悪魔とは

「なぁエディス。いい加減に機嫌なおしてくれよ」


 クロは部屋の机へに腰を預けながら、赤く腫れた頬を摩っていた。


「いやよ! リアさんは彼女じゃないって言ってたくせに! あんなところを見せられてトラウマよトラウマ。お嫁にいけないわ! 責任取ってもらわなくっちゃ!」


 ベッドへ座り、恨み言を並べるエディス。

 「意味わかってんのか」とクロは内心で嘆息した。ついでにいえば、今日は女を慰めてばかりだ。


「誤解だって言ってるだろう。俺たちは別にそういう関係じゃなくて――」

「そうよちびっこ。わたしたちは爛れたただれた肉体関係なの。あなたが入り込む余地はないわよ」

「お前も煽るな!」 


 ふっと嗜虐的な笑みを浮かべるリアに、エディスはきゅっと頬を赤くし、クロは再三のため息を零す。


 クロは首の裏を掻きながら、ふと頬をえぐった凶器に目がとまる。床に放置されているのはエディス持参の古書で、表紙には『聖書Bible』の文字があった。

 「道理で俺に効果があるわけだ」と皮肉混じりにクロが手を伸ばしたときだった。


「ダメっ!」


 悲鳴にも似た声に、思わずクロのほうが肩を跳ねさせる。拾い掛けの聖書を慌ててエディスが引っ手繰り、大事そうに抱えてはベッドへ戻る。

 抱き止める右手だけが相変わらず白い布に覆われており、そこだけが活発な彼女の印象と不釣り合いだった。


「……勝手に持ってきたのか? 神父に言わずに」


 黙ったまま頷くエディス。大きすぎる本はそんな彼女の口元をまるまる隠していた。


「それで、何の用で来たんだ? ――こんな遅くに、しかも霧が晴れていない中をひとちで出歩くのは危ないだろ。心配されるんじゃないのか?」


 やや酷薄な響きを自覚し、クロは言葉を継ぎ足す。俯いたままに、聖書を抱き止めるエディスの手がぎゅっときつくなった。


 同時にクロはあることを思い出していた。昼日中にエディスがいっていた「あたしは大丈夫」という言葉。


 彼女は、何かを知っている。確信はないが、裏付けるようにエディスの愁眉がわずかに揺れていた。やがて意を決したように顔が上がり、唇は躊躇いで震え、結局は一言も発せずに俯いてしまう。そんなわずかな逡巡に、エディスの視線が一度窓の外へと向けられたのをクロは見逃さなかった。


「霧か、悪魔と関係があるのか?」

「…………」


 緩慢に首肯するエディス。


「……お兄さんたちは、召喚術師、様なの?」


 次ぐ質問は流暢とは程遠く、「術師」と「様」の間に妙な一拍を感じながら、クロは頷いた。


「あぁ、そうだ」


 一般的に召喚術を生業とした術師は希少で、『格』によっては国に認可される。そのため国民の敬愛と羨望を一身に集める召喚術師もいるわけだが――それは一部を除けばいくらか昔の話で――他方でクロの専門分野は例外的だ。悪魔と、敬愛や羨望という言葉は不仲であること甚だしかった。


 クロはそんな葛藤をエディスの取ってつけたような敬称に感じ取る。術師を様扱いしていいのか、という。ただそんな事情はエディス本人からではなく、きっと周りの大人たちの影響だろう。


「だけど本当に召喚術師と名乗れるのは俺だけだ。俺がアストリア国に認められた召喚術師で、リアはどちらかといえば魔術師の部類だな。召喚術もかじってはいるが、からっきしで、正式に授けられた称号じゃない」

「失礼ね。わたしだって得意な召喚術ぐらいあるわ」

あれ・・は本当に召喚術なのか? 妙に手際が良いし、詠唱もなしに顕現してくるが……」

「クロがいつも言っている通りよ。意志があれば契約を結べる。ちょっと無口なだけで、ちゃんと意志があるのよ。あれでいて結構かわいいと思わない?」

「あれを無口でかわいいと称するのはリアぐらいな気もするが……まぁ契約の前文を唱えなくていいからリアには合って――嘘ですごめんなさい」


 半眼でぶつぶつと詠唱を始めるリアに、慌てて手を振る。

 口を挟めず二人の間で首だけを往復させていたエディスが、やっとの思いで口を動かした。


「……やっぱり、悪魔は悪い奴なの?」


 クロは苦笑を浮かべた。世の中全ての存在を良い奴と悪い奴に大別できればどれだけ人生は分かりやすいだろうか、と。


 クロが術師として力を借りる悪魔は世に言う悪魔とは一線を画す。それはかつて、召喚術を権能とした始祖王が国を繁栄させるために力を借りた存在だった。魔導原書ゴエティエに記された彼らは異形の者も多いが、だからといって悪魔と一括りにされることは彼らの本質でも、本意でもない。


 その証左のように異世界では公爵、伯爵といった爵位を持つ者や、王や総統を冠する者たちも含まれている。地域の支配権を握る貴族として一定の軍事力までも保持していた。


 とはいえそんな事情は一般人の与り知らぬところで、ややもすれば一括りにされた悪魔の印象は最悪だ。精霊や魔獣を扱う術師を国として認可するほうがよほど健全で、リスクも少ない。

 それでもアストリアがクロを認めなければならないのはいささかの事情もあるわけで、子供のエディスがそんなこと知るべくもないし、大人でさえも理解している者はほんの一握りだ。


「エディス、いいかい? 悪魔は何も悪辣な、悪いやつらばかりじゃない。それはなかには悪どいことをする輩もいるし、人間に害を与えてきたという事件も歴史もある。ただそれは、彼らを使役した人間側が契約を――約束を破ったケースが多いんだ」

「約束?」

「そう約束。それと重要なのは使役側の魔力量。人間から悪魔へ魔力を渡すことは反故にしてはならない大前提だ。その逆もあり得ない。悪魔と交わした約束事を破ったり、自身の魔力量を超えて、実力以上の力を使おうとすると悪魔から懲らしめを受けるわけだ」


 実のところ、悪魔からの制裁が「懲らしめ」程度で済むかは人間と悪魔の間で取り交わした契約と、何より信頼関係に依るところが大きい。そして大抵が欲望のまま不健全に悪魔を使役するものだから、想像のうえをゆく意趣返しを被ることも少なくはなかった。


 加えて生命力に通ずる魔力を使い果して、自ら命数を使い果たす欲深い人間もいるわけで、必ずしも悪魔が手を下した例ばかりではないのだが――。

 意地悪くいくつかの逸話をクロは披露しようかとも考えるが、自らが悪評を広めることもないと自重する。


「悪魔は気のいいやつも多いが、他の種族よりも契約に厳格だ。まぁ約束は守れってことだ。決め事を遵守しているうちは精霊や魔獣以上に有益な力を貸してくれる」


 いくらか表現には気を使っているが、エディスの眉根は寄っている。そこに悪魔に対する恐怖心を読み取ろうとしたが、どうやら違うらしい。

 リアに対してもそうであったように、彼女の中にあるのは純粋な興味で、それでも不可解な表情を浮かべているということは、まだ何かを残しているのだろう。


「ちなみにその約束事が書かれたのが魔法陣だ。だから召喚には魔法陣が必要というわけで、俺もこの通り『レメトゲン』と呼ばれる魔導書を常に持ち歩いている」

「……。レメトゲン?」


 エディスは何かに反応したように一度肩を上下させた。それを隠すように言葉を継いだので、クロは気づかぬふりに首肯しては机にある自身の魔導書を指す。


「別名『小さな鍵』なんて呼ばれることもあってな。特に悪魔の召喚に関わる『魔導原書』は『ゴエティエ』と呼ばれている。俺のそれはあくまで写本だけど、オリジナルは千ページにもなるし、七十二もの悪魔との契約について書かれている。それはそれはとぉっても貴重なものなんだが何せ――」


 クロはそこで言葉を切り、突如渋面を浮かべた。唾棄したくなるようなとある人間の顔を思い出したからだ。


「………………くそっ、嫌な奴の顔を思い出した」


 講釈中にクロがいきなり舌打ちしたものだから、エディスは恐々としてリアに小さな体を預けていた。


 思考に帯びた熱がいくらか引いていくのをクロは自覚し、講義が過ぎたようにも思われ、つい冗談のひとつも口にしたくなる。


「さて、無料の授業はここまで。俺は家庭教師ではないが以降は金でももらわないと――」

「あ、あのね! ……お兄さんに見て欲しいものがあるの」

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