

「じゃ、じゃあ……やっぱりこれは……」

「あぁ、悪魔の魔法陣だ」


 エディスの瞳が、猫のそれと同じようにきゅっと細まる。絶望、という意外に表しようがなく、一縷の望みすら打ち砕かれたように顔がくしゃっと歪んでは、閉じた瞳から水分が流れ落ちた。


 ただクロもいたずらにエディスを貶めたいわけではなかった。矜持にかけて今の言葉は事実だが、そこから続く説明も用意していたからだ。


「だけどな、エディス。そもそもこの悪魔は――」

「クロっ!」


 突如の叫びは、リアからだった。それがクロの説明を遮る目的ではないことは、リアが床を蹴るようにして覆いかぶさってきたことと窓の割れる音で理解した。


 倒れざまに部屋の空間を音速の何かが突き抜けていく。それは窓とは反対側の壁に小さな穴を穿った。


「な、なんだ⁈ ……銃撃? なんでそんなもんがこんな田舎にあるんだよっ⁈」


 リアの肉に押されながら騒ぎ立てる。叫びに続くのは、床に張り付いた頬から響く複数の足音――。


「もちろん、悪魔に対抗するためですよ」


 気づいたときにはもう、声の主は部屋の中へと滑り込んでいた。


 例の神父だった。


 クロは努めて平静を保った。さすがに想定外だったことは拭えないが、むしろクロの驚愕は眼前の光景――倒れた拍子に放り出された聖書の見開き――に奪われていた。


 瞠目して描かれたいたものを認識した瞬間、間髪入れずに皺の手がそれを拾い上げる。


「悪魔のために若い衆に準備させていましたが、まさか『悪魔の仔』に使う日が来るとは想像だにしていませんでした。――それにしてもエディスよ。あなたは悪い子だ。あれほど人には見せてはならないと言ったのに」


 物腰は柔らかだが、唯一神父の顔が見えていただろうエディスの声は恐怖で引き攣っていた。


 リアによって共々押し倒されたエディスは乱暴に引き剥がされ、クロとリアが後ろ手に取り押さえられている間に部屋から連れ去られていった。


「この二人は丁重に繋いでおきなさい。悪魔をおさめる儀式が終わるまでです」

「この時代に魔女狩り気取りかよ。時代錯誤もいいところ――」

「連れて行きなさい」


 言い終わる前に、クロとリアは村人に捕縛されたまま宿の外へと連れ出されてしまった。

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