Ⅳ 転変の訪れ-3


「またタナトス兄様の所に行っていたの?」

  慌てて海面から飛び出すと待ち構えていたかのように砂浜にセレネが立っていた。今日も私が海底に行っていると予測していたのだろう。

 役目の時間に遅れないよう出て来たつもりだけど、セレネは気を遣って近くで待っていてくれたみたいだ。

「うん。そうだ!今度セレネも一緒に行こう。タナトス兄様とのお話楽しいよ」

「え、遠慮しておくよ…」

  どうせならセレネも海底へ遊びに来てくれればいい。名案だと思ったのに弟の顔は気まずさを全面に出している。

「どうして?遠慮することないのに」

「どうしてって…リオスは本当に鈍感だよね…」

「それどういう意味?」

「分からないならいいよ」

  挙句、呆れた目をされた。セレネは悟ったような物言いが多くなった。

 それはいいのだけど、セレネには理解できて自分には理解できていないことが増えていくのは少し寂しい。

「ちょっとー!鈍感って褒めてないよね!?」

「褒めているよ、君の良い所だ。ほら、夜明けの時間だよ」

「もう、投げやりな言い方ー」

  私は不貞腐れつつも陽を呼び、夜から昼へと空を変える。

 何度も繰り返した二人の役目。これが最後になるなんて思いもしなかった。


  今日も無事に太陽を空に迎え、セレネは休むと言って宮殿へ帰って行った。

 さて、私は何をしようか。身体を伸ばして陽の光を全身で受ける。

 ふと目についた指輪が私を笑顔にした。これはタナトス兄様が私にくれたものだ。

 珊瑚で作られたシンプルだけど愛らしい指輪が私の指に付いている。

  物を貰うことがこんなにも嬉しいなんて。タナトス兄様を通すと時間も物も景色も輝いて見える。

 この高揚感は何だろう。私の今の気持ちを正しく表現する言葉が分からない。胸が高鳴ってそわそわしてしまう。すぐにタナトス兄様のことを考えてしまう。嬉しいのに胸が苦しくなったり、幸せなのにふわふわして落ち着かないの。この気持ちの名前は何だろうか。


  羽ばたく音が聞こえ空を見上げるとそこには懐かしい姿があった。長い時間を眠り続けていたというのに難なく宙を飛び、私の前に綺麗に降り立った。

「お父様!」

「リオス、元気そうだね」

「はい!」

  久しぶりにお会いしたお父様は充分な休息を取られたからか朗らかなご様子だった。回復して体調もいいのだろう、顔色も優れていらっしゃる。

「何か良い事があったのかい?とても幸せそうだ」

「そう見えますか?えへへ」

  最近は笑みが止まらなくて頬が緩みっぱなしだ。セレネには「ずっとニヤニヤしていて少し気味が悪い」とまで言われた。ちょっと心外ではあったが自分が常に笑っている自覚はあるので仕方がない。それに、そんな些細なことはすぐにどうでもよくなる。私は今満ち足りた幸せを感じているのだから。


「私、タナトス兄様とつがいになったのです」

「…何を…言っているんだ」

  一瞬でお父様から笑みが消え、怯えたように瞳が揺れている。そんな変化すら気にも留めず私は言葉を続けてしまう。

「それでですね…私達も子を授かり家族を増やしたいと考えているんです。家族が増えれば必ず楽しくなりますよ」

  浮かれていた私はウラノス兄様の忠告も忘れ、理想をそのまま口にしてしまった。未熟な子供でしかない私は当然お父様も喜んでくださると思い込んでいた。

 この時の自分が愚かしくて呪いたくて仕方がない。



  青ざめた顔をしたお父様は目の前の私のことなど目もくれず、海に魔法を展開した。初めて見る魔法よりも震えた手をしたお父様に私は胸騒ぎがした。

 魔法によって海面に映し出されたのは海の底、タナトス兄様の守護地だった。

「タナトス」

  お父様に名を呼ばれ守護者の彼は振り返り私達を捉えた。どうやら声が届き、向こう側からもこちらが見えているようだ。

「来なさい」

  有無を言わさぬ冷たい口調でお父様は指示を出す。

 何かに怒っている…?怒りを表すお父様を知らない私は恐れよりも戸惑いが勝っていた。

 呼び出されたタナトス兄様がどんどん近づき、やがて映るのではなく海面から彼の身体が現れた。海面の魔法を通じて地上へやって来たのだ。お父様の魔法は遠く離れた地の者と対面できるだけでなく行き来も可能なのか。

  初めて見る魔法、知らなかった表情、感じたことのない空気。

 鼓動の音が警告してくるみたいに嫌に響く。


「タナトス兄様っ!」

  私が飛びつくとタナトス兄様は優しく抱き留めてくれた。

 ちょっと前まで会っていたのに、離れていた時間が何故だか長く感じてしまう。

「…お父様、お目覚めになられたのですね」

「ああ、つい先刻な」

  お父様と視線が合うとタナトス兄様は居た堪れないといった表情をした。私を抱く手の力が遠慮がちに弱まる、私との関係を知られるのが嫌だったのだろうか。

「残念だよ…タナトスは分かってくれていると思っていたのに」

  お父様の様子がずっとおかしい。感じたことのない違和感に不安を覚え私はタナトス兄様に身を寄せる。

「お前がリオスを誑かしたのか」

「何を、仰っているのですか…?」

  お父様の非難の言葉に耳を疑った。私は望んでタナトス兄様の傍に居る。兄様が私を騙したことなど一度もない。どこで誤解が生まれてしまったの。

「…お父様、俺は…」

「口答えをするな!…お前には失望したよ」

  するとお父様は私を引き離すとタナトス兄様を地べたへと叩きつける。

 突然の出来事に私もタナトス兄様も驚きで動き出せずなすがままになってしまった。そしてお父様は乱暴にタナトス兄様の片翼を掴むと躊躇いなく翼をもいだ。

 瞬間、背中から血飛沫のように魔力が飛び散る。

  あまりに凄惨な光景に私の鼓動が止まる。

 今起きていることは現実なの…?夢ならば早く覚めて…今すぐに…!


「ああああああああっ!!」

  激痛からかタナトス兄様の絶叫が響き渡る。 

 ショックで私は声が出ない、傍に駆け寄りたいのに立てなくなった身体は地に張り付いたみたいに動かない。まるで動物を狩るかのようにお父様が子を傷付けるなんて…そんなの嘘だ。

  お父様は続けて残る片翼を手で掴み上げる。痛みからかタナトス兄様が抵抗する様子はない。私が…私が彼を守らなければならないのに。気を失いそうになり、呼吸も満足にできない。

「…や、やめて…」

  私の掠れる声はお父様には届かない。

 再び、翼を捥ぐ生々しい音とタナトス兄様の絶叫が鼓膜いっぱいに響く。

 とうとう私は直視ができなくなり顔を下に向けてしまう。


  私自身に痛みはないというのに胸が握り潰されるみたいに苦しく眩暈がする。

 涙が溢れ出して地を濡らす。込み上げる吐き気で朦朧とする。

  細長い指が伸びてきて私の頬に触れる。恐怖で身を引くと綺麗な顔をしたお父様が膝を着いて私と同じ視線の高さに居た。あれだけのことをして何故綺麗に笑えるのか…分からない…。

「…ひっ」

  嫌だ…怖い…近づかないで…。

 家族に対して初めて抱いた拒絶反応が思考を奪う。

 慄く身体は思うように動かせなくて焦りに繋がる。


「リオスもタナトスと同じ苦しみを味わうかい?」

  お父様の背後で倒れ込むタナトス兄様が見える。

 痛みに耐えながらもこちらを見ている彼と目が合う。

 突然豹変したお父様を怒っているのか、それとも私に助けを求めているのだろうか。今の私には彼の思いを正しく理解してあげることができない…私は何もしてあげられない…。

  罪悪感から視線を逸らしてしまう。想像を絶する苦しさが我が身にも襲い掛かって来るのかと思うと恐ろしさで言葉を返せなかった。 

「良い子だ。リオスは私の傍に居なさい」

  そっと頭を撫でられる感触が恐怖を煽る。好きだったお父様の優しい手が凶器にも思えた。動けない私の身体を抱き上げるとお父様は広範囲に膨大な魔力を放った。


「タナトス、永い間ご苦労様。お前の役目は終わりだ、そのまま星に還りなさい」

  途端、強大な地響きが鳴り響く。世界中が悲鳴を上げているみたいに振動が激しい。するとお父様の足元に亀裂が入り、たちまちに陸が分かたれてしまう。

 大地に高低差が生まれ、タナトス兄様の姿が小さくなる。

 次第に空が近づいてきてあちらの大地が遠ざかっているのではなく、私達の居る地が海を離れているのだと分かる。タナトス兄様を残して上昇は続く。

 このまま別れるなんて絶対に嫌!私はタナトス兄様から離れたくない!

「ま、待って…!嫌…放して…っ!」

  私の力ない懇願は聞き入れてもらえず、お父様は私を抱えたまま空いた手で私の視界を奪う。掌から魔力を感じると抗えない眠気に誘われる、そこで意識が途切れてしまった。




  重い瞼を開けると時は夜の静寂に変わっていた。

 怠い身体を起こすと自分の周囲が金の格子に囲まれている。

 頭上を見上げると格子の先端が中央に集束し空にある筈の月が見えなかった。

 出入口は見当たらず脱出することができない、閉じ込められている…。

  格子越しに見える美しい緑は見覚えがある。ここはレイア姉様の庭園内だろう。

 この檻はお父様がわざわざ作ったのだろうか。私を閉じ込める為だけに、綺麗な庭園に似合わない無粋なもの。

  タナトス兄様は大丈夫だろうか。誰か彼を救ってくれただろうか。彼の安否だけが気になる。

 衝動的に檻を壊そうかと考えた時に気づく、魔力が上手く練れず魔法が使えない。

 堪らなくなって格子を掴んで力いっぱい揺らすがびくともしない。無力感に絶望して座り込んでしまう。

  …私は…何もできなかった…。

 苦しむタナトス兄様を守ることも庇うこともできずにただ怯えただけだった。

 自分の情けなさにまた涙が溢れてくる。どれだけ悔やみ嘆こうと時間は戻らない。


  どれだけの時間、涙を流し続けたか分からない。

 分かったことはいくら泣こうと悲しみは癒えないし、何も変わりはしないことだ。

  草の揺れる音が聞こえ、焦点が定まらないまま顔を上げ格子の外を見る。

 すると闇夜に紛れてこちらに近づいて来る小柄な影が見えた。格子越しとはいえ手が届く距離まで近寄った影は格子を手で掴んだ。彼のただならぬ気配が心配になり傍に行く。

「…セレネ?」

  垂れ下がる髪の毛から覗く瞳は心優しく慎重な彼からは想像もできない、覚悟を決めた瞳に驚いてしまう。そしてセレネは迷うことなく檻を抉じ開ける。

「逃げて」

「…でも」

  私を逃がし、お父様のご意思に反したことが知られてしまえばセレネにまで危害が及ぶ。もう自分のせいで誰かが傷つくのは耐えられない。

「タナトス兄様はまだ生きている。君を待っているはずだ」

「…そんなこと…」

  私はタナトス兄様が苦しむ姿を目の前にしながら何もできなかった。

 彼を守れず一人置き去りにしてしまった。私を恨んでいるかもしれないというのに、そんな私が今更彼に何ができる。

「リオスはいつだって希望を謳ったじゃないか。今、君の望みはなに?」

「…私は…」


  何にも代えられない、たった一人の大切な人だと気がついた。

 このまま離れ離れになるなんて嫌。これは単なる我儘だ。それでも私は…

「…タナトス兄様の傍に居たい…!」

  私の答えにセレネは嬉しそうに目を細めると私の手を取り檻から出した。

 控えめで自己を強く出さない弟はどこか消えてしまいそうな儚さがあった。

 だけど私の手を引く彼は凛としていた。いつの間にか随分と頼もしい人に成長していた。毎日顔を合わせていたのにそんな変化に気がつかなったなんて…私は周りがよく見えていなかった。

「僕にはお父様が正しいのか、リオスが正しいのか分からない。…だけどリオスとタナトス兄様が悲しむ姿は見たくない。お願いだよリオス。君が心から笑顔で居られる場所へ行って!」

  セレネに背を押されて私は海に残る大陸へ向かって飛び出した。

 あなたに会いたい。その思いだけが私を突き動かした。

 私は家族を捨てて愛する人のもとへ翔けて行った。



  逸る心に翼の動きが追い付かない。出したこともない速度に擦り切れるような痛みを感じた気にもならない。今すぐに会いたい一心だけが私を突き動かした。

  ようやく辿り着いたタナトス兄様の傍に降り立つ。背中からの魔力の流失は止まっているようだけど、場所を移動していないところから察するに衰弱で動き出せなかったのだろう。まだ痛みが残るのか彼の顔つきは険しいままだ。

「…帰れ」

  気配を察したのかこちらを見ずに拒絶を吐かれた。

 たった一言なのに重く冷たい言葉で怯みそうになったが堪える。

「嫌です、私一人では絶対に帰りません!帰る時はタナトス兄様も一緒です!」

「今すぐに帰れ!君の居るべき場所は此処じゃない!」

  初めて怒鳴られたことに萎縮してしまう。

 でも私だって覚悟して地に降りた。もう後戻りなどしない。

「…私の居場所は私が決めます!」

「これ以上、君が傷つく姿を見たくない。だからもう二度と俺の前に姿を見せないでくれ」

  私のせいだ。私がタナトス兄様を傷つけ苦しめた。

 お父様から暴行を受ける彼を黙って見ることしかできなかった。もう彼が私を信用できなくなっていても、恐れで共に居ることを拒んでも不思議ではない。それでも私は…


「…できません」

「頼むから…言うことを聞いてくれ」

「嫌です!」

「もう君の優しさが辛いんだ!俺のことなど忘れてくれ…」

「優しさなんて綺麗なものではありません、これは私の欲です…私は今此処で最期を迎えようと後悔はありません…あなたの傍に居られるならそれでいいのです!」

  滅多に欲を口にしない彼が悲痛に上げた願いすら耳を傾けず、一方的に望みをぶつける私は酷く幼稚だ。

 星を、生命を、家族を、目の前の我儘な愚者を。多くを慮るが故に振り回され傷ついた彼は黙り込んでしまった。

「…お願いです…私を愛する人の傍に居させてください…」

  彼の優しさにつけこみ自我を押し通そうとする私は狡く汚い。

 縋るように抱き着くと弱々しく彼の手が私の背に回された。

 もう二度と離れない、その思いが募って手に力が籠ってしまうけど、理性が自分を許せなくて震え出す。今はただこの人の傍に居たいだけなのに、ぐちゃぐちゃな感情で壊れてしまいそう。

「…すまない」

「謝らないでください」

  謝らないで。あなたは何も悪くないから。私は自分の罪と向き合うのが怖くて、彼を道連れにする自分が醜くて…今は何も考えたくなどなかった。

「……ありがとう」

  いつだって頑固な私を温かく受け止めてくれる。

 遠慮ばかりする優しい人。私が幸せにしたいと強く願った人。

 私はこの人を欲した。手放したくないと明確な欲を持ったんだ。

 感情を強く揺さぶるこの想いを自分ではどうにもできない。

 

  私のせいで世界が壊れてしまった。

 お父様の望む子供ではいられなかった。兄弟の平穏を奪ってしまった。

 私の願いが狂わしてしまった。それでも私は…欲を捨てることができなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る